万色の信仰
「――では、突然室内に現れた悪魔が枢機卿猊下の私物を持ち去ったと。そういうことですね?」
「そうだ! あの邪悪な悪魔は儂の目の前に現れ、パリの大聖堂に届けるはずの貴重な品をかすめ取っていきおった!」
クイーン・ヴィクトリア号にある、ロイヤルスイートルーム。
広々とした室内に豪華絢爛な内装が施されたその部屋の主は、駆けつけた私やキリアンの前で怒りも露わにそう吐き捨てた。
「あの悪魔はまだこの船内にいるはずだ! 今すぐ隅から隅まで探し出し、奪われた品を取り戻してくれ! 無論、悪魔は一欠片も残さずに浄化せよ!」
「どうか落ち着いてください、キャベンディッシュ猊下。猊下のお言葉どおりここは雲の上。船が地上に降りるまでには、まだ幾らかの猶予がございます。ですからまずは、乗客の身の安全確保を――」
「黙れ! 汝ら高位階エクソシストの役目は、この世の清浄を悪魔から守護することであろう! ならばこの地上で『最も尊い光である儂』の言葉こそ、汝らが優先するべき使命のはず! 違うか!?」
「猊下……」
やれやれ……この場には私たちもいるっていうのに、ずいぶんと勝手なことを言う。
まるで天使の羽のように軽やかな舌を持つご老体だ。
この今にも血管が切れそうな老人の名は、アリスター・キャベンディッシュ。
イングランド正教会に八人しかいない枢機卿の一人で、由緒ある大貴族出身というこのイングランドでも指折りの有力者だ。
そしてどうも彼の乗船旅行は『お忍び』だったようで、キリアンも彼がこの船にいることは事件が起きるまで知らなかったらしい。
「ですが猊下! やはり乗客の安全が確保されないことには、船内での悪魔の捜索と交戦はあまりにも危険すぎます!」
「エクソシストの分際で、枢機卿である儂に意見するというか!? さっさと悪魔を探しにいかねば、汝も――!」
「承知しました。ではご命令どおり、この船に潜む悪魔はすぐに見つけ出してご覧に入れましょう。猊下におかれましては、引き続きごゆるりと空の旅をお楽しみください」
さすがに可哀想になった私は、横からキリアンに助け船を出す。
まだ怒り足りない様子の枢機卿に向かってうやうやしく頭を下げると、私はキリアンに目配せしてその場に背を向けた。
「なんだね君は? 見たところ、正教会の者ではなさそうだが……」
「私の名前はアリス・ベル。ロンドンで私設魔女をやっている者ですよ。では、また後ほど」
「ま、まま……魔女だとぉぉぉおおッ!? なぜこの船に異端の魔女がいる!? よもや、あの悪魔も貴様が呼び寄せたのではあるまいな!? おい、聞いているのか!? お――!」
はい、バタン。
枢機卿はまだ何か喚いていたけど、私は無視して後ろ手に扉を閉める。
防音の効いたご立派な扉のおかげで、ようやく静かになった。
「うるさいジジイだ。外まで聞こえていたぞ」
「中はもっとうるさかったよ。ちゃんと待ててえらかったね」
「うむっ! 俺は利口だからな!」
部屋の外では、仏頂面のクロウがいい子で待っていた。
まあ、クロウは私に褒められてすぐに大喜びだけど。
「……すまない。気を使わせてしまったな」
するとその時。
それまで私の横で俯いていたキリアンが、ぽつりと呟いた。
「お気になさらず。ただ失礼を承知でお尋ねしますが、枢機卿というのはみなさんああなんですか?」
「そんなことはない! 断じて、そんなことは……」
その声は、これまでの彼とは違う弱々しい声だった。
「正教会は大きな組織だ……その中には様々な考えを持つ者がいる。きっと猊下には、私になど及びも付かないお考えがあるのだろう。だが――」
キリアンはそう言うと、悔しげにその両手を握り締める。
「猊下が悪魔に奪われた品は、本当に乗客の命より優先すべきほどの物なのか? 少なくとも私がこれまでに学び、信じてきた正教会の教えには、人々の命より尊い宝など存在しなかった……っ!」
……そうだね。
私もそう思うよ。
枢機卿の言動に肩を震わせて憤るキリアンを見ながら、私は少し安心していた。
教会にも色々な考えの人がいる。
騎士団のヴィオみたいに、仲良く付き合える人もいるかもしれない。
頭ではそうわかっていても。
口では協力を惜しまないなんて言っていても。
やっぱり、実際は私も割り切れていなかった。
「なら、私たちで守ればいい。悪魔を倒し、猊下の品も取り戻す。もちろん、この船にいる誰一人傷つけさせずに。そうすれば、あの人だって文句のつけようもないでしょう?」
「それは……」
でもたった今このキリアンが口にした『当たり前の言葉』は、彼らが同じ人間だってことを思い出せてくれた。
なら後は、実際に母さんの仇とだって協力できるところを証明するだけだ。
「……君の言うとおりだ、アリス・ベル。今の私の使命は惑うことではない。邪悪な悪魔の手から人々を守ることだ!」
そう言って、キリアンは知り合ってから初めて、私とクロウの前で笑った。
その笑顔がどういう意味なのかはわからないけど、少しは私たちを認めてくれたってことでいいのかな。
「なら急ぎましょう。潜んでいる悪魔をあぶり出すなら、いくつか心得があります」
「わかった。だがまずは私たちで乗客を船内の守りやすい位置に集め、飛行船を最も近い陸地に避難させよう。悪魔の捜索はその後に――」
『フフ……馬鹿な奴ら。この私がそんな時間を与えるとでも思っているのかしら?』
けどその時だった。
船内通路に立つ私たちの四方から、まったく同時に甲高い女の馬鹿にするような声が響き渡る。
『この美しい空で逃げ場がないのはお前たちも同じこと。それにここの人間共を守りながらじゃ、どれだけ強くても全力は出せない……それはそこにいる『狼さん』だってそうでしょう?』
その声を聞いて、クロウは軽く鼻で笑う。
そして見えない声の主を見据えるように、その黄金の瞳を鋭く細めた。
『地獄では相手にもされなかったけれど、この青い空の下ではどうかしら? ねぇ、悪魔王……!』




