布から馬⑥静かな違和感
「シュトリア様。本日は公爵家について学びましょう」
今日の授業は公爵家の図書室で行われる。
天井まで届く本棚が左右の壁を埋め尽くし、その中央だけは広い石壁がむき出しになっていた。重厚な長机と椅子が整然と並ぶその部屋は、本を読むだけではなく、次代を担う子どもたちへ歴史や政治を教えてきた講義室でもあるらしい。
朝一番の授業は、公爵家の歴史講義から始まった。天井の高い図書室にマガル先生の落ち着いた声が響いたが、その声は壁にズラリと並ぶ本に吸収されて長くは反響しない。
正面に立つ先生は今日も隙のない装いで、詰襟のシンプルな砂色のドレスに、ダークブラウンの髪は後ろできっちりとまとめている。反響してはすぐ消える不思議な声の響きと相まって、全身をセピア色でまとめたマガル先生は古い歴史書から抜け出てきた不思議な存在のように思えた。
「ヴァルクレール公爵家は、王国内でも最も古い家門の一つです」
そう言って、マガル先生は革張りの分厚い『ヴァルクレール公爵家史Ⅰ』を開いた。続いて大きな系譜図を広げると、ふわりと風が巻き起こり、羊皮紙は石壁へぴたりと張り付いた。
「公爵家の皆様は建国当初より三百余年、王家と教会の橋渡しを担っておられます。現代においてもその役割は変わらず、教会派閥を代表する家として、代々、聖人様方の後ろ盾を務めていらっしゃいます」
風の魔法で壁に固定されたままの系譜図を見上げた。あれ、公爵の名前の横に、家族とは別の名前が書いてある。
「セラ、フィーナ……」
「今代の筆頭聖女様です。歴代当主様の横の御名前は、その時代の筆頭聖人様でございます」
「そうなのですね」
「セラフィーナ様は、歴代でも特にお力のある方でございます。あの方のお力なくして、魔領との間に広がる砂漠の浄化は成し得なかったと言っても過言ではありません」
「そう、なのですね」
「セラフィーナ様は、御姿もとてもお美しく! もちろんミアベルお嬢様の輝くようなプラチナブロンドも素敵ですが、セラフィーナ様の、夜空を彩る月の煌めきのような銀色の御髪も——」
「へぇ……」
鉄面皮のマガル先生の珍しく興奮した様子に、ノギは少し驚きながら相槌を打った。
ノギの表情を見てハッと気づいた先生は、「し、失礼致しました」と咳払いを一つして、何事もなかったかのように授業を再開した。
ノギは机の上のノートへ、教わった内容を書き留めていく。
ヴァルクレール公爵家の歴史。王国の成り立ち。貴族社会の仕組み。正しい言葉遣いに発声練習、姿勢の保ち方。
授業はどれも丁寧で、ノギが理解できるまで説明してくれる。
(結構ちゃんと教育するんだよね)
使用人から空気みたいな扱いをされているのに、教育だけはキッチリとしている気がする。
昼食の時間が近づいた頃、ノギはふと疑問に思ったことを口にした。
「先生。お茶会の作法については習わないのですか?」
ノギの中では、貴族といえばお茶会のイメージが強い。
ドレスショップでも、お茶会の為にドレスを新調するお客さんが大勢いた。
けれど、この屋敷へ来てから、それについて教わったことは一度もない。
マガル先生は珍しく言葉を止めた。
「それは……」
いつも歯切れよく話す先生が、一瞬だけ視線を泳がせる。
「それにつきましては、公爵様のご指示を待ちましょう」
「わかりましたわ」
ノギは素直にうなずいた。
それから数日たっても、お茶会や社交について教わることはなかった。言葉遣いや歴史の授業は続くのに、その話題だけは一向に出てこない。
(あれ?)
貴族なら必要なんじゃなかろうか。詳しくは知らないけれど。歴史や礼儀は教えるのに、社交は教えない。
(この教育内容のバランスの悪さに、何か目的はあるの?)
胸の奥に、小さな疑問が残った。
◇
そんな疑問を抱きながらも、屋敷での日々は過ぎていく。
「おはようございます、シュトリア様」
日の出からしばらくたつと、屋敷全体が起き始める気配がする。そして部屋の扉が静かに開く。
女の人が次々と部屋へ入ってきて、無言でカーテンを開け、洗面の支度を整え、黙々とノギの着替えを手伝っていく。
挨拶をした後は、誰も何の話もしない。いまだに、メイドさんなのか侍女さんなのかすらノギは知らない。
「ありがとうございます」
声をかけても、目を伏せたまま小さく顎を引くだけ。身支度が終わると、一礼して、音も立てずにささっと部屋を出ていった。
(うーん。快適だけど……)
着替えも髪も全部やってもらえる。怒られることも、山のような量の仕事を押し付けられることもない。待遇はいいんだけど。
(でも……なんか、ちょっと不気味だよね)
◇
授業を終えた後、少しだけ屋敷の中を歩くことも、いつしか毎日の習慣になっていた。
向こうから歩いてきた使用人が、ノギに気付くと、すっと壁際へ寄って頭を下げた。
少し先では、別の使用人がくるりと進路を変えて、右の廊下へ曲がったのが見えた。昨日も、その前もだった。
(避けられてる……よねぇ)
嫌がらせをされるわけではない。悪口を言われることもない。けれど、誰も近付いてこない。
公爵様もそうだ。わざわざ引き取ったのに、ほとんど顔を合わせていない。
最初に挨拶をして以来、話をしていない。年が明けてすぐだったから……もう何か月前になるんだろう。
公爵夫人にいたっては、一度も会ったことがなかった。
(そういうものなのかな)
私は公爵様の庶子ということになっている。平たく言えば、浮気相手との間にできた子どもだ。
自分の家にそんな子がいたら、普通は嫌じゃない?
貴族は、そういう存在を気にしないものなんだろうか。
もちろん、虐められたいとは思わないけど。
(少しも気にならないって、ある?)
公爵夫妻は無関心で、使用人たちも距離を置くだけ。
(何を考えているんだろう……)
小さな違和感が積み重なって、胸の奥がザワつく。
◇
ある朝、いつもよりも早く目が覚めた。こんな日は、散歩をすることにしている。
お屋敷の周りをぐるっと歩いていると、トム爺が水を撒いているのが見えた。
「ごきげんよう、トム爺さん」
「おや、シュトリアお嬢様。おはようございます。お早いですな」
「ほんのちょっと前までは、日が昇る前から稼い……、労働してましたよ、の、な? あれ?」
「ははっ、なんだそりゃあ。お嬢様口調はまだまだ慣れておらんなぁ」
トム爺が笑いながら、ぐ〜っと腰を伸ばす。
「いいところに来た。シュトリアお嬢様、ちょっと水を出してくれんか」
「あら、わたくしに、働けと、……おっしゃるの?」
「わっははは、ぎこちないのぅ」
私がヴァルクレール家の養女だと知ったばかりの頃、トム爺は大げさなほど丁寧に接してきた。それが今ではこの調子だ。
「こんなに朝早くに水を撒くの?」
「日中は気温が高くてなぁ。水がお湯になっちまう」
話しながら、準備されたジョウロに手をかざす。透明な水が少しずつ中へ満ちていく。
「シャワーみたいに降らせてくれると、もっと楽なんじゃがの〜」
「無理だよ。やった事ない」
軽口を言いながら、トム爺がジョウロで水を撒く。無くなれば私が水をためる。そうしているうちに、区画の一つは終わったようだ。
「さぁ、ミアベルお嬢様のお部屋の前は仕上がった。ありがとよ。シュトリアお嬢様は、そろそろお部屋に戻んな」
見上げると、白地に金色の縁取りを施した上品なバルコニーが見えた。ここがミアお姉様の部屋らしい。たくさんある窓は、どれもカーテンが閉まっている。まだ寝ているようだ。
その部屋から視線を横にずらしていくと、同じ二階の北側にノギの部屋がある。
(日当たりが悪い部屋って事なんだろうなー。でも残念! 前の部屋は、ぜんっぜん日が入ってこなかったから。充分快適なんだよね)
「トム爺。この家って、なんか変だよね」
「ん? なんぞ気になる事でもあるのか」
「うーん、うまく言えないんだけどさ」
「そうか」
トム爺は、長い髭を撫でながら少し考えた。
「わしは庭師じゃからのう。屋敷の中の事は、さっぱりじゃ。土と花の機嫌なら分かるが、人の機嫌は難しいわい」
「そっかぁ」
「ほら、もうお戻りになってくださいよ、シュトリアお嬢様。朝からお部屋にいないと、騒ぎになっちまうぞ」
「はーい」




