遺影
聞くところによると、日本で最初に写真を撮られた人物は坂本竜馬だという。ということは、あの風習も幕末以前には存在しなかったはずである。たった百何十年かのあいだにずいぶん広まったものだ。
遺影のことである。葬式のとき祭壇に故人の顔写真を飾るという、あれである。
最初に写真を撮られたのは坂本竜馬だとして、最初に葬式に遺影を飾られたのは誰かというのはわからない。いろいろ調べてみたが何も情報がない。
たいていこの手の風習にはどこかに仕掛け人がいるものだ。よく知られたやつだと、土用の丑の日にウナギを食うのは夏場に売上が落ちて困った鰻屋から頼まれて平賀源内が考えたとか、バレンタインデーにチョコレートを贈るようになったのは菓子屋の謀略だとか、そういうのである。母の日のカーネーションとか節分の恵方巻とかにもその類のまことしやかな発祥譚がある。
してみると、遺影はやはりどこかの写真屋が売上を増やすために発明したのだろうか。しかし発明するところまではいいとして、それを売り込むのは大変そうである。「死んだときにそなえて写真を撮っておきませんか」などと勧誘したら塩を撒かれそうだ。
こんなことが気になるのは、もともと私がこの遺影というやつをうさんくさいと思っているからである。人が死んで葬式の準備やら何やらで忙殺される遺族に、故人のうつった写真のなかから一枚選ぶという余計な仕事を増やす。物置から掘り出してきたアルバムを引っくりかえして顔を突き合わせ、この写真は写りかたが小さいとか、こっちのは表情が硬いとか言い合って、しなくてもいい気苦労をするはめになる。その気苦労に見合った意味があるのかどうか。
何よりも気に入らないのは、故人の写真を飾るということそれ自体の趣味の悪さである。死者を送るということは人間にとって最も厳粛な営みではなかろうか。しかるに祭壇の一番目立つところに飾られたあれのおかげで、会場の雰囲気はいたって安っぽいものになる。ぶちこわしだ。
そもそも誰にでもいろいろな付き合いがあって、相手ごとにその人の印象は異なるはずである。葬儀にはそうしたいろいろな知り合いが来る。学生時代の友人、職場の仲間、近所の住人、みんな故人の違った顔を胸のなかにいだいている。だが遺影というやつは、これこそ故人の正式な顔であるといわんばかりにドーンと押し出してくる。不躾にもほどがある。




