「好きな作家」論
小説を読むのが趣味だと話すと、好きな作家は誰かと聞かれることがある。
私はかつて、この「好きな作家」なる観念に大いに疑いを抱いていた。たいていの場合、われわれはその作家と直接付き合ったことはなく、知っているのは作品だけである。つまりわれわれは作品が好きなのであって、作家という人間が好きなのではない。だから先の質問は厳密には、「好きな作品を多く物している作家は誰か」と聞くべきところであろう。
こういったことを最初に考えたのはたぶん高校生か大学生のころで、そのあとずっとその考えを引きずっていた。それが、四十代も半ばになった最近になって、考えががらりと変わった。ふと自分が小説を読むときの気持ちを内省してみて、やっぱり「好きな作家」というものはあるぞ、と思ったのである。
いま私の好きな作家というと、秋山瑞人、佐藤ケイ、山本弘、尾崎紅葉、高島俊男である。高島俊男を作家と呼ぶかどうかはやや微妙なところだが、今回の話の趣旨としては問題ない。
これ以外の作家の作品にも好きなものはたくさんある。が、単なる好きな作品と好きな作家の作品とでは、読むときの気持ちが全然違うのだ。単なる好きな作品を読むときの気持ちは、「おもしろい」「感動した」「驚かされた」といったものである。一方、好きな作家の作品を読むときの気持ちは、あえて言葉にするなら「いい」「うっとり」「たまらん」といったものである。それも感動したには違いないのだが、でもやっぱり違う。単なる好きな作品は、内容が良いのである。内容を理解して、おもしろいとか感動したといった気持ちになるのだ。ところが好きな作家の作品は、内容を飛び越えていきなり感動がやってくる。
好きな作品をたくさん書いている作家というものもいるが、これは上で述べた「好きな作家」とはまったく別のものである。たとえば私は、山本周五郎や田中芳樹や荻原規子や小川一水の作品には好きなものがたくさんあって、単に作品が好きかどうかでいうなら上に挙げた「好きな作家」にひけをとらないのだが、これらの作家の作品と好きな作家の作品とでは、読んでいるときの気持ちが厳然と違うのである。
結局のところ、「好きな作家」というのは何なのか。たとえば秋山瑞人の小説には、ストーリーが明白に破綻しているものがある。高島俊男の随筆を読んでいると、著者の意見に賛成できないと思うことがちょくちょくある。山本弘の作品にしばしば表れるフェティシズムも、私の趣味には合わないことが多い。が、そうした欠点があっても、その作品を読んだときにはうっとりするし、満たされる心地がする。個々の欠点はもはや問題ではないのである。
たぶん、ストーリー、文章の構成、言葉の選びかたといった個々の要素ではなく、そうしたものの総合された作品全体が私のどこかに訴えているのだろうと思う。だが、それをもっと具体的に説明するのは難しい。つまりストーリーがどのようなもので、文章がどのようなもので、言葉がどのようなもので、それらを総合してポイントが何点以上なら「好きな作家」ということになるのか、といったことはどうにもわからない。
秋山瑞人(一九七一~)。「イリヤの空、UFOの夏」「猫の地球儀」など
佐藤ケイ(一九七六~)。「私立!三十三間堂学院」「筋肉の神マッスル」など
山本弘(一九五六~二〇二四)。「神は沈黙せず」「ギャラクシー・トリッパー美葉」など
尾崎紅葉(一八六八~一九〇三)。「伽羅枕」「多情多恨」など
高島俊男(一九三七~二〇二一)。「お言葉ですが…」「水滸伝と日本人」など
山本周五郎(一九〇三~一九六七)。「しじみ河岸」「よじょう」など
田中芳樹(一九五二~)。「銀河英雄伝説」「茶王一代記」など
荻原規子(一九五九~)。「これは王国のかぎ」「樹上のゆりかご」など
小川一水(一九七五~)。「ろーどそうるず」「幸せになる箱庭」など




