布から馬②廊下と階段と
公爵家へ引き取られ、わけも分からないまま教育を受け続ける。
ノギの活動範囲がようやく部屋の外まで広がったのは、年が明けてしばらくしてからだった。
もっとも、自由に歩き回っているわけではない。
「姿勢を崩さないように」
「視線は正面へ」
「裾を踏まないように」
今日もマガル先生の指示を聞きながら、廊下をゆっくり歩く。
一歩。また一歩。
長い廊下を歩くだけなのに疲れる。
「あの、かかとの低い靴に変えてもらえれば——」
「んんっ!!」
(えー。公爵への挨拶を急ぐんなら、もう裸足でもなんでも良くない? 絨毯だってこんなにふかふかだしさぁ……)
咳払い一つで却下されたけど、ノギは諦めきれずに絨毯を見る。だいたい、ふかふかすぎるんだ。ヒールが沈んで歩きにくい。
最近のノギは、部屋から誰もいなくなる午後には裸足で過ごしていた。だって、その方が転ばないし。
「裸足だとキレイに歩けると思うん——」
ぱしんっ!
マガル先生の扇子の手拍子が響く。叩かれた事はないけど、真顔であの音を出されるとそれなりに威圧感がある。
「はぁ……」
諦めて部屋の前を往復する。最初のころに比べれば、だいぶ歩けるようにはなったんだ。
「では、今日は——」
(えっ、もう終わり!? やったぁ)
「廊下ではなく階段の練習です」
◇
結果から言うと、ノギが無事に階段を降り切る事はなかった。
ドレスの裾に隠れて、足元の階段は全く見えない。手すりにしがみつき、一段一段おりていくが、それでも踏み外す。
何度も踏み外し、やっとのことで踊り場にたどり着いたところで。
「はぁ。本日はここまでと致しましょう」
「ぜぇ、ぜぇ……し、死ぬ……」
「そうなりたくなければ、もっと練習なさいませ」
踊り場でへたり込むノギに、マガル先生の冷たい言葉が降ってくる。
マガル先生を見上げると、踊り場の壁に飾られた大きな絵が目に入った。
立派な額縁の中には四人の人物が描かれている。たぶん公爵様と公爵夫人。それから、綺麗な女の子に、若い男の人。
「こちらは公爵家の皆様の肖像画でございます」
視線の先に気づいた先生が説明してくれる。
「公爵様のお隣がお嬢様のミアベル様、こちらは御長男様の——」
(へぇ。やっぱりこの人が公爵様なんだ)
改めて絵を見上げる。
全員が同じような白金色の髪をしている。少し硬そうで真っ直ぐな髪に、鮮やかな青い瞳。絵本に出てきた王様たちのようだ。
(……私に、似てるとこある?)
庶子って、公爵様の子供でしょ? ……いや、どこが。
手入れされて髪も服も見違えるほど綺麗にはなったけど、私の髪は少しオレンジ色っぽくて、ふわふわしている。目は薄い緑色で、顔だってこんな美人ではない。
(私が庶子って、絶対に違うよねぇ)
先生の説明は続く。
「ミアベルお嬢様は、只今は王都の学園で学ばれております」
「学園?」
「はい。春頃には一時帰宅なさるはずです」
春かぁ。まだ二ヶ月くらい先だね。
「御長男様は王城にお勤めです。御二方ともあまりこの館にいらっしゃる事はございません」
「そうなんですね」
「そして、ここはよく覚えておいて下さい。お見かけしたとして、話しかけてはなりません」
えっ。無視するの?
「挨拶も?」
「お声がけをされ、お許しを得るまでは話しかけてはなりません」
ほんとに? 貴族って難しいな。無視するほうが怒られそうなのに。
◇
それからも練習を繰り返し、転がり落ちずに一階まで降りられるようになったころ。侍女長から、ようやく公爵へ挨拶する許しが出た。
練習してきた言葉を頭の中で繰り返す。
お初にお目にかかります。
ノギと申します。
お初にお目にかかります。
ノギでございます。あ、違う。申します。
あー、今日挨拶に行くって聞いた時のマガル先生の顔、面白かったな。
いつも無表情な先生の口元が、ひくりと引き攣っていた。
よし、階段まで来た。ここは油断すると裾を踏んづけて下まで転がり落ちるんだよね。
……なんか緊張しているかも。さっきから、どうでもいい事ばかり。
お初にお目にかかります、ノギと申します——。
再び頭の中で繰り返しながら、長い廊下を進み、焦げ茶色の扉の前で立ち止まる。
すぅ、と息を吸い込む。
扉を叩くと、思ったより小さな音しか出なかった。
(えっ、あれっ。どうしよう、もう一回叩くのが正解?)
後ろにいる侍女長を見るが、目を伏せたまま動かない。
(ええっ、どうすんの!?)
「入れ」
部屋の中から、低い声が聞こえてきた。
恐る恐る入ると、部屋の奥には男が一人座っていた。白金の髪に、青い瞳。大階段に飾ってある肖像画で見た通りの人だった。
ノギは教わった通りに頭を下げる。
「お初にお目にかかります。ノギと申します」
「そうか」
公爵は一言だけ返すと、興味をなくしたようにノギから目を離した。そして後ろにいた侍女長を見る。
「教育は予定通り続けろ」
「承知しました」
(えっ。終わり?)
「もう良い。下がれ」
公爵との対面は、これで終わりらしい。
(何こいつ。ほんと、何しに引き取ったんだよ)
二ヶ月近い特訓も、ノギの脳内の言葉までは直せなかった。つい乱暴な言葉が思い浮かんでしまったが、そんな感じで公爵への挨拶はアッサリ終わった。
まぁいいや。これで、ようやくこのお屋敷を歩いていいって事なんでしょ?
「侍女長様」
「様は不用です。なんでしょうか」
「侍女長、行ってみたい場所があるのですが」
「どちらでございましょう」
そう、公爵様の目的はどうでもいい。それよりも、ずっと気になっていた事があるんだ。




