第6話 折れ始めた都
倒れた鐘の下には、もう生き物の形をしたものは残っていなかった。
灰と木片、それから錆びた金属片が石床に散らばっている。少し前までそれらが四本の脚で走っていたことの方が、今では間違いだったように見えた。
リゼは鐘の脇にしゃがみ込んだ。
《残響を留める鐘》
表面に刻まれた文字をもう一度読む。
鐘そのものは大きく割れていた。支柱ごと崩れたせいで胴の半分に亀裂が走り、縁の一部も砕けている。
その中心から、細長い金属棒が転がり出ていた。
鐘を鳴らしていた舌だ。
「触るなよ」
背後からトルヴの声がした。
伸ばしかけていた手を、リゼは止めた。
「触ってない」
「触ろうとはした」
「見ただけ」
「手が出てた」
言い返しかけたが、やめた。
トルヴはこういうとき妙に細かい。
代わりにマレルが鐘の舌へ近づき、小さな計器をかざした。針が震え、ゆっくり右へ傾く。
「残ってますね」
「何が?」
ダインが訊く。
「鐘の法則です。たぶん本体より強く残ってる」
マレルは断定を避けながら言った。
未来遺跡から何でも持ち帰れるわけではない。
石も木材も金属も、こちらの世界へ出した途端に崩れてしまうものがほとんどだ。ただし、その歴史固有の法則と強く結びついた物だけは残る。
そうした品を、発掘士たちは遺物と呼ぶ。
リゼにとっても説明するほど珍しい言葉ではない。
けれど目の前にある鐘の舌は、これまで見てきたどの遺物とも少し違って見えた。
ただの金属棒なのに、周囲の静けさがそこだけ濃い。
気のせいだと思えば、それまでだった。
「持っていく?」
リゼが訊く。
トルヴはすぐには答えなかった。
床、壁、天井。
順番に目を動かしたあと、鐘の残骸を見る。
「本来なら記録だけ取って置いてく」
「本来なら?」
「この深さで、六百年以上先の遺物だ。上が欲しがる」
「欲しがるって言い方」
「欲しがるだろ」
否定できなかった。
深層院は未来遺物で成り立っている。
それを持ち帰るのが、自分たちの仕事でもある。
マレルが厚い布で鐘の舌を包んだ。
ダインが受け取る。
「重いな」
「鐘の舌なんだから軽かったら嫌でしょ」
リゼが言うと、ダインは包みを肩へ載せ直した。
「お前は持たないからそう言える」
一行は部屋を出た。
通路へ戻ったところで、リゼは足を止めた。
何かが違う。
すぐには分からなかった。
見慣れたはずのものが少しだけずれていると、人は意外に気づけない。
「どうした」
ダインが先で振り返る。
「さっき、この角こんなに近かった?」
トルヴも止まった。
正面の曲がり角まで十歩ほどしかない。
ここへ来たときは、もっと長かった気がする。
リゼが自分の記憶を疑っている間に、トルヴが壁へ近づいた。
傷を見る。
発掘隊が通った道には、帰路を確認できるよう小さな印を残している。
その印が、曲がり角の手前にあった。
「ここじゃねえ」
トルヴの声が低くなった。
「印を付けた場所は?」
「三十歩は向こうだ」
空気が変わった。
ダインが包みを下ろす。
「迷った?」
「一本道だぞ」
そのとき、遠くで石の擦れる音がした。
地鳴りではない。
巨大な何かをゆっくり引きずるような音。
リゼは通路の先を見た。
曲がり角が動いている。
一瞬、そう見えた。
目の錯覚かと思った直後、壁と壁の間が狭まり、曲がり角そのものがこちらへ滑ってきた。
「走れ!」
トルヴの声が響いた。
四人が反対方向へ駆ける。
背後で石が鳴る。
天井は落ちてこない。
壁も崩れない。
それなのに通路の長さだけが変わっていく。
リゼの足元で床の継ぎ目が横へ流れた。
「何これ!」
「知るか!」
ダインが鐘の舌を抱えたまま走る。
前方にあった扉へ向かったはずなのに、走っても距離が縮まらない。
いや。
違う。
扉が遠ざかっている。
「止まれ!」
トルヴが叫ぶ。
「止まったら潰される!」
「いいから止まれ!」
四人が足を止める。
リゼの胸が激しく上下している。
背後の曲がり角も止まっていた。
前方の扉も動かない。
「俺たちに反応してる?」
マレルが壁へ手をついた。
「歩くと動くのか」
「違う」
リゼはダインが抱えている包みを見た。
誰も動いていない。
その包みの中から、ほんのわずかな金属音がした。
鐘の舌が布の中で揺れたらしい。
次の瞬間、前方の扉が少しだけ近づいた。
「それ」
リゼが言った。
ダインが自分の腕を見る。
「これ?」
「床へ置いて」
「ここで?」
「早く」
包みが床へ置かれる。
しばらく待った。
何も動かない。
トルヴが顎を撫でる。
「持ち出したせいか」
「鐘を?」
マレルが振り返る。
「鐘そのものじゃない。この舌を、元の場所から動かしたから」
リゼは言いながら、自分でもまだ納得できていなかった。
遺物を動かした。
それだけで都市の道が変わる。
そんなことがあるのか。
けれど未来遺跡で、そんなことがあるのかと考える意味はあまりない。
起きているなら、ある。
それが先だ。
「戻す?」
ダインが訊く。
「たぶんな」
トルヴが鐘の舌を拾おうとした。
そのときだった。
乾いた金属音が、遠くで鳴った。
一度。
そしてもう一度。
ダインが剣を抜く。
今度は誰も喋らなかった。
通路の向こう。
薄暗い壁際に、小さな光が見えた。
床から斜めに突き出している。
トルヴが慎重に近づいた。
銀白色の杭だった。
手のひらより少し長い。
未来都市の石床へ、明らかに後から打ち込まれている。
リゼはしゃがみ込み、表面を照らした。
そこに刻まれていた文字を見て、息が止まった。
未来の文字ではない。
現在の文字だった。
そして、その印を知っていた。
二本の塔を囲む細い輪。
ネフラ聖王国。
保存教会。
「なんで教会の杭がここにあるの」
ダインの声から冗談が消えた。
トルヴは答えない。
リゼは銀白の杭に触れず、その周囲を見た。
埃が薄い。
最近誰かが打ち込んだ。
少なくとも六百四十二年後の人間ではない。
背後で、また街が動いた。
今度はもっと大きかった。
通路の向こうで建物同士が重なり、あり得ない角度で街路が折れ曲がる。
ダインが鐘の舌を掴んだ。
「今はどっちを疑えばいい」
鐘を動かした自分たちか。
未来を掘るなと唱える教会か。
リゼにも分からなかった。
ただ一つ分かるのは、自分たち以外の誰かが先にここへ来ていたことだった。
そしてその誰かは、この街に何かを残している。
遠くの暗闇で、また金属音がした。
今度は一つではなかった。




