第2話 棺の中の私
棺を開けないという選択肢はあった。
むしろ調査手順だけを考えるなら、それが正しい。
発見場所を記録し、地上の深層院へ報告する。専門の保存班を呼び、周囲の層が安定しているか確かめてから開封する。
リゼ自身もそう教えられてきた。
それなのに、石棺から離れられなかった。
自分の名前が刻まれた文字だけを何度も目でなぞっている。
見れば見るほど、何かの間違いには見えなくなっていった。
「同名だろ」
ダインが言った。
少し離れた場所からだった。
慰めるつもりなら、たぶん彼なりにかなり努力している。
「六百年もあれば同じ名前の人間くらい出る」
「姓も?」
「出ることはある」
「役職まで?」
ダインは答えなかった。
発掘者という言葉。
そこまで一致している。
偶然という言葉は便利だが、重ねすぎると薄くなる。
トルヴが石棺の周囲を一周した。
「封は生きてる」
「開けられる?」
リゼが訊く。
「開けられるかどうかなら開けられる。ただ、開けていいかは別だ」
「開けたい」
「お前が言うと思ったよ」
トルヴはため息をつき、腰の工具袋を床へ置いた。
ダインが眉を寄せる。
「待て。本人がいる場所で本人の墓を開けるのか」
「本人かどうか確かめるんでしょう」
マレルの声はいつもと変わらない。
彼は石棺の文字を紙へ写しながら続けた。
「怖いなら廊下に出ていてもいいですよ、ダイン」
「誰が怖いと言った」
「顔に書いてあります」
「お前はもう少し人の気持ちってものをだな」
「今は骨の方が重要です」
リゼは二人の会話を聞きながら石棺を見ていた。
いつもなら少し笑えた。
今は喉の奥が乾いていた。
怖いのだと思う。
棺を開けて何もなければ、それでいい。
別人の骨が出てきてもいい。
けれど、もし。
その先を考えようとすると、頭の中に薄い膜が張る。
トルヴが四隅へ工具を差し込んだ。
「持ち上げるぞ。ダイン、そっち」
「俺もやるのか」
「お前が一番でかい」
「理由が雑だな」
石の蓋が少しずつ浮いた。
重い音が墓室に響く。
リゼは無意識に一歩下がった。
隙間から空気が抜けた。
腐臭はない。
六百年以上先の墓だ。中に何があったとしても、リゼの知る死の匂いとは違う。
蓋が横へずらされる。
最初に見えたのは白い布だった。
灰色に変色し、ところどころ裂けている。
その中央。
骨。
人骨だった。
胸の奥が沈んだ。
自分でも理由は分からない。
棺なのだから骨があるのは当たり前なのに、文字だけだった死が急に形を持った。
マレルがしゃがみ込む。
「触るなよ」
トルヴが言う。
「あなたより丁寧に扱います」
「そういう問題じゃねえ」
マレルは小さな刷毛で骨の周囲を払った。
頭蓋。
肋骨。
腕。
脚。
ほぼ全身が残っている。
「女性だと思う」
「年齢は?」
リゼが訊いた。
「今は言えない。二十代から三十代前半くらいには見えるけど、保存状態が普通じゃない」
二十代。
自分と近い。
リゼは奥歯を噛んだ。
棺の内壁には細かな文字が刻まれている。未来の記録なのだから、死亡年齢くらい残っていてもおかしくない。
けれど今は読みたくなかった。
マレルが左腕を動かした。
そのとき、リゼの視線が肩へ止まった。
「待って」
自分でも驚くほど強い声が出た。
マレルの手が止まる。
「左肩、見せて」
「触らずに?」
「それでいい」
ランタンを寄せる。
鎖骨の端。
一度折れた骨が治癒した痕が残っている。
少しだけ曲がっていた。
リゼは自分の左肩へ手をやった。
服の上からでは何も分からない。
それでもそこにある。
十一歳のとき、崩れた足場から落ちて折った。
治療師からは、少し曲がったまま繋がると言われた。
父が死んだ事故の、半年ほど前だった。
「同じ場所ね」
マレルが言った。
「珍しい場所なの?」
「骨折自体は珍しくない。ただし形まで似ている」
ダインが棺へ近づいてきた。
先ほどより足音が慎重になっている。
「似ているだけだ」
誰に言っているのか分からなかった。
リゼは返さず、骨を見た。
右手。
指。
歯。
自分と違う場所を探したくなった。
マレルも何かを察したらしい。
頭蓋を横から照らす。
「リゼ。右下の奥歯、一本少なかったな」
心臓が一度だけ強く打った。
「生えてこなかった」
「この骨もだ」
ダインの顔から表情が消えた。
二つの一致なら偶然で済むかもしれない。
三つ目がある。
リゼは左の小指を握った。
幼い頃、刃物で深く切ったことがある。骨そのものへ届いた傷ではないから、骨格には残らない。
そこまで同じならと思った自分が、急に馬鹿らしくなった。
何を期待しているのだろう。
同じであってほしいのか。
違っていてほしいのか。
どちらを選んでも、目の前に自分の名前を持つ墓がある事実は変わらない。
「まだ本人だとは言えない」
マレルが静かに言った。
リゼは彼を見る。
「でも?」
「少なくとも、この骨は君とかなり似た身体の履歴を持ってる」
墓室が静かになった。
遠くで水滴が落ちたらしい。
一度だけ音がして、その後は何も続かなかった。
リゼは棺の縁へ手を置いた。
石の冷たさが手袋越しにも伝わる。
未来が地下にあることは知っていた。
まだ造られていない橋も、これから生まれる王の像も見たことがある。
けれど、それはいつも他人の未来だった。
自分だけは地上にいた。
それが今、少しだけ崩れた。
六百四十二年後の墓に眠っている骨は、未来の自分なのか。
そう考えた瞬間、もっと嫌な疑問が浮かんだ。
もし本当に自分なら。
なぜ二十代ほどの身体のまま、六百年以上先の墓に入っているのだろう。




