鎌倉伝説
学生のころ、一度だけ鎌倉に行ったことがある。お決まりの大仏なども見たし、そのほかにも川端康成の家とかあれこれ見たはずだが、いちばんよくおぼえているのは町のなかに立ってぐるりと見回したときにまわりがすっかり山に囲まれていることであった。なるほど、と思った。山と海に囲まれて、いくつかの峠と海沿いしか外部に通じる道がないのである。つまり、そこさえ守れば容易に攻め落とせない土地ということだ。こういう土地に幕府をひらいた源頼朝というやつの性格が、たいへんよくわかった。
そしてまた、頼朝が義経を疎んじた理由もよくわかった。義経にはこのような難攻不落の土地を攻め落とした実績がある。一ノ谷である。鵯越の崖を駆け下りて平家の軍に奇襲をかけた、あの戦いだ。守り重視で猜疑心が強い頼朝にしてみれば、攻めっ気が強い上に何をするか予想のつかない義経はトランプのジョーカーのように思えたことだろう。
さて鎌倉開府から百何十年かたって、新田義貞を大将とする軍が鎌倉を攻めた。しかし案の定守りが堅くてなかなか落とすことができない。しかるに義貞が八幡大菩薩に戦勝を祈願したところ海の水が大きく引いて、広い土地が現れた。ここを通ることでようやく鎌倉に攻め込むことができた。事実かどうかは怪しいが、そういう伝説がある。つまり昔の人にとっても、そういった奇跡が起こらないかぎり鎌倉は落とすことができないと思われていたのであろう。
はんぱな仏像などよりも、町を囲むあの山の連なりのほうが私にとっては印象的であったし、また価値ある経験でもあったと思う。
義経といえば、衣川で敗れたときに死なないでさらに北へ逃れ、北海道から大陸へ渡ってチンギス・ハンになった、という例の伝説なども思い出される。荒唐無稽にもほどがあるが、面白い話なのは確かである。間宮海峡などは狭くて渡りやすく、実際にけっこうな行き来があったとも聞く。
この伝説のもうひとつの魅力は、北へと逃れた義経がモンゴル帝国を建てて、そのモンゴル帝国が西の方から日本に攻めてきたという点にあると思う。元寇は義経の逆襲であったのだ。ユーラシア大陸をぐるりと大回りするこのスケールの大きさは、じつのところ近視眼的な猪武者の義経にはあまり似つかわしくないが、それでも最初にこの図を思い描いた誰ともわからない人の想像力には敬服する。




