10_海賊ではない
「速い船が遅い船を引き離す。それだけだ」
夜明け前、テッサは海図代わりの砂盤へ一本の線を引いた。
「私が帝国船の前を横切る。追ってきたら北へ走り、塩船から離す。その間にお前が乗員を助けろ」
「追ってこなければ失敗だ」
ダリオは別の線を引いた。
「見張り船は塩船を守る命令を受けてる。遠くまでは追わない。ここで追わせて、ここで止める」
指したのは、諸島北端の二つの暗礁が向かい合う水路だった。
「止める?」
「帝国の軽ガレーは、君の船より長い。直線なら速いが、狭い水路では櫂を縮めなきゃならない。暗礁へ寄せれば、櫂が使えなくなる」
「私の船も使えなくなる」
「ドレカの漕ぎ手なら、短い櫂へ持ち替えられると聞いた」
「誰に」
「昨日、浜で見た」
テッサは砂盤を見下ろした。
「お前の案では、私が帝国船の鼻先を走る」
「君の案でも同じだ」
「お前だけ浅い抜け道へ逃げる」
「俺は戻って塩船へ行く。帝国船が動けない時間を作るのが君だ」
「気に入らない」
「俺もだ」
七氏族の代表たちが顔を見合わせた。
「意見が一致したな」
最年長の代表が、口元を緩めた。
*
帝国の軽ガレー船は、低い岩島の沖にいた。
船尾には、カシアンの遠征艦隊とは別の、帝国東岸沿岸警備隊の標識がある。アマルタ沖の四十隻だけでなく、沿岸警備船までドレカ商船の摘発へ回されていた。
拿捕された塩船二隻は帆を外され、一本の索で帝国船へつながれている。甲板に帝国兵が四人ずつ立ち、ドレカの乗員は船倉へ閉じ込められていた。
テッサの高速小型ガレー船は、島の反対側から近づいた。
ダリオの案内船はその後ろ。さらに二隻の漁船が、岩陰で待つ。
「矢の届く距離へ入るな」
ダリオが叫ぶ。
「私の船で、私に距離を教えるな!」
テッサは答えながら、帝国船の正面を横切った。
ドレカの旗が見えた途端、帝国船で角笛が鳴る。弩兵が並び、兵士が塩船との曳航索を短くした。
追ってこない。
「だから言っただろ!」
ダリオが叫ぶ。
テッサは船を反転させた。今度は帝国船のすぐ前を斜めに切り、投げ鉤を曳航索へ引っかける。
鉤が索を引き、塩船の一隻が横へ振られた。帝国船の船尾へぶつかりかける。
帝国船長が追跡を命じた。
曳航索が切り離され、軽ガレー船の櫂が一斉に水を噛む。
「そこまでやれとは言ってない!」
「追わせろと言ったのはお前だ!」
テッサの船が水路へ飛び込んだ。
ダリオも続く。
帝国船の矢が水面へ刺さる。長い船体が速力を上げ、案内船との距離を詰めた。
前方で、テッサの船の漕ぎ手が長い櫂を内側へ引き込み、短い櫂へ持ち替える。船幅ぎりぎりの水路を、岩へ触れず進んだ。
「次の白波で左へ寄れ!」
ダリオが合図を送る。
テッサは右へ寄った。
「逆だ!」
「左は砂が動いてる!」
見ると、白波の下で濁りが渦を巻いていた。夜の潮で砂州の形が変わっている。昨日見た水路のまま左へ入れば、案内船の船底も擦る。
ダリオは舷側へ手を当てた。右から冷たい流れが差し込み、船尾を押す。正確な深さは分からない。
「右へ変更! 測鉛を絶やすな!」
テッサの判断に乗った。
帝国船も右へ追う。だが船体が長く、曲がりきれない。左舷の櫂が岩へ当たり、乾いた破裂音を立てた。一本、二本と折れ、漕ぎ手が櫂台から投げ出される。
「落ちた者を拾え!」
帝国船長の命令で速力が落ちる。
一人は甲板へ倒れたが、もう一人は折れた櫂と一緒に海へ落ちた。流れが暗礁へ運んでいく。
「漁船を一隻、あの漕ぎ手へ!」
ダリオが後方へ合図する。
「帝国兵だぞ!」
「一人も死なせない条件だ!」
岩陰の漁船が進路を変えた。帝国船から矢を向ける者がいたが、船長が制止する。敵であっても、自分たちの漕ぎ手を救おうとする船までは撃てなかったらしい。
漁船は流される男へ綱を投げ、暗礁へ届く前に引き上げた。
そのぶん塩船へ向かう船が一隻減る。ダリオは残る船の位置を見直し、案内船を先に戻した。
その瞬間、テッサは船首を返した。短い櫂が左右で逆向きに水を掻き、小型船が岩の間で向きを変える。
「戻るぞ!」
「最初からそのつもりだ!」
案内船と高速船は、動けなくなった帝国船の脇を抜けた。弩兵は狙いをつけられず、矢は帆の上を越える。
*
塩船では、残された帝国兵が曳航索をつなぎ直そうとしていた。
岩陰に残った漁船と、先に戻ったダリオの案内船が、左右から接近する。ドレカ人は剣ではなく、網と長竿を持っていた。
「殺すな!」
ダリオの命令に、一人が顔をしかめる。
「あいつらが仲間を閉じ込めた!」
「一人死ねば条件は失敗だ。殴るなら立てなくなる程度にしろ!」
「難しい注文だな!」
漁船が塩船へつく。網が帝国兵の盾へかぶさり、視界を塞いだ。長竿が足を払う。倒れた兵から剣を蹴り離し、綱職人が腕を縛った。
もう一隻では、兵士が船倉の扉へ剣を向けていた。
ダリオは案内船から飛び移り、舵柄を兵士の腕へ打ちつけた。剣が甲板へ落ちる。テッサが背後から兵士の膝を蹴り、首へ短剣を当てた。
「殺すなと言った」
「刃は触れてない」
「言い方の問題じゃない」
「生きてるだろ」
船倉が開き、閉じ込められていたドレカの船員たちが出てきた。
二隻とも全員いる。けが人はいたが、死者はいない。
解放された船長は、縛られた帝国兵へ駆け寄りかけた。テッサが胸を押して止める。
「条件を忘れるな」
「こいつらは俺たちを刑罰漕ぎ手にするつもりだった!」
「だから生かして証言させる。死体は、自分が何をしたか話さない」
テッサ自身も納得している声ではなかった。それでも短剣を鞘へ戻し、仲間にも武器を下げさせた。
リヴィアが双方の負傷者を数えた。折れた櫂で腕を傷めた帝国漕ぎ手、殴られた兵、拘束中にけがをしたドレカ船員。重傷者から同じ帆布の上へ寝かせる。
「死者なし」
確認を聞いて、甲板に張りつめていた息がようやく緩んだ。
櫂を失った帝国船は、残った櫂だけで水路から出ようとしていた。テッサの高速船と二隻の塩船が周囲を囲む。
帝国船長は抵抗を諦め、武器を甲板へ置かせた。
「捕虜へ水を。折れた櫂でけがをした者から手当てしろ」
ダリオが命じる。
テッサは何も言わなかったが、止めもしなかった。
*
帝国船の船尾楼から、封印された命令書が見つかった。
リヴィアが開封の経緯を記録し、内容を読み上げる。
「ドレカ諸島から出航する船は、積荷と目的を問わず海賊船と認定する。乗員は拘束し、帝国海軍の刑罰漕ぎ手として移送する――」
甲板にいたドレカ人から声が消えた。
拿捕された二隻は塩を運んでいただけだ。武器も私掠免許もなかった。
「写しを作れ」
テッサが言った。
「海峡中の船へ配る。帝国が何をするか見せてやる」
「原本は七氏族へ渡す」
ダリオは命令書をリヴィアから受け取った。
「アマルタへ持ち帰らないのか」
「ドレカの船から見つかった、ドレカへの命令だ。どう使うかは氏族が決める」
「宣伝に使えば、帝国へ反対する船が増えるぞ」
「だからこそ、俺が奪って決めない。従わせるために証拠を使えば、帝国と同じだ」
テッサはしばらくダリオを見た。
「お前は、勝てるときに取り分を減らす癖があるな」
「損をしたと思ったら、次から止めてくれ」
「そうする」
*
七氏族の会議は、その日のうちに開かれた。
命令書の原本、救い出された船員の証言、無傷で戻った塩船二隻。すべてを確かめたあと、七人の代表が一人ずつ票を置く。
投票の前に、年長の代表が命令書を机へ広げた。
「帝国は私掠船だけを狙うのではない。塩船も漁船も、ドレカを出たというだけで海賊船にする」
「だからといってアマルタへ従えば、首輪の持ち主が変わるだけだ」
反対派の代表が言う。
「契約には、ドレカの内政と氏族の船の所有を残すとある。戦時船団長の任期も一年だ」
「紙を破られたら?」
テッサが壁際から口を挟んだ。
「そのときは私たちが船を引き上げる。だが帝国の命令は、もう紙ではなく海の上で実行されている。今日戻らなければ、二隻の乗員は鎖につながれていた」
「お前は参加に反対していた」
「今も、アマルタを信用してはいない。信用していない相手と約束を結ぶために、条件を文書へ残したんだ」
ダリオは何も付け加えなかった。原本を渡した時点で、判断は七氏族のものだった。
賛成四。反対三。
年長の代表が、ダリオの持参した委任文書を引き寄せ、七氏族会議の名で署名した。
その署名をもって、アマルタ、タヴェラ、ドレカ三者の加入契約が発効した。ダリオに与えられた一回限りの加入交渉委任も、同時に終わった。
こうしてドレカ諸島盟は、公認私掠権と自治の保証を条件に、アマルタ、タヴェラとの共同防衛へ加わった。
続いて戦時船団長の選出が行われる。
任期は一年。七氏族の船を戦時だけまとめ、平時の氏族へ命令する権利はない。
選ばれたのは、テッサ・モルカだった。
「反対だったんじゃないのか」
ダリオが尋ねる。
「反対するなら、入ったあとの約束を守らせる者が要る」
テッサは高速船の舷側へ片足をかけた。
「それに、今日の操船は私の勝ちだ」
「砂州を見つけたのは君だ。帝国船を止めた位置は俺が決めた」
「では次で決める」
「何を?」
「どちらが海峡で一番の船乗りか」
テッサは手を差し出した。
競争相手と認める握手だった。
ダリオはその手を取った。
三つ目の旗が、共同船団へ加わった。




