ミカンから布⑦ノギ様
その青年は、冬の気配を感じる昼下がりにやってきた。上等な黒い外套を羽織り、数人の護衛を従えている。店を訪れる貴族は珍しくないが、冷たい風とともに現れたその一団は空気がどこか違っていた。
上品に微笑む青年を見た瞬間、マダム・セドラの表情がわずかに引き締まる。
「四ヶ月ほど前からこの店で働いている少女をお迎えに参りました」
店内が静まり返った。
護衛を従えた青年は、微笑んでいるのに感情を感じさせない声で続ける。
「ノギ様をこちらへ」
「申し訳ありませんが、お断りいたしますわ」
間を置かず、マダム・セドラが前へ出た。
「その子は、この『オランジェール』の経営者であるウッドリー男爵からお預かりしている子です。勝手に連れて行かれては困りますわ」
毅然とした声だった。青年は微笑んだまましばらく沈黙した後、静かに告げる。
「ヴァルクレール公爵家より参りました」
誰かが息をのんだ。
マダム・セドラの表情が強張る。
「ヴァルクレール公爵家……!?」
「まさか」
「どうしてこの街に……」
ざわめきが広がる。ノギだけが首を傾げた。
(そんなに有名なの?)
たしか、マダム・セドラも貴族だったはずだ。
ついでに言うと、ここへ連れてきてくれたウッドリーさんも貴族。
男爵家と子爵家は聞いたことがある。
でも、こうしゃく家って何だろう。 同じ貴族じゃないの?
そんな事を考えていると。
「ノギ様は、ヴァルクレール公爵閣下のご息女です」
空気が凍り付いた。
「え?」
「ノギ……って、あの雑用の子か?」
「うそ、ちょっ……」
戸惑った声があちこちから聞こえてくる。周囲の視線が一斉にノギへ集まった。
見習い達も、デザイナー達も、マダム・セドラも。誰もがノギを見ていた。
昨日まで毎日顔を合わせていたはずなのに、まるで別人を見るような目だった。
「え、私ですか?」
「ノギ様で間違いありません」
青年は即答した。ノギはますます分からなくなる。
デザイナーたちは、自分の今までの対応を思い出そうとする。下働きか何かだと思っていた雑用の子。それが、まさか公爵の娘。なにか失礼なことはなかったか……。
一方。アーノルドだけは別の意味で血の気が引いていた。
(ヴァルクレール……っ!?)
その名前を知らない貴族はいない。王国屈指の大貴族で、最も古くからある家門の一つだ。
(いや、違う)
冷や汗が背中を流れる。
(そんな……あの雑用が、公爵家の——?)
「公爵閣下がお待ちです」
(公爵閣下!?)
心臓が嫌な音を立て、血の気が引いていくのが分かる。
頭の中では、あのメモ帳が何度も何度も浮かんでいた。誰にも言えない。言えるはずがない。
そんなアーノルドの感情を置いて、話はどんどん進んでいく。
「本件については、他言無用に願います」
遣いの青年がわずかに声を落として言った。
「ウッドリー男爵には、こちらから事情を説明いたします」
「承知、いたしました」
震える声でマダム・セドラが答える。
もう誰も逆らわない。逆らえない。
そういう相手なのだと、ノギにも分かった。
どうやら、ただの平民の私に拒否権なんて無い。
部屋も、仕事も。昨日まで守ろうとしていた生活が、全部まとめて終わりらしい。
(あれ?)
ノギは瞬きをした。
(昨日あんなに悩んだのに)
そしてハタと気付く。
(我慢した意味、無かったじゃん!)
「ノギ様、ひとまずこちらへ。お部屋のお荷物は後ほど使いの者を寄越しましょう」
そう言って店の外に連れ出されると、冷たい風が吹く中で、どっしりとした黒塗りの馬車が待ち構えていた。
立派な馬車を引く馬は見上げるほど大きく、白い鼻息をぶふんと豪快に吐いていた。周囲には騎士たちが控えている。その中には白い法衣をまとった人物もいた。
見習いの一人が小さく息を呑む。
「神殿の方まで……?」
「しっ。静かに」
マダム・セドラが鋭く制した。見習いは慌てて口を閉ざす。
ノギは完全に投げやりになっていた。不貞腐れていた、とも言う。こうしゃく家だか何だか知らないし。行けば分かるだろう。その程度だった。
それよりも。
視線をさまよわせると、集まっていたデザイナーの中に、アーノルドを見つけた。
青ざめた顔と、妙に怯えた目でこちらを凝視している。
(何か言われると思ってるのかな)
そんな顔に見えた。でも、ノギは何も言わなかった。わざわざ言うことなんて無い。ただ、思う事はひとつだけ。
(なんかムカつく)
その苛立ちが、他人のデザインで偉そうにしているアーノルドに対してなのか。何も出来なかった自分になのか。突然やってきたどこかの貴族になのか。よく分からない。
ただ、胸の奥がずっとモヤモヤしていた。
そうして私は。
なんだかムカついたまま、なんの仕返しもできずに。オランジェールを去ることになったんだ。




