空を穿つ
『ああ、久しぶりに見てもいい男……地獄だろうと地上だろうと、お前の美しさは変わらないのね……』
「で、誰だお前は? 悪いが、雑魚の声をいちいち覚えているほど暇ではない」
船内に響く女の声。
その声は親しげにクロウに話しかけるけど、クロウは不思議そうに首を傾げるだけだ。
『そうでしょうね……お前にとってはこのマーキス・オーレリア・シャックスですら、他の虫けらどもと同じ。そしてだからこそ……お前は誰よりも強く、誰よりも美しかった』
「侯爵……!」
「馬鹿な! それほどまでに強大な悪魔が、いつの間に地上に潜んでいたというのだ!?」
オーレリアと名乗る悪魔の爵位の高さに、私の背筋が一瞬で凍り付く。
ロンドンタイムズで戦った伯爵でも、私が相手取れるぎりぎりの爵位だった。
同じ侯爵のナイアは味方だったからいいけど、敵として対峙すればとても私の手に負えるような相手じゃない。だけどね――
「くだらん、お前は昔話をするために出てきたのか? 俺と戦いたいなら、さっさと姿を現したらどうだ」
『フフ……強がりはやめることね。かつてのお前ならまだしも、今のお前にはこの船を沈めてまで私を噛み砕くことはできないでしょう? 醜い魔女の首輪に媚びへつらい、飼い犬に落ちたお前はもう美しくも強くもない……! ここで私が殺してあげるわ!』
「いいや、彼は私の飼い犬なんかじゃない。彼は私の……大切なパートナーだ!」
瞬間、私は引き抜いたウィッチステッキを床に叩きつける。
それと同時に飛行船全体がまばゆい光に包まれ、悪魔だけを滅ぼす魔力が炸裂する。
『ギ、ギェアアアアアアアアアアアア!? こ……こ、れ……は……ッ!?』
「君が悠長にクロウと話している間に、君がどこに隠れているのかを調べさせてもらったんだ。そしてその結果がこれ……今の君は『この船そのもの』だ。だから君の本体とも言える心臓も、この船の中に存在している。なら、船ごと私の魔力を流しこんでやればいいだけさ!」
『ギャアアアアアアアアアアアアアア!!』
この船は、船体の大部分に真鍮が使われている。
だから一瞬でこの悪魔の正体も探れたし、普段は使えないような大魔術も展開できる。
たとえ相手が侯爵だろうと、それ以上の相手だろうと。
私の心が折れることはない。
だって、今の私には――!
『お、おのれ小娘ぇぇえええ……! かくなる上は、この私の全てをもってお前たちを空の藻屑にしてやる――!』
「逃げたな。追うぞ、アリス!」
「もちろん!」
「ま、待て! 私も行くぞ!」
私には、少し手はかかるけど誰よりも頼もしい同居人がいるんだ。
私だけの力では対抗できなくても。
たとえクロウの力を封じるような、卑怯な手を使われても。
私たち二人なら、いくらでもやりようはあるんだよ!
「悪魔の気配が外に出た! 船から引き剥がすことはできたみたいだね」
「悪魔め! 絶対に逃がさんぞ!」
突然の騒乱に怯える乗客たちを避けながら、私たちは悪魔を追って飛行船の甲板へ。
凄まじい突風と彼方まで広がる雲海、そして青い空の世界に飛び出した。
『ククク、アハハハハハ! 見えるかしら? この私の美しい姿、素敵だと思わない!?』
「な、なんだこれは……!?」
「まさか……『空と一体化』した?」
けど甲板を出た私たちを待っていたのは、私たちが良く知る空じゃなかった。
青も白も灰色も、空を構成する全ての色が不気味にうねり、ヘビやミミズのように脈打つ不気味な世界。
そしてそこから響く悪魔の声は、文字通りこの空全てが巨大な化け物になったことを意味していた。
『私は美しいものが好き。美しいものと一つになることこそ、至上の喜びにして私の力! だからこの船も、この船に乗る人間どもの金銀財宝も、この宝石のように青く澄んだ空だって私のものよッ!』
「おのれ……! 神が作りたもうた天が悪魔に奪われるなどと!!」
『フフ、その男は教会のエクソシストかしら? そういえば……お前たちが必死に頭を下げるあの薄汚いジジイは、『こんなもの』を大事そうに守っていたわよ?』
悪魔そのものと化した空からオーレリアの声が響く。
そして悪魔が私たちの前にこれ見よがしに浮かび上がらせたのは、黄金に輝く『純金製の天使像』だった。
『なんの魔力も神力もない、ただ美しいだけの純金の像……お前たちは悪魔を邪悪とののしるけれど、人間の欲望だって大したものじゃない? ねぇ?』
「そ、それは……」
オーレリアの揺さぶりに、キリアンは甲板に片膝を突いてうなだれる。
正教会の教義は、『富みすぎること』と『過度な偶像崇拝』を禁じている。
仮にも枢機卿ともあろうものが、その両方を軽々と踏み越えてくるなんて……特に熱心な信徒でもない私でもがっかりだよ。
ましてや、彼の信仰心は私の比じゃない。
その心中は察するにあまりある。
「黙れ悪魔め! 私とて……頭ではとうに理解しているのだ! 魔女を異端とののしりながら、その魔女の力を借りなければ人々を守れぬ矛盾! 富むことを禁じながら、富がなければ祈れぬ矛盾! この世は、決して信仰と教義だけで形作られてはいない。だから――っ!」
「立て、キリアン。敵を前にして泣きわめくことがお前の仕事か?」
けどその時。必死に自分を保とうとするキリアンに、静かに……だけどとても力強い声でクロウが語りかけたんだ。
「はうっ!? ああっ……!?」
「俺がお前と過ごした時間は僅かだが、お前からは一度も嘘や偽りの匂いを感じなかった。アリスを馬鹿にすることは許さんが……お前は、『まあまあいい奴』だ」
「い、いい奴……? 悪魔である貴様が、エクソシストである私を心の底から愛おしいと!?」
いやそこまでは言ってないよね!?
もしかして、今のショックで耳まで腐っちゃったのかな。
「神への想いも、街の奴らを守りたいという想いも、どれもお前の本心のはずだ。違うのか?」
けど驚いたね……。
きっとクロウは、彼なりにキリアンを励まそうとしてるんだ。
あのクロウが、私以外にそんなことをするなんて……なんだか、子供の成長を見る親の気分だよ。
――でもそれはそれとして、どうしてキリアンは『想い人を前にした乙女』みたいな顔でハアハア息を荒げているんだろうね。
「嘘ではない……ッ! 私の気持ちに、私の信仰に偽りはないッ!!」
言いながら、キリアンは乱れた銀髪をかき上げながら立ち上がる。
宿敵のはずの悪魔に支えられた彼の目は、これまで見た中で最も強い決意と覚悟に輝いていた。
『馬鹿ねぇ……この空と私が一つになっている限り、お前たちが私に勝てるわけないのに。そうよ、今の私は王よりもずっと美しい! 死ね……クロウッッ!!』
オーレリアの声が雷鳴のように響き、『周囲の空そのもの』が不気味な大口を開けて私たちが乗る船目がけて襲いかかる。
けど私はクロウを中心にして、持ち直したキリアンと一緒に悪魔の空に対峙した。
魔女とエクソシスト、そして悪魔王。
後にも先にも二度と結成されないようなパーティーだけど、不思議と負ける気はこれっぽっちもしなかった。
「じゃあ行くよ! 二人は私に合わせて!」
「うむ!」
「いいだろう! 魔女にばかりいい格好はさせん!」
先陣は私。
私は即座に甲板から船全体に魔力を流し込むと、さっきと同じ要領で、今度は周囲の空目がけて嵐のような轟雷を発生させる。
『あらあら、それで精一杯なの? 空と一つになった私に、いまさら雷なんて痛くもかゆくもないわ!』
「神よ、我に力を――!」
けどその瞬間、キリアンがずっと担いでいた十字架が彼の意志に反応して天高く飛翔。
空中でいくつものパーツに分割。神力の光を帯びたそれは、広大な天上に天使の輪のような巨大な光輪を描く。
そしてその光輪は、放たれた私の雷撃を吸収して増幅。
それまでとは桁違いの、見渡す限り空の彼方まで届く無数の浄化の矢を降らせたんだ。
「滅びよ! 貴様にこの空を汚させはしない!」
『ふん、それがどうしたって言うの? たしかに人間としてはなかなかだけど、それでも私の空全てにはこれっぽっちも届いちゃいないじゃない!』
「いいや、見つけたぞ」
『悪魔王――ッ!?』
荒れ狂う雷撃と降り注ぐ浄化の雨。
四方八方全てを埋め尽くす魔力と神力の嵐の向こう。
眼光鋭く黒い爪を構えたクロウが狙う先に、私とキリアンの攻撃を完璧に弾く『何もない空間』がぽっかりと浮かび上がる。
『ま、まさか……最初から私の本体を見つけるために!?』
「正直、賭けだったけどね。まあ君のその性格なら、きっとこの船のすぐ近くで私たちが苦しむ姿を見ているだろうと思ったよ」
「たとえこの美しい青空と同化しても、貴様のその醜悪な性根までは変えようがなかったようだな!」
『ち、ちくしょう……! 人間ごときがぁぁあああ……ッ!!』
罠にはまったことを悟ったのか、オーレリアの核が凄いスピードで船から離れていく。
けど、もう遅い。
『い、嫌よ……っ! ねぇどこにいるのッ!? どうせ今も『見ている』んでしょう!? お願いだから、私を助け――!』
「駄目だ」
風が止まる。
いや、クロウが放つ圧倒的な死の気配に、空と一つになった悪魔の心が恐怖で震え上がったんだ。
炸裂。
そして、全てを抉り取る黒い衝撃。
振り下ろされたクロウの手。
そしてそこから離れた漆黒の爪。
そのあまりにも凄絶な力の奔流は、醜く歪んだ空を果てまで斬り裂き、破滅的な規模の爪痕を雲空に刻んだ――。




