ようこそ、不思議の国へ
天井が近い。
違う。見慣れない天蓋だ。
天蓋の内側に刻まれたレリーフは、見覚えがあるものだった。
いつもより頭がはっきりして、まるで今まで夢を見ていたように頭が軽い。
「そうか。だから私はアリスか……」
全てを納得したように、落ち着いたアリスの声色が、誰もいない部屋に空しく響いた。
ゆっくりと起きあがり、部屋を見渡す。
おそらく、城のどこかなのだろう。
公爵夫人の屋敷にあったレリーフと番をなす、蝶のレリーフからそう彼女は推測した。
視界が、いつもよりクリアに映る。
まだこの国にきて、2週間ほどしかたっていないというのに、慣れ親しんだような空気が、彼女の全身を取り巻いていた。
そこに見計らったようなノックの音。
「失礼します」
数日見なかっただけで、懐かしく思える顔があった。
「フロッグ」
「御無沙汰しております。アリス様」
銀髪に整った顔。柔らかい物腰に、左耳に光る管理人である証のピアス。
「アラン・ヴァルセーナ・レグナード」
ゆっくり、確かめるような声色と、アリスの透き通るような視線に、フロッグは目を見開き、自然と一歩退いた。
アリスの瞳はゆっくり、からかうように細められ、口元は弧を描かれる。どこか妖艶さを感じさせる表情。
「私が剥奪者として、最後に狩った名前よ」
フロッグは顔に、驚愕と恐怖を交えた色を浮かべて、咄嗟に踵を返して、部屋を出て行こうとしたが、それは彼の後方からやってきた人影によって阻まれた。
「どうかしたのか? フロッグ」
やってきたのは相変わらず、眠たそうに欠伸をする、眠りネズミであった。
「あっ、いえ。少し用を思い出したので失礼します」
フロッグはそっと、アリスを一瞥して、部屋を出て行く。
「おう、3日?ぶりだな。
倒れたって聞いたけど、大丈夫か?」
「うん。私、どれくらい寝てたの?」
「ん~、俺らが帰って来たのが、昨日の夕方だから約一日? 今、昼すぎだし」
彼は部屋の時計を指差すと、そこには13時前を指す時計。
「寝すぎでしょ、私」
「寝る子は育つんだよ」
惰眠を貪るのが好きな彼は、アリスを責めることはなく、反対に肯定の意を示した。
「さて、起きてすぐになんだが……」
眠りネズミに手招きされ、部屋の入り口に行くと、外には三月ウサギの姿。
彼女の姿にアリスは思わず、三月ウサギを抱きしめようとするが、それを予測していた三月ウサギは眠りネズミの背後に隠れて、それを避ける。
「あれ? ここって、お城じゃないの?」
「お~、さすが俺のアリス。レリーフに気が付いたのか」
‘’俺の’’発言に反応した三月ウサギは、後ろから彼の脛を狙って、一度蹴りを入れるが、眠りネズミはそれを間一髪の所で交わして、三月ウサギを持ちあげた。
「とりあえずついて来いよ、アリス」
離せ、とバタつく三月ウサギを所謂、お姫様抱っこしながら先を進む彼に、アリスは小首を傾げながら、その背に続いた。
眠りネズミの背を追いながら、色んな絵画や花瓶が並べられた廊下を見渡すが、そこは彼女の知るどこでもなかった。
広さは帽子屋の家の倍はあるだろう。ならば、ここは一体どこなのか。
その疑問はすぐに、理解へと変わることになる。
廊下をまっすぐ進むと、大きな観音扉にさしかかり、漸く三月ウサギを降ろした眠りネズミは、その扉を開いて、アリスに入るように促した。
――途端、小さな破裂音が数回。
「ようこそ、アリス」
彩られた広い部屋と立食用のテーブルか沢山並び、扉の周りには彼女の見知った顔が、全員正装の姿でクラッカーを鳴らしていた。
「え? え?」
戸惑う彼女に、眠りネズミは部屋の中央に促す。
そこには、シャンパンタワーが設置されていて、彼がアリスを担ぎ、肩へ座らせると、隣から帽子屋が透明な液体の入ったフルボトルを差しだした。
「ほら、注げよ」と帽子屋に言われ、そっとタワーのてっぺんに注ぐと、綺麗に下へとシャンパンが泡を立てながら伝って行く。
全て注ぎ終わり、未だに戸惑いを見せる彼女をゆっくりと降ろした眠りネズミと帽子屋を交互に見て、アリスは説明を求める。
そこに割り入って入るように、公爵夫人が訪れると恭しく挨拶をした。
「遅くなりましたが」と前置きをする。
「ようこそ、不思議の国へ。アリス」
バラバラであったが、数人の声が重なった。
「ここが、アナタの家ですわ。
用意するのに、時間がかかってしまって、申し訳ありません」
「え? ここが!? 広すぎないですか!?」
誰かの屋敷なのだろう、と思っていた彼女は、まさか自分に当てられた家だと聞いて、分かりやすく驚愕を示した。
「使用人も付けてくれるそうだ。これで、家事の心配はないな」
嫌みったらしく上からそう見下ろして、鼻で笑う帽子屋に、アリスは一睨みして、そっぽ向く。
そんな彼女の手を引いたのが三月ウサギと、隣にいた白ウサギであった。
「とりあえずは……」と三月ウサギ。
「アリスのお茶会です」続けて、白ウサギが楽しそうに、アリスへと微笑みかける。
お茶会と称しながら、初っ端から先ほどのシャンパンに、手を付け出した男性陣。
テーブルに並ぶ料理の数々は、アリスが眠っている間に、シェフとともに帽子屋が腕を振るったのだと眠りネズミが教えてくれて、さっきの言葉が許してやろうとアリスは思った。
まるで、青春の一ページのような時間が、過ぎて行く。
自分のために開いてくれたパーティーにアリスは、最初は照れていたものの、次第に雰囲気に乗り、皆とともにお酒を嗜みながら、あっという間に時間が過ぎて行った。
「どうですか? 楽しんでいますかぁ?」
チェシャ猫が話しかけてきたのは、珍しくお茶会も終盤に、差し掛かった時であった。
「あれ? チェシャさん」
「すみませんねぇ。少し急用が入って、少し前に来たんですよ」
グラスを片手に、謝罪の意を述べたチェシャ猫と、何故かそんな彼を訝しげに見たアリス。
「なんです~?」
「いや、チェシャさんってこの国に来る前に会ったことってあったっけ?って思って……」
「ないですねぇ」
アリスの問いに、チェシャ猫は間髪いれずに断言した。
「本当に?」
「疑うんですかぁ?」
芝居がかった口調に、アリスは怪しそうに大きく頷くと、「おや」と一言チェシャ猫は肩を竦めた。
「アリス君に嘘をついたことありましたっけ?」
質問で返されたアリスは、思い返して見て首を傾げる。
「分かんない」
「まぁ、これは本当ですよ。アナタと私は会ったことありません。
他の方なら、もしかしたらあり得ることもないかもしれませんが……」
「そっか」
チェシャ猫の言葉に、納得したように頷いたアリスの後ろをチェシャ猫は見やった。
「おやおや、アリス君の保護者の帽子屋サンが、こわ~い顔で睨んでますので、私は退散します~」
さっさと踵を返したチェシャ猫の言った通り、後ろを振り返った方には帽子屋が不機嫌そうな表情でこちらを見据えていた。




