からっぽの王冠
「待ちなアリス。最後にあの色男の検査結果を渡しておくよ」
工房での用事も終わり、整備を頼んでいたいくつかの仕事道具も受け取った後。
荷物をまとめる私を、マーサ姉さんは神妙な様子で呼び止めた。
「こいつがあの悪魔についてのレポートだ。中身は帰ってからにでも確認しな」
「わかったよ。ありがとう、姉さん」
「まったく、暢気なもんだね……もしかしたら、この『世界の運命の手綱』はアンタが握ってるかもしれないってのに」
私が世界の運命を握ってるだって?
雑多な数字の羅列が書き殴られた紙束を私に押しつけ、姉さんは呆れたように首を振る。
「あの悪魔の力はここで測定できる限界を振り切っている。悪魔王ってのが本当かどうかはわからないが……アイツは間違いなく、『この地上に現れた悪魔の中で最強』だ。それも、ぶっちぎりでね」
「そ、そんなに凄いの?」
「凄いなんてもんじゃない……だがどういうわけか、あの悪魔はアンタにベタ惚れだ。アタシもアンタが外にいる間に色々と探りを入れてみたんだが、なにを聞いても『アリスが好き』の一点張りときたもんだ。アンタ、一体あの色男に何したんだい?」
そ、そうだね……それは私も覗いてたから知ってるよ。
けどそれを知らない姉さんは、作業用ゴーグルのダイヤルをクルクルしながら私を探るように睨んできた。
「別に……私はただ、クロウが傷だらけで弱っていたところを手当てして、使い魔にしただけだよ」
「使い魔ねぇ……? だが、使い魔ってのはそもそも――」
私の言葉に納得がいかないのか、姉さんは片眉を上げてさらに疑うような視線を向けてきた。
そして使い魔の契約について何かを――
きっと、さっきクロウに言っていた『術者より強い力を持つ悪魔は従えられない』っていうルールを説明しようとして……なぜか止めた。
「あー、やめだやめだ! 今さらどう足掻こうが、もうあの悪魔はこのロンドンでアンタと出会っちまった。しかも見たところ、アンタら二人の関係もなかなか良好そうじゃないか? なら、アタシみたいなロートルは引っ込んでるのが筋ってもんさねぇ!」
姉さんはそう言って、汚れた作業ゴーグルを外した。
そして皺だらけの目元を満足そうに細めて、姉さんは本当の孫を見るみたいな眼差しで私に微笑んだ。
「頑張りなアリス……アンタだってもう立派な魔女なんだ。もしローズマリーが生きていれば、きっとアタシと同じことを言ったはずだよ」
「むぅ、なんだか勝手に納得されたんだけど……」
「それだけ繊細な問題ってことさ。少なくともアンタたち二人が今の関係を悪くないと思っているなら、部外者の口出しは野暮ってもんさね。それに、ようやくアンタの周りにも『色恋の風』が吹いてるみたいだしねぇ? ヒッヒッヒ!」
「い、色恋って……っ!? そんなの全然吹いてないからっ!」
「ヒーッヒッヒッヒ! せいぜいうまくやることだね。このアタシも、一足先に雲の上にいっちまったローズマリーも、いつだってアンタのことを応援してるからねぇ!」
――――――
――――
――
「――ちょっと聞いてもいい?」
「なんだ?」
姉さんの工房からの帰り。
夕暮れに赤くくすんだロンドンの大通り。
蒸気スクーターの軽快なエンジン音を心地よく感じながら、私は後ろに座るクロウに声をかけた。
「クロウはさ……地獄にいた頃は何をしてたの?」
「寝ても覚めても戦っていたが……なぜそんなことを聞く?」
「ん……少し気になったんだ。クロウは私を守るって言ってるけど、君にも家族とか友達とか……地獄に置いてきたものは色々あるんじゃないの? そういうの、寂しくないのかなってさ」
気になった。
私はこの時、初めてクロウの過去が気になったんだ。
正直これまでは、そんなことを考える暇も余裕もなかった。
もしそんな私に『気になるのが遅過ぎる』なんて笑う人がいるなら、ぜひ一度『超絶に顔と声が良くておまけに押しまで強い全裸のガチムチ変態悪魔と同居』してみるといい。
きっと私の気持ちがわかるはずさ。
「ふむ……『無いな』」
「え? 無いって……家族も友達も、置いてきた物もないってこと?」
「そうだ。地獄にいた頃の俺は服も道具も持ってなかったし、面白いと思った奴や気の合う奴も、しばらく会わない間に勝手に死んでいた」
「そうなんだ……」
平然と聞かされるクロウの地獄での日々。
私には異常な日々でも、彼にとってのそれは特別でもなんでもない。
きっとクロウ自身もただ当たり前のことを、普通に話しているだけなんだと思う。
だけど――
「俺が地獄で持っていたのは、今ここにある『俺という存在だけ』だ。そして戦いの中でのみ、俺は俺自身をはっきりと感じることができた。だから俺は戦い続けた。楽しかったからな」
「そっか……」
戦いだけの日々を、クロウは楽しかったって言った。
だけど、私にはあまりそうは見えなかった。
だって私の知っているクロウは、私に服を着せられたら心の底から嫌そうな顔をして、私の作ったランチを見たら、子供みたいに目をキラキラさせて大喜びしてくれる。
ロンドンの街中に光るガス灯に本気で驚いて、貧民街で飛び出してくるネズミに大興奮する……それが、私が今日まで見たクロウだったから。
「だが……周りが俺を『王』と呼ぶのは不思議といい気分だった。今思うと、何も持たぬ俺にとって『王という呼び名』だけが、あそこで手に入れた『唯一の物』だったのかもしれん」
風に混じって届くクロウの声は、冷たかった。
とても空虚で、乾いていて、飢えている。
一緒にいる時の彼しか知らない私には、それがとても寂しく感じた。
「なら、今は前よりも楽しいってことかな?」
「もちろんだ! 以前の俺には、他の奴らがなぜ地上に行こうとするのかさっぱりわからなかった。だが今はわかるぞ! ここはとても楽しい場所だ!」
ほら、やっぱりね。
「なにより、ここにはアリスがいるからな!」
けど気分の上がったクロウは、おもむろに私の背中に体を寄せてきた。
せっかく人が同情的になってたのに、すぐに調子に乗るんだから……。
「わ、わかったよ! わかったから、少し離れて……っ」
「では次はアリスの話を俺に聞かせてくれないか? 俺も話したのだからいいだろう?」
「私のこと?」
「そうだ! 俺もアリスのことをもっと知りたいぞ!」
「……まあ、別にいいけど」
「楽しみだ!」
サイドミラーに映る尻尾をぶんぶんさせて、クロウはとても嬉しそうに笑った。
地獄には何もない。
持っていたのは『王』という呼び名だけ、か……。
ならクロウは、このロンドンで何かを手に入れることができたのかな?
もしそうだったら…………少し嬉しい、かもしれないね。
滲む夕日に照らされた街並みを二人で走り抜けながら。
私はこの手のかかる同居人のこれまでとこれからに、柄にもなく思いを馳せていた――。




