紡がれる愛
幾度も幾度も、何度繰り返し呼んだかは、分からない。
奇声と呟きが、幾度も交わり交差する。
眠りネズミは、その彼女を前に、立ちあがって、ゆっくりとウッドデッキへと出て行く。
それでもアリスは、奇声を上げることを止めなかった。
壊れた玩具のように、ただ首を左右に振って叫ぶだけ。
眠りネズミはその声と様子を背に感じながら、ゆっくりと帽子屋の背へ近づき、先ほど自分がされたように彼の頭を小突いた。
どうやら随分頭は冷えたらしい――そんな顔付きをして、帽子屋は眠りネズミへと首だけ振り返る。
「おい、自分で言いだしたんだ。責任取れよ」
眠りネズミは厳しい眼差しで帽子屋を見下ろしながら、親指で後ろにいるアリスの方を指す。
帽子屋は一つ、頷きゆっくりと立ち上がる。
ゆっくり確実に、一歩一歩が固い覚悟の音を刻むような足音が小さく響き、歩調も次第にしっかりしだしていく。
帽子屋はローテーブルを少し後ろに滑らせて、彼女の座るソファーとローテーブルの間に、ゆったりとした空間を作ると、そのに膝をついてアリスを見上げた。
帽子屋が前に来たことも気が付いていないのか、奇声は止まない。
そんな彼女を帽子屋は見つめて、目を細め微笑んだ。
「アリス」
眠りネズミが、幾度もの呼びかけでは、見せなかった声の色であった。
それは本当に愛おしい人にしか、呼びかけることの出来ない語調であり、響きである。
声帯を通り、歯の間、唇、そこから紡がれる一息一息が愛に包まれた、言葉では到底表現出来ないそんな呼びかけ。
まるで必然のように、アリスはその声に、耳を傾けた。
そっと両耳から手が離れて、合っていなかった視点は、除々に帽子屋へと集まる。
「アリス」
次は、子供を宥めるように呼び、そっと彼女の左頬へと右手を添えた。
アリスの手がその手に応え、2人の手がそっと重なる。
眠りネズミはその様子を見て、呆れたようにため息をつくと、キッチンから酒瓶を一本取り出し、一口ラッパ飲みをした後に、ウッドデッキへとそそくさと出て行ってしまう。
アリスはそんな眠りネズミを尻目に、ゆっくりと帽子屋の目を見た。
無遠慮な視線が、お互いを覗きこむ。
その間の沈黙は、決して恋人のように、甘いとは言えない。
ただただ、そこにあるお互いの意思を確認するような沈黙であった。
帽子屋はゆっくりアリスの視線から自分の視線を外すと、呆気なく手を離して、彼女の頭へと置いた。
「落ち着いたか?」
「あ、うん。ありがとう」
先ほどの騒然としたリビングには、帽子屋の声と共に、平安が戻って来る。
「俺はお前の傍にいるから、何かあったら俺を頼れ」
「何それ。告白みたい」
「まさか」
アリスには、キッチンへと背を向けた帽子屋の背が、微笑んだ気がした。
帽子屋は、いつもより少なめの酒瓶とグラスを手に、どうやらウッドデッキへむかうらしい。
「飲むだろ?」
少しだけ酒瓶を掲げて尋ねた帽子屋に、アリスは満足そうに微笑んだ。
応援要請と言われて迎えにきたのは、管理局に属する誰でもない、もっと上からの遣いであった。
その姿を見た瞬間、辺りの沈黙が変わることはなかったにしろ、沈黙の中には目に見えるような緊張、疑念、動揺などが混じり合い、先導する遣いの姿がなくなるまで、痛々しいそれは守られたままであった。
そこは見たことも、ましてや来たこともない、白亜の建物。
多分、内装からしてハートの城など、比べ物にならないくらいに広い。
応援要請ならば、前回のように管理局中央塔にて役割分担が行われ、各々任された班と合流し、任務をこなすだけだ。
なのに、なんなんだ?
ここは一体どこだ?
あの遣いからして、自分たちが来るには場違いな場所にしていることを知った三月ウサギは、かなり挙動不審になっていた。
いつも隣にいる、眠りネズミはいない。
代わりに飄々とした様子のチェシャ猫を見上げると、すぐにその視線に気付いたようで、首を傾げながら目を合わせて来た。
「大丈夫ですよ。ここは‘’長の家’’ですから」
「長……?」
まさか、あり得ない。
その言葉は口から出てくることはなく、目を見開いた。
周りの管理人を見渡してみると、皆もはっきりと緊張を表情に出している。
「そーですねぇ、ここを理解しているのは、この中ではおそらく私だけでしょう。
まぁ、眠りネズミサンがいたら、彼も知っていたでしょうが……」
「なんで……アンタが知ってるさ」
まるで、恐怖を目の当たりにした時のように、自分の声が震えているのが分かる。
皆もそれは同じようだ。
なのに、隣のチェシャ猫だけは、涼しげな顔で平然としている。
現状で、その様子は異常であった。
「どういうこと? チェシャ猫。説明しなさい」
どうやら会話が聞こえていたらしい公爵夫人は、物怖じせず、はっきりとした口調で、チェシャ猫を見据えた。
チェシャ猫は一瞬、驚いたように目を見開き、肩を竦める。
「説明も何も……私はここに来たことがある。
ただそれだけです」
眠りネズミも、たった一度だけここに、呼ばれたことがある。
その事実を思い出した。
確かに、ここが‘’長の家’’だと言ってもまったく不思議とは思わない。
四方を囲む、無垢な白。
漂うのは一遍の穢れも感じさせない、純粋な空気。
体も心も浄化されそうでいて、どこか痛みすらも感じさせるような居心地の悪さだ。
「来たことがある、ですって?
一端の管理人風情のアナタが、何故ここに?」
「レディには、似つかわしくない言葉は、慎んだ方がよろしいですよ~?
見場は、最高なレディなのですから……」
怪しく弧を描いたチェシャ猫の目に、公爵夫人は怒りを噛みしめていた。
「黙りなさい。
元々、アナタは信用ならなかったけど、一体何考えているの?」
――私はアナタを信用していませんので
――そっくりそのまま返すぜ、バカ猫
公爵夫人の‘’信用’’という言葉に、ふと不思議の国から離れる前、2人に間に交わされた短い会話を反芻させた。
チェシャ猫は何故、あんなことを言ったのか。
確かに、好き嫌いははっきりしている彼であるが、あの状況であんな宣戦布告なようなこと。
眠りネズミも、チェシャ猫を信用していないと言い返していた。
帽子屋の間に挟んで、常に言い合いをしている2人。
仲が良いと思っていた。
同時に、何か引っかかるものがあったのも確かだ。
反芻させた記憶を一つ一つ組みたてながら、考えているとふと、チェシャ猫が意味ありげな言い方を返した。
「利害の一致、ってやつですよ」
――利害は一致ってのは、素晴らしいからなぁ。
――利害の一致とは、素晴らしいですねぇ。
そう言えば2人は、よくこの言葉を使っていた。
今、彼が言った言葉もそうだ。
まるで公爵夫人ではない、誰かに言っているような声色と、その弧を描いた瞳は虚空を睨んでいるようにも見える。
「それは……どういう意味?」
訝しむように、眉根を寄せた公爵夫人。
三月ウサギの耳にはその問いかけは入っておらず、2人の間に割って入るように、チェシャ猫の服を掴んだ。
本当は胸倉を掴んでやりたかったが、背丈の差があり過ぎて、胸元の服を引っ張るのがやっとだ。
力任せに自分の方へ引きよせ、睨みつける。
「アンタの言う利害の一致ってのは、‘’誰のため’’の利害なんだよ!
アンタと眠りネズミは、一体……」
「そんなこと……言わなくてもわかるでしょう?
私はただ……アリスのために、生きていたんですから……」
されるがままに引き寄せられ、三月ウサギの震えた怒号に対して、チェシャ猫は酷薄な笑みを浮かべ、三月ウサギを見下ろした。




