布から馬①静かな朝と白い部屋
そんな、少し前の暮らしを夢に見た。
ゆっくりと目を開ける。豪華な寝室。静かな朝。
あの頃と同じように部屋が薄暗いのは、まだ早朝だからだ。早起きは孤児院で暮らしていた頃からの習慣だった。
分厚いカーテンを開けると、ひんやりした空気が顔に当たった。日が昇る前の空は、淡い藍色と灰色が混じっている。誰も歩いていない庭は霜がおりてうっすらと白くなっていて、物干し台が朝霧の中に浮かび上がって見えた。
その向こうには、葉を落とした森が広がっていた。朝靄が漂うばかりで、動くものは何もない。
「静かだなぁ」
孤児院の冬は寒かったから、少しでも暖かいように大勢でくっついて寝ていた。
クリーニング店では朝から晩まで仕事だった。
少し前まで住んでいた部屋は、両隣から話し声や生活音が聞こえてきて、いつも誰かの気配があった。
ここは違う。
広い部屋に、ノギひとり。
もう少しすれば誰かが着替えを手伝いに来るだろう。けれど今は、廊下にだって誰も歩いていない。
静かだった。広すぎるくらいに。
◇
「失礼いたします」
扉が開き、メイドさん? 侍女さん?
よく分からないけど、毎朝、何人かの女の人がやってくる。
朝の支度が始まった。寝巻きを脱がされ、髪を整えられ、ドレスを着せられる。
(最初の頃は抵抗したなぁ)
服なんて、自分で着られると思ったんだ。小さい子じゃないし。そう思ったんだけど。
背中側がどうなっているか、さっぱり分からない。どうやって締めてるの? うっ、苦しい。
(まさか私が着る側になるなんて)
ほんの数週間前まで、ドレスショップで布を運んだり、飾るための床を掃除したりしていた。ドレスを作る人を手伝う側だった。
それが、今は自分が着せられている。
(こんなに大変なモノだったとは)
歩けない。
足首まで隠れる服なんて初めて着た。足元が見えない。それに息が浅くしか吸えないから、すぐ息切れを起こす。
歩き方も難しい。
「滑るように歩きなさい」と言われたので氷の上を滑る真似をして、怒られた。
「裾を蹴るように歩きなさい」と言われたので蹴り上げながら歩いたら、もっと怒られた。
その結果、公爵への挨拶は何度も延期になった。公爵の庶子として迎えられて数週間。父親だという相手の顔を、ノギはまだ知らなかった。
「とてもお見せできません」
という事らしい。
ちなみにトイレだけは例外である。
緊急時ということで、ヒールを脱ぎ捨て、ドレスを膝までたくし上げて移動する許可を得ていた。さすがに、間に合わなかったら困る。
着替え終わって、部屋で豪華な朝ごはんを食べた後は何かしらの授業が始まる。今日は発声練習だ。
初めて会った日に先生は何冊かの本を用意していたが、その本が使われる事はなかった。
「あの……」
「まずは発声練習からなさいませ」
ぴしゃりと言われてから、ひたすら特訓が続いている。
「あ! え! い! う——」
ぱんっ。
講師のマガルなんとか先生が、扇子を手の平に打ち付けた。手、痛くないのかな。
「大きなお声を出せば良いというものではありません」
先生はいつも無表情で、淡々とした口調で、なのに扇子だけは勢いがある。
なのでついつい扇子を目で追ってしまう。
「よく通る声を出すのです」
ノギも先生を見ていないが、先生もノギを見ていない。よく動く扇子に気を取られているノギを気にせず指示を出す。
「あ、え、い、う……」
お互い相手を見ないまま授業は進んでいく。
◇
昼食を終えると、午後はいつも自由時間だ。
と言っても、まだ公爵に挨拶すらしていない身である。勝手に歩き回ってはダメらしい。そもそも歩けないけどね。
部屋を訪れる人もいない。
なので結局、窓の外を眺めたり、絵本を読んだりして過ごしていた。刺繍の道具やら詩集もテーブルに置かれているが、どちらも楽しいと思えなかった。
「縫い物はシスター・アニーに任せて、掃除ばっかりしてたなぁ」
詩集も意味が分からない。デザイナーのアーノルドが言いそうな言葉がたくさん並んでいる。
『君の瞳に散る星が』
(いやいや、目の中に星は入らないよ)
『月が涙を流した夜』
(涙? 目があるの?)
そうっと外を見る。薄暗い空に、枯れた木々。冬の森は静まりかえっていた。月はまだ出ていない。
なんだか怖くなって、詩集を閉じた。や、やっぱり、綺麗な色で描かれた絵本を眺めているほうがいい。
夕方にお茶を飲んでいると、侍女長がやってきた。ずっと気になっていた事を聞いてみる。
「あのう」
「はい」
「公爵様には、いつご挨拶するんですか?」
侍女長は少しだけ考えた。
「まずは補助なしで歩けるようになって頂いてからです」
「補助なし」
今のノギは、ドレスの裾を踏むし、方向転換で裾が絡まる。練習中に三回に一回は転ぶ。階段なんてどうやって降りるの?
なるほど。まだ公爵様の前へ出せる状態ではない。というか、たどり着けない。
「歩ける頃には、発声も整っているでしょう」
発声もダメなのか。道は遠い。
「……春になりそう」
「それでは、失礼いたします」
侍女長は一礼すると、そのまま部屋を出ていった。扉が閉まり、部屋はまた静かになった。




