日常
「さて、と……そろそろかな?」
キッチンの壁にぶら下がった小さな時計の文字盤をチェックして、私は目の前に置かれた高圧蒸気鍋のノブをくるくると回す。
すると鍋の内側から大量の蒸気がけたたましい音と共に吐き出されて、狭いキッチンを一瞬で白く染め上げてしまった。
「いい匂いだ! 早く食わせてくれ!」
「まあ待ちなって。こっちは私がやるから、君はテーブルの準備をしておいてよ」
「いいぞ!」
ミトンをはめた両手で、蒸気鍋のぶ厚い蓋を持ち上げる。
解放された湯気が私の鼻先をかすめ、その向こうにはかぐわしい香りのソースと、ぶつ切りの羊肉に牛すじ。
それになんとか形を留めている根菜と、あらかじめ入れておいたハーブが煮込まれたシチューが見えた。
「うん、我ながらいい出来だ。自分のあまりの有能さが怖くなるよ」
ナルシストなつもりはないけど、こうも狙い通りに美味しい料理が作れるとつい自画自賛してしまう。
子供の頃、母さんは私のああ言えばこう言うひねくれた性格に、「嫁の貰い手がいなくなる」なんて言ってたっけ。
でもそんな母さんも、娘がこんなに見事な料理を作るようになったって知れば、考えを改めるしかなかっただろうね。
――――――
――――
――
「お待たせ。じゃあ食べようか」
「いただくぞ!」
もう何度目かもわからない、手のかかる同居人と二人の夕食。
今晩のメニューは、精肉店のおじさんにタダでもらった固い牛肉と羊肉の端切れ。
それを高圧鍋に適当に入れて、ワインベースのルーで煮込んだ放り込みシチュー。
付け合わせには、塩とハーブを加えて焼き上げたセイブリースコーン。
ついでに、近所の葉物店でもらったキャベツの切れ端のサラダもある。
「う、うまい! やはりアリスは最高だ!」
「ふふん、せいぜい感謝するんだね」
「感謝する! ありがとう、アリス!」
ふふ……。
本当に君は、いつだって大喜びだね。
正直な話、一人の時はここまでちゃんと料理をしたりはしていなかった。
作ろうと思えば作れたけど、疲れていたり、面倒だったりで、作り置きしておいたスコーンとチーズ、ハムあたりで適当に済ませることが多かった気がする。
けどこの目の前にいる無駄にイケメンで声のいい大男には、当たり前だけどそんな食事じゃ到底足りない。
それに……彼は私が作った物なら、どんな料理でも喜んでくれるものだから、なんだか、気がついたら毎日作るようになっていた。
「それにしても、今朝のティムの記事は実に素晴らしかった!」
「そうだね。あまりにも良く書かれすぎているから、少し恥ずかしいくらいだけど」
柔らかくほぐれた牛すじを美味しそうに頬張りながら、クロウは上機嫌でそう口にした。
リッパーズグレイとの抗争から数日後。
先月から入院していたティムは無事退院して、ついにロンドンタイムズの一面に彼の書いた記事が掲載された。
そこにはロンドンタイムズ本社での悪魔との戦いの顛末はもちろん、それを解決した私とクロウ、そして名前は伏せられているもう一人の魔女――ミルトの活躍が事細かに描かれていた。
「俺のことも、『魔術で猫や犬を従える立派な王様』と書かれていたぞ! 素晴らしい記事だ!」
「そ、そう……良かったね」
多分、あの記事を読んだ人が一番疑問に思うのは君だと思うよ……。
クロウは『見た目の破壊力』が強すぎるから、あまり目立ってほしくはないんだけど……まあ、心配してもしょうがないか。
「アリスは嬉しくはないのか? この前のパブの一件もそうだが、魔女の活躍が街中に広まるのは良いことではないのか?」
「嬉しくないって言ったら嘘になるよ。けど、やっぱりそれだけじゃないかな」
「ふむ?」
そう。残念だけど、手放しには喜べない。
魔女が悪魔と戦う力を持っていて、それが街や人の命を守るためにどれだけ役に立つとしても。
それでも、魔女への迫害や偏見は百年近く経っても消えなかった。
理由は色々あるけど、とにかく魔女を良く思わない人たちと、その人たちの魔女への嫌悪感はとてつもなく強固なんだ。
「もちろん、この街に住むほとんどの人は魔女なんて遠い世界の存在で、実際はどうでもいいと思っている人ばかりさ。だから私もご近所とは仲良くできるし、ヴィオみたいな友達だっているんだからね」
「だが数は少なくとも、『決して魔女を認めない者』もいる。そういうことだな?」
「そう。そしてそういう人たちが、この記事を見てどう思うか……考えただけでゾッとするよ」
たとえ少数でも、本気で自分たちの世界に魔女の存在を認めない勢力は存在する。
そういう人にとって、きっとティムの記事は自分たちへの攻撃や挑戦……そういう風に映っているだろう。
世間からの風当たりは、多少柔らかくなるかもしれない。
けど、魔女を決して認めない相手からの視線はより鋭くなる。
あまり楽観はしていられないね……。
「心配するな。アリスは俺が守る」
食事を終えて、片付けのために食器に手を伸ばした時。
クロウは真剣な眼差しでそう言った。
その金色の瞳があまりにも本気すぎて、私は思わず、照れ隠しみたいに目を逸らして席を立ってしまった。
「……はいはい、わかってるよ」
「必ずだ」
「っ……」
いつものように受け流して、食器を片付けようとした私の手に。
不意にクロウの大きな手が重なった。
「だ、大丈夫だって。別に、今すぐに何かあるわけでもないし……」
「いつかは問題ではない。今日だろうと明日だろうと、俺はアリスと一緒にいる」
「うぐ……まあ、うん……わかったよ。ありがとう……」
強くて、熱い。
掴まれているわけでも、力を込められているわけでもないのに。
私の全身は、ただ重ねられただけのクロウの手から逃げられなかった。
「あのさ……」
「うむ?」
「せっかくだから、今夜は……魔力補給、しても……いいかなー……なんて……」
「うむ!?」
や、やってしまった。
これじゃあまるで、私から誘ったみたいじゃないか……っ!
クロウの手から伝わる熱と、私しか映していないまっすぐな眼差しに絆されて、思考が完全におかしくなってるみたいだった。
「そ、そうか? う、うむ……ならば、どうする?」
「ちょ、ちょっと!? いつもは大喜びするくせに、どうして今日は君まで緊張してるの!?」
「う……なぜだろうか? 俺もアリスが好きすぎて困っている……」
「す、好き過ぎるって……それは、私も嫌じゃないけど……」
あ、あれ……?
なに、この空気……?
まるで、今から色々と初めてなことをしようとする新婚夫婦みたいな……いや、魔力補給はもう何度かしてるし。そ、それ以上のことなんて……!
「アリス……」
「え……? ま、待って……! 魔力補給……魔力補給だよね!? ただ一緒にくっついて寝るだけだよね!?」
けど焦る私をよそに、クロウは熱に浮かされたみたいな顔で近付いてくる。
私も全然抵抗できないし、このままじゃ本当に――!
――ガンガンガンガンッ!
『魔女のアリス・ベルはいるか!? イングランド正教会、異端審問局だ! 速やかにこのドアを開け、職務に協力せよ!』
その時。完全に抵抗する気もなくなっていた私の耳に、無遠慮に叩かれるドアの音と、自信に満ちた男の声が届く。
その声は、うら若き乙女な私に差し伸べられた救いか。
それとも、馬に蹴られて地獄に落ちる邪魔者なのか。
そんなの、私にはもう判断がつかなかったけど。
盛り上がりまくっていた私とクロウの雰囲気は、突然割り込んできたその声で、一気に現実に引き戻されてしまったんだ。




