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アナタの願い、叶えてあげましょうか?

 



「まったく……」



 アリスの絶叫に、急いで駆けてきたのは、チェシャ猫であった。

 焦点の合っていない彼女の視界を奪うように、両手で顔を包むと、彼女は糸の切れた人形のように意識をなくした。



「これは……」



 チェシャ猫は、アリスの足元に落ちているローブを拾い上げ、忌々しげに顔を顰めた後、彼女を抱きあげる。



「まさか、こんなにも早く自分の記憶に辿りつくとは……

 まぁ、ここは記憶の溜まり場のようなものですから当たり前ですかぁ。

 剥奪者に名を奪われた人間の、ね」



 チェシャ猫は、手にとっていたローブを投げ捨てると、踵を返してその場から消えた。

 時間からして、10分とたっていないだろう。

 どこからかの路地裏から、アリスを抱えたチェシャ猫が姿を現したのは……



「大丈夫なのか!?」



 ベンチが立ち上がり、アリスを抱えるチェシャ猫の元へ駆けよる帽子屋に、チェシャ猫はため息と共に、乱暴にアリスを彼へと引き渡した。



「国の外へ足を踏み入れてしまっていたようです。

 発狂しそうになっていましたから、意識を飛ばしましたが……」


「国の外だと!?」


「ええ、どこかの路地の道が、何かしらの拍子で外に繋がったのかも知れなせんねぇ」


「そんなこと、聞いたことが……」



 チェシャ猫は逡巡するように、目を伏せて、帽子屋へと近づくと、ふと額に手を充てた。



「私が見たローブです」



 チェシャ猫の記憶を垣間見た帽子屋は眉を顰める。



「あの男が動き出したのか」


「ええ、この国に潜んでいることは知っていましたが……

 まさか自ら動きを見せるとは思っていませんでした。

 この国は壊れ始めている。彼女の来訪とともに……」



 帽子屋の傍を通り抜けたチェシャ猫が姿を消す直前に、帽子屋は彼を呼びとめる。



「ああ、一つ言い忘れていましたが……」



 帽子屋が切り出す前に、チェシャ猫が振り返らず帽子屋の背へと言った。



「もうすぐ皆さんが帰って来るようです。

 また、城でお会いしましょう」











 私は、名前も持たずに生まれた。


 いや、生まれることすら出来なかった中途半端な魂だった。

 誰かに名前を呼ばれることすらなく、また延々と続くような長い軌道へと魂を預ける。

 そう思っていたところにあの男の声が私へと呼びかけたのだ。



 ―――さぁ、おいで



 と。


 燃えるような、それでいて血のような深く赤い髪。


 その頃は、まだ顔もはっきり見えるくらいに短かった記憶がある。

 男は名前を名乗らなかった。代わりに自分は’’剥奪者’’だと言った。


 白いローブを肩にかけ、常に格好はだらしがなく、長い袖と長いズボンの裾を引きずって、歩いているイメージが強い。

 私の魂はその男に拾われた。

 別について行く必要はなかった。また軌道に乗って、何年も先で人間として生まれるだろうという予測はあった。

 しかし、何年もの眠りは苦痛でもある。


 私は気まぐれに男に付いて行き、二代目剥奪者として育てられた。

 男についていて分かったというよりも、本能的に感じ取ったことがいくつかあった。


 彼はあまりに繊細で脆く、この永久の時を生きるという状態に耐えられなかったのだ。

 帽子屋が口にし’’管理人''

 私が疑うこともなく、彼ら‘’管理人’’の傍に身を任せたのは、男と似たものを感じていたからなのかもしれない。


 だから、今になっては予測の範囲でこう思う。

 初代剥奪者は多分、元は管理人側の存在だった。

 なにをどう間違えて、管理する筈の人間の名前を奪おうという考えに至ったのかまではわからないが、何かが……そう、あまりにも長い時間が彼を狂わせたのかも知れない。



「ねぇ、もしかしてこれって」


「なんじゃ?」


「アナタの暇つぶしなんじゃない?」



 どこだったかは、分からない。

 確か、珍しく男が出かけるといって、どこか見覚えのあるような――景色の良い丘に、連れて行ってくれた記憶がある。

 私はそう問うと、男が目を瞬かせた後、高笑いを上げた。



「汝はほんに、物おじせぬ娘じゃのぅ。

 そんな所もあやつに似て、憎たらしい」


「あやつ? ってか、答えてよ」


「パパと呼んだら答えてやってもよい」


「じゃあ、いいわ」



 剥奪者とは、何なのか。

 私は彼から、色んなことを習った。

 名前とは人間そのものの’’存在’’を指す。


 勿論、人間が自ら名前という存在を捨てることはないし、出来ない。

 しかし、剥奪者とはそれを奪うことが出来る、というもの。


 何故、彼が私を選んだのか。

 何が目的で彼がそんなことをするのか。

 私は聞かなかったし、どうせ聞いたところで、彼は答えないことを知っていた。


 どんなに長い間、一緒にいたかは分からない。

 人間世界を観察していて、30年くらいだろうと勝手に思っていた。



「我は、汝のこと好きじゃぞ。

 勿論、育ての親として……じゃが」



 よく2人でいる、人間世界とその上にある世界の狭間で、男は唐突に、私の背へと告げた。

 その頃には、髪は腰まで長くなっていたと思う。

 私も正直、この男のことは嫌いではなかったが、実は胸の奥底に、男に対する言い知れぬ恐怖感もあったことは事実だ。



「何よ、いきなり。気持ち悪い」



 そう突き放すと、良くする高笑いを一つ上げて、一瞬だけ悲しそうな目をしたものだから、咄嗟に私は狼狽てしまった。



「まぁ、汝を選んだことは、間違いではなかったと、我は自負しておるぞ」



 最近どこかで手にいれたという扇子で仰ぎながら、彼は自信ありげに笑っていた。


 そんな矢先、彼は唐突に私の前から姿を消した。

 数日なら良くあることであったが、姿をくらまして一年経った時。

 ああ、もう彼は戻らないんだな、ということを理解した。


 まるで、いつの間にか巣立っていた鳥のような気分がして、ほんの少しだけ寂しかったのを覚えている。

 私を剥奪者としたのはあの男。

 私が、そう存在する必要はなくなったのかも知れない。


 もう一度、魂の軌道へと戻れるのなら戻って、訪れるであろう来世で人間として、暮らしたいという願望も胸に抱きはじめていた。

 けれど、そんな私を制するように男は一度だけ、姿を現し―――



「汝はもう、本来あるべき所には戻れぬ。

 汝は我と同じく、穢れ堕ちた魂じゃ。数多の魂の居場所を奪い、穢した。

 愚かな子よ、汝の居場所は、我といたそこにしかないことを知るがよい」



 脅迫じみた呪いの言葉だけを残して行った。

 その時になって、自分が彼に唆され、やってきた行いがどれだけ、罪深いことなのかを思い知らされた。

 そして彼がいなくなって初めて、私は一体何者なのか、という疑問に辿りついたのだ。


 人間でもなければ、ましてや神と等しい存在といったわけでもない。

 しかし人間が欲した時、私がその人間との繋がりを欲した時に、人間には私の姿が見えて繋がりが持てる。


 それはまるで幽霊、いや悪魔のような存在にも思えた。

 だから私は自分の居場所を求めて、相変わらず人間と取引を続けていた。



 ―――そうだ、記憶をなくしながらも何度も思い出しそうになった記憶……


 それは有りふれたスラム街の路地裏。木箱の積み重ねられた上に私が座っていたら、一人の青年が私を見上げて、懇願するように見つめて来た。


 ああ、この子は私を見付けたのか、と被っていたフードを少しずらして青年の顔を見つめた。

 暗い路地裏でも、美しく輝く銀髪と綺麗な顔をした青年。

 身なりもそれなりにキチンとしていて、青年が私も見付けたことを最初は疑問に思った。


 私も見付けることの出来る者の大抵は、明日生きられるかどうか、と切羽詰まった種類の人間ばかりで、そんな人間の願いのほとんどは人生を変える‘’金’’であった。


 しかし、この青年はなんだろう?



「アナタの願い、叶えてあげましょうか?」



 いつもの言葉を呟く。



「対価は、アナタの存在をかけた私とのゲーム。

 そのゲームに勝てば、アナタの願いを一つ、叶えてあげるわ。

 でも負けたら、アナタの名前を頂く」


「いい」



 青年は、まっすぐに私を見つめて言い放った。



「俺の存在は諦めるから……願いだけ聞いてくれ」



 今までの人間とは、違う種類の人間だと分かった。


 彼には、自分の幸せよりも優先したいものが……

 自分を捨ててまでも、幸せにしたい誰かがいるのだろう。



「頼む。存在でも、名前でもなんでもくれてやるから、姉さんを助けてくれ!」



 膝を地について、泣き叫ぶような青年の声が路地裏に響く。



「分かったわ。叶えてあげましょう、アナタの願い」



 それが私の狩った最後の名前。


 青年の名は確か―――……






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