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呼ばれることのない名前

 


 お互いに感じとった、沈黙が訪れる絶対的な予感を打ち破ったのは、眠りネズミの頭を小突いた帽子屋の存在であった。



「お前の言葉には、説得力がねぇんだよ」



 どこから持ってきたのか、ウッドデッキには不釣り合いの豪奢な椅子を引きずり、2人の間にドンっと鎮座させる。

 先ほどまで、それこそ闇へと引きずり込まれそうなほど落ち込んでいた帽子屋の登場に、アリスは目を瞬かせながら、その表情には少しの安堵が窺える。

 眠りネズミも目尻を下げながら、どこか安心した笑みを浮かべた。



「アリス。俺が出来る約束を、一つだけしてやる」



 帽子屋は眠りネズミを一瞥した後、アリスの瞳を真っ向から見つめて、ふてぶてしい態度のまま、声色だけ真摯に言い放った。

 アリスは答えないが、合わさった視線だけは、その言葉の続きを要求しているようだ。



「俺はお前を見捨てない。必ず守ってやる。

 いいか? 忘れるな?

 俺が死ぬことがない限り、お前は最後まで、足掻き続けろ」



 何を根拠にそんなことが言えるのか、アリスにも眠りネズミにも全くわからなかったが、そこには確信めいたものが込められてあった。


 信用してもいい。

 心がそう認める何かがあったと、アリスが感じた。

 小さな安堵の笑みを浮かべながら、アリスはゆっくりと頷く。



「お前……」



 眠りネズミはどこか悲しそうな、少しだけ訝しむような表情の後、失笑を湛える。


 帽子屋は眉を上げて、眠りネズミを一瞥。

 ニヤリ、と口元を歪め、何か言葉にしようと薄らと口を開いたが、その前に他に興味が移ったのか、アリスの方へと、再び視線を戻した。



「帽子屋?」



 そんな帽子屋に違和感を感じて、眠りネズミは彼の名前を小さく呟く。

 その違和感にアリスも感じとったのか、帽子屋を見ては心配そうに眉を顰めた。



「アリス。お前は、お前の親を許せるのか?」



 今までの話とはあまりにも無関係で、唐突な問いにアリスは言葉を失い、見つからない答えに口をつぐんだ。



「親……って、なんで?」



 話がちゃんと飲みこめないのか、アリスが反対に聞き返す形になる。

 眠りネズミは何も言わなかったが、何かを察しているように、目で制止を訴えるように、帽子屋を睨む。

 しかし帽子屋は、その視線を目の端に捉えながらも言葉を続けた。



「お前は、剥奪者としての過去しか持ち合わせていない。

 それは当り前のことだ。人間として生を受けなかったんだからな。

 でも俺は、お前の母親と父親になる予定だったやつのことを知っている。

 お前が、生まれて来れなかった理由も知っている」



 帽子屋の語調が、続きを聞くか否かを尋ねていると気付きながらも、アリスは二の句を中々継げることが出来なかった。


 束の間の沈黙。

 予想だにしなかった過去の話を冷静に告げる帽子屋の声が、アリスの耳の奥で反響した。

 頭の中で反響する音と比例するように、風が3人の周りを気まぐれに戯れては、舞い上がるその草木の匂いが鼻腔をくすぐり、ハッとした既視感にアリスは目を見開いた。



 少し前に、見た夢を思い出す。

 闇の中で感じる温かさと、体に直接響いた鼓動の音。

 何かを挟んで、聞こえる男女の幸せそうな会話。



「私の名前を、決めてた……」



 夢の中での会話が反芻される。



「生まれてから、俺が呼ぶまでの楽しみだって……男の人が言ってたの」



 視点が合わないアリスのたどたどしい言葉に、眠りネズミは驚いたように目を見開き、少しだけ口も開く。

 帽子屋は眉を寄せて、痛みに耐えるような酷く切なそうな顔をした。



「ねぇ、帽子屋さんは……私の名前を知ってるの?」



 風が止んだ。

 無音の世界が広がり、そこにアリスの声が、異常なほどまでに響き渡ったかと思うと、不思議なくらいにそれは無音に吸い取られていく。

 その問いかけた声は、あまりに不思議な声色であった。


 例えて一番近いのは、初めて言葉を話した赤子の、たどたどしくて澄み切った――そんな声。

 帽子屋は彼女の前で、初めて動揺に目を揺るがせた。

 それが是との答えを示しているのに、帽子屋は何も言葉を紡がない。

 いや、紡げないのかもしれない。



「ぼう……」



 眠りネズミは放っておけない様子で、友人の動揺に目を瞬かせながら、彼の肩を敢えて乱暴に掴む。

 帽子屋を呼ぼうとしたが、それを途中で止め、肩を掴んだ手の力も、そっと緩めて行く。


 掴んだ彼の肩は、小さく震えていたのだ。

 そこまで狼狽え、何かに戦く帽子屋の様子を初めてみた眠りネズミは、言葉を失った。

 アリスはそんな帽子屋を見て、確信めいた視線を眠りネズミにぶつけたあと、小さく息をついた。



「ごめん……

 何か混乱させたみたいだね」



 アリスは俯いて、視線を膝へと落とす。



「悪いな、アリス。

 あんな啖呵きっておいてカッコつかねーやつだよな。

 でも、剥奪者になんか言われたみたいだし、続き……俺が話してやるよ」



 おいで、と立ち上がった眠りネズミに、アリスは目を丸くする。

 帽子屋を放置しておくのか、と少しだけ非難の色も含まれているように見える。

 眠りネズミはその視線に困ったように目尻を下げ、手招きをしたのを見て、アリスは渋々リビングへと入った。



「なんでわざわざリビングに?」



 既に、言葉に動揺の色は消えていたアリスの声と、彼女が指定のソファーに座った時のクッションから空気が抜ける、小さな音が同時であった。



「深い意味はないけど。まぁ、これ以上あいつを混乱させないために、だよ」



 ニヒルな笑みを浮かべて、ゆっくりと腰を降ろすと「さて」と区切りをつけるように、眠りネズミはアリスを見た。



「これは、俺が帽子屋に聞いた話だ。

 帽子屋が、何故知っているのか。それは俺の口からは言えない。

 けど、紛れもない真実だ」



 ほんの一瞬、緊張を促す間を作って、眠りネズミは小さく息を吸い込み続ける。



「前に、この不思議の国の基盤となった物語を作った、男の話はしたよな?」



 確認した眠りネズミの言葉に、アリスは深く頷いた。

 それを見て、今やっと意を決したような目つきになった眠りネズミが発したのは、同時にどこか呆れたような口調だった。



「それが、お前の父親だよ」



 聞いた瞬間、アリスは呆気にとられ、理解出来ずにいた様子だ。



「‘’アリス’’……は、アリスの母親の名前。

 前話した時は、省略した部分がある。

 2人の短い幸せな時間に、アリスは子供を身ごもった。

 もう少しで生まれるって時に、アリスは不慮の事故で、子供もろとも死んだんだよ」


「その子供が私……?」


「そう」



 眠りネズミは一度、目を伏せて何かを言うか言うまいか、悩んでいるような素振りを見せた。

 アリスはそれにすぐに気が付き、訝しげに「続きがあるの?」と尋ねる。



「こんなこと、言いいたくはないんだが……

 お前さんが呼ばれる筈だった名前が、確かに存在した。

 だが、実際のところお前さんに、名前はないんだ。

 生まれなかったと同時に、名前を呼ばれることは……なかったから、な」



 ハッと気が付いたようにアリスは目を見開き、眉を寄せて受け入れられない現実に、目を幾度も瞬かせる。



「アリス……」



 眠りネズミは、言い知れない罪悪感を感じた時のような声色で、なんとも頼りなく彼女の名前を呼んだ。

 アリスは、子供が駄々をこねるように、幾度も首を左右に振る。



「聞きたくない! やめて!」



 非道で、残酷な剥奪者の影など、これっぽっちもない。

 眠りネズミの前で聞きたくない現実を拒むのは、小さな小さな‘’ただの平凡な少女’’であった。



「アリス」



 全身で拒否するアリスを宥めるような語調で呼びかける。

 やさしく、やさしく。まるですぐ割れてしまうシャボン玉が、目の前にあるような柔らかい声……


 耳を両手で塞いで「いや、いや」と繰り返す彼女にはその声は聞こえない。



「アリス」



 眠りネズミは、それでも呼びかける。

 次は諭すような語調であった。

 理性の糸が切れたアリスが、子供のように叫ぶ心境は、眠りネズミには理解し難いものだ。


 それを知っていて、彼は再び呼びかけた。






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