17_値札のつかない損失
レウカが四番目の共同防衛国となってから、一月が過ぎていた。
戦争には、毎朝値段がついた。
折れた櫂一本。裂けた帆一枚。船腹へ当てる板材。漕ぎ手と船員の給与。負傷者へ使う薬と包帯。
四都市が共同防衛へ加わっても、倉庫の中身は増えなかった。
「帆布は、あと二度の出航で底をつく」
アマルタの帆職人が報告した。
「修理材は?」
「ドレカで小型船を直す分はある。中型ガレー用の長材はない」
「給与の遅れは」
エンリオが帳簿をめくる。
「タヴェラ船は一回分。アマルタの避難船員は二回分。レウカの巡回船は神殿が払ってる。ドレカは戦利品の分配待ちだ」
「待ってない」
テッサが言った。
「今日中に払わなければ、五隻のうち二隻を塩運びへ戻す」
「脅すな」
「船員は食べる。脅しじゃなく腹の話だ」
ダリオは机の数字を見た。
帝国補給船から奪った食料と資材は、損傷船の修理でほとんど消えた。アマルタ造船所は接収されたまま。タヴェラには穀物があっても、帆布も長材も銀貨も十分ではない。
給与を待つ船員の家族は、すでにタヴェラで食料を掛けで買っている。帆職人は古い帆をほどき、使える布だけを縫い合わせた。船大工は曲がった釘を抜き、火で焼いて打ち直す。
戦える船があっても、次に破れた帆を直せなければ一度しか戦えない。漕ぎ手が家族を養えなければ、船へ乗れと命じる権利もない。
四都市は戦う理由を共有した。
戦い続ける金は、まだ共有できていない。
「イスカラへ行く」
ダリオは言った。
「あそこには倉庫、両替商、保険組合がある。修理材を買い、船員給与のための信用を得られる」
「イスカラ商人は、帝国船へも同じ物を売る」
テッサが言う。
「だから金を持ってる」
「その金でドレカ船へ賞金をかけてる」
「喧嘩は港へ入ってからにしろ」
*
イスカラ港は、戦争中とは思えないほど混み合っていた。
海峡西口に近い深い天然港。外海から来た大型商船が何隻も入り、岸壁の背後には石造りの倉庫が並ぶ。両替商の卓では各都市の貨幣が交換され、船荷取引所では封鎖で値上がりした穀物と木材の札が読み上げられていた。
帝国艦隊から遠いイスカラでは、戦争はまだ戦火ではなく価格だった。
タヴェラ産の穀物は以前の倍近い札をつけ、アマルタ産の船材はさらに高い。倉庫を持つ商人は値上がりで利益を得る一方、外海から入る船が減れば、保険料と荷役料の収入は落ちる。
帝国へ早く従って通商を戻したい者も、戦争が長引くほど在庫の値が上がる者もいた。イスカラが参加を拒む理由は、臆病の一言ではまとめられない。
港の掲示板には、帝国商船向けの優遇契約と、四都市船団による護衛予定が並んで張られている。どちらが勝っても取引を続けられるよう、商人たちは両方の書類を持っていた。
帝国優遇契約の前には、倉庫商で市会議員のマルコ・ヴァレリが立っていた。五十に近い男で、指には帝国本土の商人組合から贈られた金環がある。
「帝国の印なら、海峡の外でも通じる」
マルコは集まった荷主へ言った。
「四都市の約束は、負ければ紙くずだ。イスカラが利益を捨て、反乱者の船へ賭ける理由はない」
ダリオと目が合っても、声を落とさなかった。掲示柱には、ダリオの捕縛に褒賞を出す帝国布告も残っている。
四都市の船団が入港すると、港役人は武器の封印と、通常の港湾使用料を求めた。共同防衛へ加わっていない以上、特別扱いはしないという。
「帝国の布告も張ってあるぞ」
ダリオが捕縛文を示すと、港役人は封蝋を確かめただけだった。
「イスカラ港内で執行するには、イスカラ法廷の令状が要る。帝国の賞金稼ぎが勝手に剣を抜けば、そいつを先に拘束する。ただし、あなたの名と滞在先は記録する」
「公正だな」
「取引相手を、外国の紙一枚で連れ去らせないだけだ」
「味方になってほしいと来たのに、先に金を取るのか」
エンリオが言う。
「無料で入れば、ドレカの密輸船と同じ扱いにされる」
テッサが不機嫌に返す。
「払って記録を残したほうがいい」
ダリオは料金を払わせた。
その日の午後、イスカラ市会で四都市の提案が審議された。
*
「戦争へ参加した場合の損失は計算できる」
海上保険組合幹部で市会議員のニコラ・ゼーノは、机へ数字を並べた。
三十四歳。商人らしい華美な指輪はなく、指先には帳簿の墨が染みている。
「帝国向け取引の停止。保険金の支払い。拿捕される商船。船員給与。港の防備。少なく見ても、イスカラが一年で得る利益の相当部分が消える」
「自治を失った場合は」
リヴィアが尋ねる。
「数字にできない」
「だから価値がない?」
「逆だ。値段をつけられないものを、今月の損失と同じ欄へ入れるべきではない」
ニコラは冷静だった。
「帝国直轄化で通商が安定し、海賊被害が減り、海峡通行税が予測可能になるなら、商人にとって利益もある。新皇帝が約束を守るかは不確実だが、四都市船団が帝国艦隊へ勝てる可能性も不確実だ」
ニコラは別の帳簿を開いた。
「封鎖がさらに一月続いた場合、保険金支払いと入港減少で損失は増える。だが共同防衛へ参加すれば、帝国はイスカラ商船を敵国船として拿捕できる。損失はその日から確定する」
「直轄化された場合の損失は、本当に計算できないのか」
ダリオが尋ねた。
「通行税がいくらになるか、帝国指定商人がどこまで優遇されるか、契約が出ていない。数字のない不安を、戦争参加の理由にはできない」
「出ていないから安全だと考える?」
「出ていないから、まだ判断しない」
リヴィアが、帝国の移送名簿とレウカへの要求書を机へ出した。
「アマルタでも、具体的な条件は艦隊到着後に追加されました」
「それは危険を示す資料だ。イスカラにも同じ命令が出る証明ではない」
ニコラは証拠を無視しない。だが、不確実な推測を利益表へ入れない。
だからダリオは、今日成立する取引を示すことにした。
「ドレカ船を海賊と呼ぶな」
テッサが立ち上がりかける。
「外国の保険契約上の分類を述べただけだ」
「分類なら侮辱にならないと思うのか」
ダリオは二人の間へ手を差し入れた。
「イスカラに理念で参加しろとは言わない」
「では、何を売りに来た」
「船の安全だ」
ダリオは三都市の運航契約と、レウカ参加後に追加した救難規則を机へ置いた。
「イスカラ商船を護衛する。無料ではない。ほかの港と同じ料金を取り、同じ救助条件と損害記録を使う」
「参加を拒んだ都市の船も守るのか」
「帝国の軍需船でない商船なら。通商を守ると言いながら、味方の旗だけ救えば、帝国と同じ独占になる」
「護衛中にドレカ船がイスカラ船を襲ったら?」
「私掠契約で禁止している。破れば捕らえ、戦利品裁定へ出す」
テッサは口を挟まなかった。自分の船も同じ規則へ従うと、態度で示した。
「料金は」
ニコラが尋ねる。
ダリオは船の大きさ、航路、積荷、護衛日数ごとの表を出した。リヴィアと、イスカラへ来る途中に作ったものだ。
「危険な積荷ほど高い。だが、商人の身分や市会での票では変えない」
「保険組合の帆布船二隻を、先に護衛してほしい。料金は倍払う」
「同じ日に申し込んだ船があるなら、危険度と出港順で決める。倍払っても順番は買えない」
「商売が下手だな」
「順番を売れば、次は三倍払う帝国商人に君の船を置いていくことになる」
ニコラは初めて、帳簿から顔を上げた。
「契約案を預かる。市会への参加提案とは別に、保険組合として試験護衛を頼みたい」
「同じ規則なら受ける」
*
試験護衛の対象は、西方から来る帆布船二隻だった。
四都市船団はイスカラ商船と同じ港湾料を払い、積荷の封印を確認し、出航前の傷を共同で記録した。
ニコラは岸壁から一つずつ見ていた。
港外へ出て間もなく、レウカが捜索中の船とは別の、契約にない小型商船から救助信号が上がった。舵索が切れ、浅瀬へ流されている。
「先に契約船を入港させるべきだ」
イスカラ側の船員が言う。
「救助優先の条項がある」
「あの船は料金を払っていない」
「だから救助費を記録して請求する。沈めば請求先も消える」
ダリオは帆布船を安全な海面で待たせ、ドレカの高速船を故障船へ回した。テッサが舵索を渡し、アマルタの荷船が曳航する。
救助にかかった時間、水、綱の損耗をリヴィアが記録した。故障船長は港へ戻ると救助契約へ署名し、払える分をその場で、残りを積荷売却後に支払うと認めた。
「無料で善人を演じるわけではないのだな」
報告を受けたニコラが言った。
「無料にすれば、次に助ける船員の給与がなくなる」
「払えない漁船なら?」
「命を先に救う。救助費は仕事か物で返してもらう。争えばレウカへ出す」
「ずいぶん手間のかかる仕組みだ」
「帝国へ全部決めてもらうよりは」
「道徳を数字へ変えるのが得意なのね」
リヴィアがダリオへ言う。
「道徳だけじゃ船員の給与は払えない」
「カシアンも似たことを言いそう」
「あの男は、払う金を取るところまで自分で決める」
「あなたは?」
「契約へ署名したやつから取る」
帆布船の護衛は、その後は何事もなく終わった。
到着時刻、使用した水、船員給与、護衛料。すべてが契約どおりに記録される。
待たされた帆布船の荷主には、救助で遅れる可能性が契約に入っていたため、追加の賠償は生じなかった。救助された小型商船の支払記録も、同じ帳簿へ載った。
イスカラ商人たちにとって、英雄的な勝利より、帳簿が予定どおり閉じることのほうが信用になった。
ニコラは二度目の護衛契約へ署名した。
「共同防衛への参加とは別だ」
「分かってる」
「長期の数字が出るまで、イスカラは動かない」
「なら、出るまで記録する」
最初の護衛料は、その日のうちに保険組合から支払われた。
試験護衛の最中に舵索が切れていた小型商船も、船長が約束した救助費のうち、その場で払える現金を渡した。
リヴィアは護衛料と救助費を共同帳簿に記録し、各都市の取り分を分けた。ドレカ分をテッサへ渡した。
テッサは銀貨と二度目の契約書を見比べた。
「これを今日の給与の内金にする。残りの支払期限は、イスカラ市会が参加するか決めるまで延ばす」
「二隻を塩運びへ戻す話は」
「それまでは五隻とも残す」
残りの給与と修理費まで払える額ではない。長期の支払いを支える信用状ができたわけでもなかった。
それでも、今日中に二隻が抜ける危機だけはしのいだ。
そのとき、港口の警鐘が鳴った。
穀物船一隻が帆を裂かれ、傾きながら入ってくる。船腹には矢が刺さり、甲板へ負傷者が並んでいた。
「襲撃だ!」
見張りが叫ぶ。
「ドレカ旗の船が、イスカラ穀物船団を襲った!」
岸壁の視線が、一斉にテッサへ向いた。
「私の命令じゃない」
彼女の声は低かった。
ニコラは、署名したばかりの契約を見た。
「ドレカ船がイスカラを襲えば捕らえる。そう書いてある」
「書いた」
ダリオは答えた。
「なら、実行してもらおう」
四都市の信用は、築き始めたその日に崩れかけた。




