第九章 身代わり #2
翠が私の妹である世界はなくなった。もう、翠を人間に戻す事は出来ない。
絶望感に襲われる。
浅はかな一言のために、私は妹の人生を粉々に壊してしまった。
翠と過ごした何気ない日常が、無限の分岐の果てに巡り合った、掛け替えのない
一瞬であったことを、私は今になって理解した。
「ごめんね。ごめんね。翠。お姉ちゃんが…お姉ちゃんが馬鹿だった」
涙が流れはじめた。
泣いたから何かが解決するわけでもない。けれど、溢れる泪を止められない。
三笠君が隣に腰を降ろして、私の肩を抱く。
「心配しないで…。皆で考えれば、きっと、解決策が在るはずだ」
うん、うん。と頷いてみせる。
三笠君、なんて優しくて、そして強いんだ。
こんな状況になっても、私を励ましてくれる。
でも、それが私を安心させるための方便であることを、私は理解している。
もう、翠を人間に戻せない。翠が私の妹であった世界はなくなったのだから。
翠と過ごした日々が、走馬灯のように頭の中を駆けめぐる。
赤ちゃんの翠と初めて会った日のこと。おっかなビックリ翠を抱いた日のこと。
私の顔を見て笑った翠の顔。スヤスヤと眠る翠の顔。
ヨチヨチ歩きの翠。私をお姉ちゃんと呼んでくれた翠。
翠と一緒に通った小学校。翠と一緒に遊んだ公園。全ての思い出が美しい。
だけど、その思い出はもうすぐ消えてしまう。
全てが、無かったことになってしまう。
私の愚かな一言が原因で…。
「翠は、必ず人間に戻す。たとえ、他の何に代えても…」
さっき、猫の翠を私に返してくれた、女の子にそう誓った。
それも、虚しい空約束になった。
他の何に代えたとしても、もう、どうすることも出来ないんだ。
何に代えても……。何に代えても……。
ある考えが閃いた。
そうだ、この方法なら、翠を人間に戻せるかもしれない。
早速、三笠君に相談しよう。立ち上がって、三笠君の方を向く。
三笠君は、拳を額に押し当て、懸命に思案しながら、歩き回っている。
「ミカサく…」
そこで、言葉を飲み込んだ。
これは、私一人で決めねばならないことなんだ。
三笠君に背を向け、ネコモリサマの所在を探す。
居た。
数メートル先の草の陰で、翠とカクレンボに興じている。
きっと、ネコモリサマも翠を不憫に思い、気を紛らわせてくれているのだろう。
「ネコモリサマ、ネコモリサマ」と小声で話しかける。
「ん。なんじゃ?」
「あの…。二番目のお願いが決まりました…」
「そうか…。言うてみい」
「翠を人間にしてください、…」
「じゃから、それは出来ないと、さっきから……」
「続きがあるんです。聞いてください。翠を人間にする。その代わりに、私を猫に
してください」
「美寿穂を…猫に…?」
「そうです、そうです。どこかにか、翠が一人っ子でいる世界もある筈でしょ?
だから、その世界と、翠が猫になった今の世界を繋いでくれれば良いです」
「それは可能じゃが、あまり賛成できんのう。元々が、美寿穂への恩返しじゃった
のに、美寿穂が猫になるのではのう……」
「良いんです。私の今の一番の望みは、翠が人間に戻ることなんですから」
「あっちの三笠という男は、今の話を知っておるのか?」
「いいえ、話してません。だって…、きっと反対されるから」
三笠君の様子を伺う。まだ、私達の様子に気がついていないようだ。
「ネコモリサマ。善は急げです。早く、私の願いを叶えてください」
「…あんまり、気乗りせんがのう…」
「そんなこと言わないで、お願いします」
やれやれ。
私にせっつかれて、ネコモリサマが重い腰を上げる。
ネコモリサマは、如何にも大儀そうな足取りで、先ほどの空中部屋の方に歩いて
いく。
「本当に、良いのかの?」
部屋の前で、ネコモリサマが振り返り、私に念を押す。
「はい。お願いします」
うむ。
私の返事を聞いて、ネコモリサマが空中部屋に跳びあがる。
ネコモリサマが、部屋の中のガラスパイプに、前足でタッチして廻る。
タッチされたガラスパイプがグニャグニャと動き出す。
それぞれのパイプは、元の接続先から離れ、伸縮屈折を繰り返しながら、夫々の
新たな接続先へと繋がっていく。
部屋の中の光の明滅が早くなる。部屋全体が唸り始めたように聞こえる。
カーテンが閉まるように、仕切りが閉じて空中部屋が見えなくなった。
部屋の唸り音だけが、微かに聞こえる。
エアコンのスイッチを切ったように、急に風が凪いだ。
辺りを見渡すと、遠くの景色の輪郭が段々と消えていくのが分る。
さっき、隠れ家の水の流れの中に落ちたときの光景と逆だ。
きっと、これから世界が繋ぎ変わろうとしているんだろう。
私の足元でじゃれ遊んでいた翠を抱き上げる。
「良かったね、翠。もうすぐ、人間に戻れるよ」
翠に頬ずりする。
「お姉ちゃんとは、これでお別れだよ。寂しくだろうけれど、お母さん達を大切に
してね」
私の頬を涙が伝う。
「もしも翠が、猫になった私を見つけたら、飼ってくれると嬉しいな。そうすれば
また少しの間だけ、家族でいられるね…」
最後に、人間の翠を抱きしめられれば良かった。それだけが心残りだ。
「翠。大好きだよ。元気でね」
翠を抱きしめると、翠が悲しそうな声で鳴いた。




