第一章 猫イモウト #4
朝のルーチンを済ませて、自分の部屋に戻る。
ベッドに体を投げ出して、大きくノビをする。
見慣れた天井。見慣れた壁。勉強机に、本棚。
やっぱり自分の部屋が一番落ち着く。
私の部屋は友達を連れてくると、必ず
「珍しいね」とか、
「変わった趣味ね」とか、
言われる。
それは、部屋の彼方此方にカワセミが飾られているからだ。
カワセミのポスター。自分で描いたカワセミのイラスト。
壁の収納ポケットに入れたカワセミの缶バッチの数々。
ヒヨコやペンギンにしか見えないカワセミの縫いぐるみ。
机の上にはカワセミのデコイが番いで置いてある。
そうなのだ。カワセミは私のマスコットなのだ。
幼いころ、両親に連れられて自然観察の森を訪れた。
森の中の池に、野鳥を観察するポイントがあった。
その観察窓を覗いた瞬間、目の前の枝にカワセミが停まって、私と目があった。
胸と目の周りの鮮やかな赤、喉と耳にある清廉な白、自ら光を発しているとしか
思えぬ背中の青。
まるで、宝石のように思えた。そして、それが空を舞う鳥であるという驚き。
私は、その瞬間にカワセミの虜になった。
カワセミは漢字で翡翠と書く。
この「翠」の文字が、羽の色を表していて、ミドリと読む。
そうだ、私はこの翠が大好きなのだ。
猫にミドリという名を付けたのも、他ならぬ私だ。
と、ここで私は、不思議なことに気が付いた。
おかしい。変だ。自分でも理解できない。
こんなこと、普通はありえない。
私は、ミドリの姿を思い出せないのだ。
どんな種類の猫なのか。
白猫なのか黒猫なのか、あるいはトラ、三毛…。どんな毛色なのかも思い出せない。
全くイメージが湧かない。
子猫なのか、成獣なのか。
そもそも、いつから一緒に暮らし始めたのか。
全く思い出すことができない。
猫にミドリという名前をつけた、その事だけはハッキリと覚えているのに。
また夢の続きなのだろうか、それとも私の頭が変になったのだろうか?
自分が自分でないようで、体中の血液が冷えていく気がする。
そうだ、写真。
私はベッドを起きだして、充電中のスマホを手に取る。
私はスマホで撮った写真を、フォルダ分けして分類している。
その中に「翠と一緒」というフォルダーがあった。
開いてみる。
けれど、そこに猫の写真は一つもなく、代わりに変な絵面の写真ばかりがある。
私だけが写った自撮り写真。でも、奇妙に私の左隣りが空いている。
小学校の校門の前に二人ならんだ正装の両親の写真。卒業式らしいけれど、誰の
なんだ?
中学校の運動会らしき場所で、また二人並んだ両親の写真。二人の間に、なぜか
一人分スペースが空いている。これも意味が分からない。
でも、私にはそこに何がしかの重大な意味があるように思えて仕方がない。
私は、ミドリの事、謎写真の事をお母さんに尋ねるために、スマホを手に部屋を
出る。
と、そこで私は何かに曳かれるような気持ちで、立ち止まる。
丁度、私の隣の部屋の前だ。
ここは、元々は子供部屋になる筈の区画だった。
けれど、子供は私しか生まれなかったので、納戸代わりに使われている。
何故か、この部屋の様子が気にかかる。
いや、それよりも謎写真のことを…。
急いで、階下に向かおうとする…。
…でも、どうしても納戸代わりの部屋の様子が気になって仕方がない。
ミドリの姿形や、謎写真の事より、もっと切実な何かが、そこにある気がする。
私は思い切って、その部屋のドアを開ける。
中には…、予想通り何もなかった。
今の季節に使わない暖房器具、衣類の収納ケース、非常食に防災用品グッズ。
様々なものが、薄らと埃をかぶったままで収められている。
あれ?
何だろう。急に涙が出てきた。
私は、以前には、もっと違う心持ちで、この部屋を訪れていた気がする。
涙が、止まらない。
あるべきものが、ここに無い。
そんな、喪失感が私の心を揺り動かす。
ここに居るのが、だんだん辛くなってきた。
私は後ろ手にドアを開け、部屋を出ようとする。
ガサリ。
何かがドアに擦れる音がした。
ドアのしたを検めると、紙が挟まっている。
どうやら、ノートの一ページのようだ。
拾い上げてみると、何やら書かれている。
『ごめん 翠 お姉ちゃんが悪かった どこにも行かないで』
翠?
お姉ちゃん?
ミドリ…。ミドリ…。
翠、翠。
翠の顔が脳内に大写しになる。
私の全身に衝撃が走る。
翠、翠。
私、なんで翠のこと忘れちゃってたんだろ。
なんで、今までミドリが猫だなんて、思ってたんだろ。
ミドリが猫。翠が猫。
そうか、翠は家出したんじゃない。
翠は猫になったんだ。
翠が猫に。
そのことに気がつくと同時に、私はある衝撃の事実を思い出す。
翠を猫にしたのは、私だ。
私が翠を猫に変えたんだ。
私が、そう願ったんだ。翠を猫にして下さいって…。
○
「儂を助けてくれた御礼に、お前の願いを三つ叶えてやろう」
「私の願い?」
「そう、猫に関する三つの願い」
「…それなら…、妹の翠を猫にして下さい」




