二人の夢
「――貴方は、いつも一人ですね」
声。
声が聞こえる。
どんなに記憶を辿っても、一度も聞いたことのない声。
まるで、大聖堂の鐘の音のように清廉で。
氷のように冷たい、『白い声』が。
「一人では駄目なのか?」
答えたのは、もう一つの声。
見知らぬ闇の中に放り出されていた私は、もう何度も聞いたその声に安堵した。
まるで、天まで届く竜巻のように凶暴で。
炎のように熱い、『黒い声』だ。
「この広い地獄でただ一人。寂しくはありませんか」
「どうでもいい」
「意味も目的もなくただ喰らい続け、もはや誰もが貴方を恐れ、近付くことも、声をかけることもない。私はそんな孤独の中にいる貴方を、『救いたい』と思っているのですよ」
救いたい。
白い声は確かにそう言った。
哀れみと同情と、揺るぎない自負を感じる声だった。
「いらん。それ以上くだらぬ話をするなら、お前も噛み砕くぞ」
「そうですか……ではこの話はここまでにして、お茶の時間にしませんか? 実は先日、地上で『いい茶葉』が手に入ったので、ぜひ貴方と楽しもうと思いまして」
「またか。まあ、いいだろう」
緊張はほんの一瞬だった。
二つの力の矛盾はすぐにほどけて、何事もなかったかのように弛緩して遠ざかっていった――
――きっと、これはクロウの記憶。
地獄には何もないと言っていた彼の、実際に途方もない時間に引き延ばされて希薄になった、砂粒みたいな記憶の断片。
私はたった今聞いたこの声のやりとりを、前に『どこかで聞いた覚えがある』ような気がした。
けどそれをはっきりと思い出すより先に、私の意識は速度を増して覚醒へと引き上げられていった――。
――――――
――――
――
「おいしい……」
思わず、そう呟いていた。
目の前には、私の反応を今か今かと待っていたワンコ……じゃなくて、クロウがいる。
結局、あのまま意識を失ってしまった私は、キッチンから聞こえる料理の音と、温かな香りで目を覚ました。
どうやら、クロウはちゃんと買い物が出来たらしい。
作ってくれた病人食も普通に美味しくて……どんなに抗おうとしても、私の『ひねくれた心』の奥から湧いてくる彼への感謝の気持ちは、もうどうしようもなかった。
「ありがとう……大変じゃなかった?」
「平気だったぞ! 街の人間もよくしてくれたしな!」
なんでも、クロウが立ち寄った食材店の女主人が随分と彼を気に入ったらしい。
必要な食材以外にも、いくつもおまけを貰ったと得意げに話してくれた。
「俺がアリスのために来たと話すと、みんな俺の事を褒めてくれた! アリスの心配をしている者も大勢いたぞ」
「はは……私もこういう時のために、普段からご近所付き合いには力を入れている方でね」
実際、母さんがこのブラスゲートに住んだのは、ここが『比較的魔女に寛容』な土地柄だったからだ。
ブラスゲートは大陸から渡って来た移民とか、ロンドン以外のよそ者が多い地区だからね。
「ごちそうさま……今回は完全に君に助けられてしまったね」
「つがいを助けるのは当然のことだ。それより具合はどうだ?」
「さっきよりは大分マシだよ。ありがとう、本当に……」
「そうか」
いつもなら否定する『つがい発言』だけど、流石に今は突っ込む気力もない。
というより、その時のクロウのほっとした表情を見た私は、何も言えなかったんだ。
「よかった……心配したぞ」
「……」
クロウは呟くように言って、微笑んだ。
その笑顔はとても綺麗で、子供っぽい。
そしてどれだけ彼が私を心配していたのかを、これ以上ないくらいに伝えていた。
何も言えず、ただ強すぎる顔面を見つめることしかできない私をよそに、クロウはすっかり陽の落ちた窓のカーテンを閉めて、ランプに火を灯した。
そしてまた、私のおでこに冷たいタオルを乗せてくれた。
「では、俺はまた湯を沸かしてくる。もし何かあったら――」
「……待って」
横になった私を残して、椅子から立ち上がろうとしたクロウの手。
私はその大きな手を握って、はっきりと引き留めた。
「どうした?」
「魔力補給……してもいいよ」
「うん? ………………な、なんだとッ!?」
私の言葉に、クロウは知り合ってからこれまでで一番っていうくらいにうろたえた。
尻尾もブンブンしたり、でもしゅんとしたりして……まったく、本当にわかりやすいんだから。
「嬉しくないの?」
「う、嬉しいが……まずは病を治してからだろう!?」
「へーきだよ。私も横になってる間に母さんの魔術書を見直していたんだけど、どうも魔力補給っていうのは、私の魔力を君に分け与えるわけじゃないみたいでね」
魔女の力の源は、地獄にある。
魔女は遠く離れた地獄と繋がって、そこから井戸水みたいに魔力を汲み上げる。
けど地上に出た悪魔は、魔女のように地獄と繋がることができない。
悪魔が地上で人を襲うのは、その魔力不足を人で補おうとするからだ。
だから悪魔と契約をした魔女は、使い魔になった悪魔の代わりに地獄から魔力を吸い出して、自分の体を通して与えてあげる……これが、魔力補給の大まかな流れだった。
「つまり、別に私が病気だろうとなんだろうと、魔力補給は出来るし体調にも関係ないってこと。それに、なにもあの二人みたいにくっつかなくても、こうして手を繋いでるだけでも全然いいみたいだしね。どう、理解した?」
「むぅ……まだよくわからんのだが、本当にいいのだろうか?」
私がこれだけ説明したのに、クロウはまだ眉間に皺を寄せてオロオロしている。
やれやれ……いつもはこっちが困るくらい押してくるくせに、こういう時は気が利かないんだから。
「今は、私の傍にいて欲しいってことだよ……ここまで言って、まだわからないのかな?」
「……む、わかった」
「よろしい」
そう言って、握ったクロウの手にそっと力を込める。
そして少しだけ私の方に引き寄せて、彼の熱を感じながら目を閉じた。
「ありがとう、クロウ……」
「ん……」
魔力補給なんて初めてで、本当にこれで合っているのかもわからなかったけど。
気がついた時には私もクロウもすやすや眠っていたし、体調も悪くなるどころか翌朝にはちゃんと治っていた。
ただ、一つ問題があるとすれば。
この日一人で買い出しに行ったクロウが、街で私との関係を『つがい』だって堂々と公言していたせいで、しばらく火消しに追われたことくらいかな……。




