名前を知らない、特別な夜
名前を知らない、特別な夜
お読みいただきありがとうございます。
第3話では、主人公の心に刻まれた
「メールでのやり取り」という提案が、
どれほど揺さぶりを与えたのかを描いていきます。
日常の孤独、そして再び届くDM。
その優しすぎる言葉に、
主人公は不安と期待の狭間で揺れ続けます。
どうぞ最後までお楽しみください。
眠れなかった。
裏アカから届いた「メールでやり取りしませんか」という言葉が、頭から離れなかったから。
スマホの通知はまだ開けていない。
画面を見るだけで、胸がざわつく。
──「素焼きの器、素敵でした。
ああいう飾らない美しさに惹かれます」
あのメッセージが、何度も頭に蘇る。
飾らない美しさ。
……私なんて、何ひとつ取り柄もなくて、取り繕うことすらできないのに。
だけど、あの瞬間だけは。
まるで“私そのもの”を褒められた気がして、心の奥が熱くなった。
怖い。
でも、知りたい。
名前も顔も知らない相手なのに──どうして?
通勤電車の窓に映る自分の顔。
疲れ切った“つんだ女”の姿のまま、昨日の社長の言葉が耳から離れなかった。
──「美しいものって、無垢なもの。飾られていないものじゃないかな」
偶然のはずなのに、重なって聞こえてしまう。
(……もし、本当に同じ人だったら?)
胸の鼓動が早すぎて、呼吸が苦しくなった。
そのざわめきを抱えたまま会社に着く。
デスクに腰を下ろしても、心は落ち着かない。
「まだ婚活、続けてるの?」
同僚がランチ前に軽く投げた一言。
悪気がないのはわかっている。
でも、その言葉は私の胸を冷たく刺した。
(……“まだ”って、何?)
笑われるようなことなの?
ただ誰かに選ばれたいと思うことが、そんなにおかしいの?
喉の奥がつまって、笑い返すことすらできなかった。
結局、ランチは一人。
オフィスの隅でコンビニのおにぎりを広げる。
周囲では楽しそうな声が飛び交っているのに、私の席だけ切り取られたみたいに静かだった。
視線を落としたスマホの画面は、真っ黒に光を反射していて。
そこに映るのは、疲れきった“つんだ女”の顔。
「……やっぱり、私なんて」
小さく漏れた独り言が、自分で自分に突き刺さる。
条件で測られて、外見で判断されて、
何度も「違う」と切り捨てられてきた。
気づけば──
心のどこにも「期待する気持ち」が残っていないことに、ようやく気づいた。
……空っぽだ。
食べかけのおにぎりも味がしない。
楽しそうな笑い声だけが、遠くで響いていた。
その日の夜。
静まり返った部屋で、スマホが震えた。
──通知。
画面を開くと、またあの裏アカからのDMだった。
「メールでのやりとり……無理にとは言いません」
「ただ──君の言葉に触れるたび、もっと君のことを知りたいと思ってしまう」
一文一文が、やけに優しい。
……でも。
(誰にでも、そう言って近づいてるんでしょ?)
気づけば、思わず返信していた。
──「どうせ、私だけじゃないんですよね」
打ってから、息が詰まった。
なんで、こんなこと書いたんだろう。
数分後、返事が届く。
「違います。
僕がこういう言葉を送るのは、君だけです」
指が止まった。
優しすぎる言葉。
だけど、その優しさが逆に怖い。
まるで網を張るみたいに、私を捕まえようとしている気がする。
(この人はいったい何者?
社長なの?
それとも、ただの“怪しい誰か”?)
心臓がまた、早鐘を打ち始めた。
ドクン、ドクン、ドクン……。
まるで胸の内側から音が響いてくるみたいに、落ち着かない。
(やばい……なんでこんなに動揺してるの?)
──翌日。
仕事帰りに、駅前の大型ビジョンが目に入った。
そこに映っていたのは、婚活企業「キューピッド・リンク」の若き社長。
スーツを着こなし、カメラをまっすぐに見つめる姿は、
広告の姿よりも、圧倒的に堂々としていた。
──「人は条件では測れません。本当に大切なのは、心の声だと信じています」
その言葉に、人混みがざわめいた。
「さすが若手トップだね」
「カリスマ性あるな」
すれ違う人たちの会話が耳に飛び込んできた。
胸がざわついた。
昨日、裏アカから届いたメッセージが頭に響く。
……同じだった。
(まさか、あの人が?)
けれどすぐに、心の奥から否定の声があがる。
(いや、そんなわけない。
だって、彼は社長。
私とは住む世界が違う、手の届かない人──)
完璧な笑顔。
眩しいライトを浴びて、堂々と“成功者の顔”で立つ人。
その姿が、昨日DMで「もしよければ、メールでやり取りしませんか」と言ってきた相手と、どうしても結びつかない。
裏アカの人は、優しすぎる言葉を投げかける人。
まるで、私の弱さを全部受け止めるみたいに。
怖い。
でも──胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
夜。
ベッドの上で、スマホの光だけが頼りだった。
──通知。
震える指で開くと、そこには短い文章が並んでいた。
「迷惑だと思うので……このDMを最後にします」
息が止まった。
(……最後? もう、来ないの?)
胸の奥に空洞が広がっていく。
ずっと怪しいと思ってた。
優しすぎて、怖いとも感じてた。
でも──今になって気づいてしまう。
私は、この夜のDMを……楽しみにしていたんだ。
「何度も誘うのはやめておきます。
嫌われたくないから……」
この言葉で胸の奥が熱くなり、言葉が溢れた。
(これで最後なんて嫌だ……)
そして気がついたら返事をしていた。
──「わたしも……あなたの無垢な姿を知りたい」
送信ボタンを押した瞬間、背筋がぞくりと震えた。
(あ……もう誘ってくれないかも……?)
数秒後。返事が返ってきた。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。」
胸がきゅっと締めつけられた。
その瞬間、言葉がこぼれていた。
──「ねぇ、あなたの……名前が知りたい」
「もう少ししてからね……。
僕も、君の名前を教えてほしいから」
画面を見つめたまま、息が詰まった。
怖さと安堵が同時に押し寄せ、呼吸が乱れた。
(……私の名前を知りたい?)
怖い。
だけど、それ以上に──胸がドキドキして止まらなかった。
強烈な不安と期待が混ざり合っていく。
気づけば指先が汗ばんでいた。
──「私、もう後戻りできないかもしれない」
そう思いながらも、胸の奥では
微かな光がともるような感覚が広がっていく。
この夜。
名前を知らない二人が交わした小さな約束は、
やがて彼女を変えていく第一歩になる。
……けれど、この夜が“特別な日”になることを、
まだ誰も知らなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第3話では、主人公が初めて
「もうこのやり取りが終わってしまうかもしれない」
という寂しさに気づきました。
そして、名前を知らない二人の間に
小さな“約束”が生まれました。
──この夜が特別な夜になることを、
まだ誰も知らないまま。
次回からは、主人公が少しずつ変わり始めます。
そして彼との関係も──、もう後戻りできない方向へ。
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