第13話 隆也の憂鬱
寝不足は、短気を更に短気にするものらしい。
隆也は、まだひんやりする朝8時の歩道を歩きながら、一人で悶々としていた。
4時にバイトを上がり、3時間しか寝ていない。
今日は日曜日だし、昼まで寝ていても構わないのに、どうにもそんな気分になれなかった。そう、あの友人のせいだ。
「大学にあんまり近い所だと、友達の溜まり場になっちゃうだろ?」
ずいぶん前、大学からかなり遠い場所にアパートを借りた理由を尋ねると、春樹は笑いながらそう言った。
人が好きで、友人をとても大切にする春樹が、煩わしさからそうしたのではない事は、隆也が一番良く知っていた。
自分が人に触れることが罪なのだと言う考えを、春樹は未だに抱えながら生きているのだ。
同姓だったら気にすること無いだろ? と隆也が言っても、春樹は苦笑いで首を横に振る。
その人に彼女がいたらどうするのさ、と。
軽率だった。確かにそれは大問題に違いなかった。
けれどたぶん、自分が心をのぞき見してしまう罪悪感の他に、他人とシンクロしてしまう際の、説明の付かない苦痛があるのだろうと隆也は感じていた。
他人の心が混ざり込んでしまう際の苦痛。
その苦痛がどの程度のものなのか、実際に感じることができないのが不甲斐なかった。
春樹は辛いことを、辛いんだと、愚痴らない。
だから、お節介だと分かっていても心配する。
頻繁にメールする。なるべく会う。触れる。
理解する人間がいる、触れて心を読まれても平気な人間がここにいると、伝えたいから。
それなのに・・・だ!!
隆也は憮然とした表情で、目の前の春樹のアパートを見上げた。
今朝、正確には8時間前の塚本とのやり取りが気になった隆也は、バイトあけから何度もメールを送っているのだが、春樹からの返信はない。
寝不足の頭のまま、1時間ほど前から電話をかけ続けているのに、取ってもくれない。
頭脳明晰で抜群に人当たりの良い好青年のくせに、自分を心配している人間への配慮がズッポリ抜けている。
心配されていることに気付いていないのなら、今更だが正座させて反省会だ。
今日も、「あ、ごめん、携帯の調子が悪くて・・・」とか言おうものなら、その場で携帯へし折ってやる! と、鼻息を荒くしながら階段に足をかけたその時。
ちょうど降りて来ようとしていた春樹本人と目が合った。
その視線は一瞬、困ったように宙を泳いだが、それでも芝居を続ける役者のように、春樹はゆっくりと陽の当たる階下まで降りてきた。
5月の鮮やかな陽射しの中で光る、艶やかな絹の髪と白いパーカーが眩しくて、寝不足の隆也の目にしみた。
「おはよう、隆也。・・・早いね。どうした?」
「メール、見たろ」
「え・・・あ、ごめん、携帯がちょっと・・・」
「携帯はそんな頻繁に壊れねぇよ! 塚本に会いに行くんなら行くって正直に言えよ」
隆也の言葉は見事に的中したらしく、春樹は琥珀の瞳を見開いたまま、小さく口をあけた。
「なんで分かった?」
「なんだ、そうなのか。当てずっぽうだったんだけど」
怒りをあらわに棒読みで返すと、春樹はわかりやすく青ざめ、隆也のイライラはマックスになった。
「塚本から呼び出されたのか?」
隆也が幾分語調を緩めて聞くと、春樹も少しばかり表情を和らげ、小さく首を横に振った。
「僕がメールで呼び出した」
「お前、何がしたいわけ? あいつにも秘密を打ち明けて、仲良しこよしに成りたいわけ?」
一瞬刺すような視線を春樹から感じたが、そのあとの春樹の声は穏やかなままだった。
「もし本当に塚本が気付いたんなら、どこからバレたのか知りたいし、その上できっぱり否定するよ。そんな力、僕には無いって」
「それだけか?」
「・・・なにが?」
「本当にそれだけのために塚本を呼びだしたのかって聞いてんだ」
「言ってる意味がわかんない」
「馬鹿なこと考えてないかって聞いてんだ」
「分かんないって、隆也」
隆也は返事の代わりに右手をぐいと差し出した。
軽いショックを受けたような春樹の表情が、すぐ目の前にあった。
「触れよ。この複雑な腹立たしさを口でどう説明していいか分からない。でも、本当のところ春樹は俺が言いたいこと、ちゃんと分かってると思うんだけどな」
極力穏やかに言ったつもりだったが、春樹はその手に触れようともせず、一歩隆也から離れた。
本当に分かりやすい奴だと、ため息が出てくる。
やはりそうなのだ。春樹は、塚本が言った「春樹の役割」の意味を確かめようとしているのだ。
自分の忌まわしい力の「意味」、「意義」が気になって仕方ない。
けれども怖くて、まだ向き合う決心が出来上がっていない。そんなところだろう。
今なら馬鹿げていると、気づかせられる。春樹の存在意義を教えてくれるのは、あんな男ではないと。
「待ち合わせに遅れるから、もう行くよ」
「じゃ、俺も行く」
春樹は返事の代わりに、無言で背を向けた。アパートの前の道へ出て、大学がある方面に早足で歩いていく。
隆也も無言のまま追いかけ、有無を言わさずその横に並んだ。
このお節介め。という春樹の心の声が飛んできて横っ面が痛かったが、それが自分なのだから、直しようもないし、直すつもりもなかった。
ただし、やはり嫌な予感がないわけではない。
自分はこの友人に、近い将来、「いい加減にしてくれ」と愛想を尽かされるんじゃないかという、最悪な予感。
◇
春樹が塚本との待ち合わせに指定したのは、隆也のバイト先、ピコマートに程近い、小さな公園だった。
繁華街からは外れているが、綺麗に整備された静かな公園で、ちょっとやばい話を平和的に進めるのには、喫茶店などより絶好の場所かもしれない。
塚本は既にその場所で待っていた。
ただベンチと煉瓦の花壇がシンプルに配置されているだけのその空間に、ポケットに手を突っ込んで仁王立ちしている黒ずくめの大男の姿は、遠目にも異様に映る。
威圧感が半端ではない。
児童公園ならば、通報ものかも知れない。
三白眼で奥二重の特徴的な目が、歩み寄る春樹と隆也を捕らえると、薄い唇が気だるそうに開いた。
「呼び出されて愛の告白でもされんのかと期待したのに、がっかりだ。余計な虫が一匹くっついてる」
「俺のことかよ」
「お前のことだよ」
かぶり気味に即答して鼻で笑った塚本に、隆也の苛立ちは、呆気なく沸点に達した。