余興は幕閉め、ゲームは終盤
今までに見せたことのない、本当の冷たさ。
首筋に怖気が走り、乱暴に服を掴んでいた掴んでいた手から、自然を力が抜けて行く。
「それに、皆さんも……
薄々、感づいてはいるのでしょう?
不思議の国……この余興は幕閉め、ゲームは終盤。そのタイミングで、長に呼ばれた意味が……
――ねぇ? 長?」
皆が固唾を飲んでチェシャ猫に集中する中、彼は当たり前のように前を見上げた。
「え?」
思わず間抜けた声と共に、チェシャ猫が見上げた方へと視線を移すと、随分斜め上。
さっきまで、普通の部屋だった空間に、見た事ないくらい、長い階段。
そこには周りと同じような、大きな白亜の玉座に、鎮座する初めてみる男の姿。
「お、さ……?」
本能が告げていた。
脳内で、警鐘がけたたましく鳴り響く。
――’’逆らうな’’――
自分ではない自分が、心臓を掴むように、幾度もその言葉で脅迫してくる。
冷や汗が滲み出してきて、膝が笑う。
人間として、殺される時ですら感じたことのない、絶対的恐怖。
視点が合わなくなり、周りの声も耳鳴りが響いて、聞こえなくなる。
いっそのこと意識を飛ばしてしまいたい、と目を瞑った時、そっと温かい感触が肩にあった。
その体温が除々に、固まった体を溶かしていく。
全身の震えが収まりそちらを見上げるとそこには――大丈夫だ、と慰めるような表情のチェシャ猫がいた。
それは先ほどの酷薄な表情とは、全く正反対。
別人のようなチェシャ猫だった。
「相変わらず悪趣味ですねぇ、長。
皆さんが辛そうです。いい加減、その圧力から、解放してあげてください」
ただ一人、隣の男だけは押しつぶされそうな恐怖の中で平然と立っていて、その恐怖の現況であろう遠くの男に言い放った。
「やれやれ、汝は相変わらず、面白みに欠けるやつじゃのぅ」
呆れたような、本当に面白くないという風な声が響いた。
こんなに遠く離れているのに、はっきりと聞こえてくる。
和らいだ恐怖の間を縫ってくるように、その声が肌をビリビリと刺した。
しかし、問題はそこではない。
その声に、この語調。
つい先程、聞いたものと同じだ。
「はく、だつしゃ……?」
片言のような言葉が、口から零れおちる。
チェシャ猫にしか聞こえないくらいの、蚊が鳴いたような声。
チェシャ猫は三月ウサギを見て、微笑んだ。
それは是と意味していたに違いない。
彼は、長を前に淡々と答えた。
「長、せっかくアナタの暇つぶしに、付き合ってあげでるんですよ~?
その言い方は、ないんじゃないですかぁ?」
口調も振る舞いも、いつもと変わらない。
おかしいほどに、全く。
「あなた、一体何者なの?」
そこに苦しげな公爵夫人の声が飛んできた。
明らかに、チェシャ猫を怪しむ声だ。
一体何者なのか。
一番近くで、未だに肩に手を乗せたままの彼のことを、一番気になってるのは自分であった。
だって、自分を含む帽子屋、眠りネズミが一番近くで、長く過ごした間柄なのだから。
「心外ですねぇ。私はただの管理人。
先ほど、アナタがそう言ったじゃありませんかぁ?」
「ふざけないで。
この圧力の中であならだけが平然としてる。
それがただの管理人ではない証拠よ」
「残念ですが、猫には人間の言葉はわからないんです~
ほら、私が怪しまれるばかりなんで、面白がってないでちゃんと話してください。長」
弧を描いた瞳、物腰の柔らかな口調。
けれどその瞳は笑っていない。明らかに長を睨んでいた。
「チェシャ猫……?」
自分の意を介せずに、零れ出た彼への呼びかけ。
自分でもわからないが、隣の男の表情が今まで知っている、どのチェシャ猫より辛そうに見えたのだ。
その呼びかけと同時に、周りが一変した。
白亜に囲まれた壁は、目が痛いほどの色とりどりの原色に囲まれたファンシーな部屋。
一様に驚きを示す皆の反応に、くつくつと笑いを漏らす長は「気にいらんようじゃのぅ」と一言、再び辺りが一変。
次に広がった周りの景色は、見慣れたハートの城に設けられた管理人専用の会議室であった。
勿論、ハートの城などではない。
ただ、長の力で変えられた‘’長の家’’なのだ。
「さて、会議を始めるかのぅ。
勿論、進行役はチェシャ猫、汝じゃ」
笑いの漏れた口元と細められた目、手に持った扇子でチェシャ猫を指名した長に、チェシャ猫は忌々しそうに唇を引き締めた。
思いもしなかった・・・
僕はただただ、予想すら出来なかった現実に唖然とするばかりで、自分の無力さを呪った。




