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ひと時の平穏

 



 金属が交わる、不快な音が響いている。

 かと思えば、少し高めの鼻歌が流れ込んできて、何とも言えない不協和音を奏でていた。



「おい、出来たぞ。ちょっとは手伝え」



 フライパンを振っていた帽子屋はまた別のフライパンを用意して、解いた卵を薄く焼くと、先ほど炒めたチキンライスを卵に閉じた。

 帽子屋が不機嫌そうな顔をして作ったのは、アリスが家へと訪れるや否や、リクエストしたオムライスであった。


 食卓テーブルへスプーンとフォーク、水などを運び終えたアリスは今か今かと椅子に座って待っている。

 帽子屋は腰に巻いたエプロンを椅子へと無造作に放り投げると、2人分のオムライスと適当に盛っただけのサラダを食卓へと並べた。


「食材がなかったから、これだけだけどな」


 と前置きをする帽子屋に、目を輝かせているアリスは嬉しそうに頷いた。

 この2、3日間、まともに食べていなかった彼女はお腹を空かせていたのか、いつもの三月ウサギにも劣らないペースで食べ進めて行く。


「おいおい、もっとゆっくりちゃんと噛んで食べろ。

 ただでさえ、まともに食ってなかったのに……胃を痛めるぞ」

 彼女のペースに圧倒されながら、そう注意を促す帽子屋。


「そう言えばさ……」


 もぐもぐと口を動かしながら、何かを思いついたように顔を上げたアリス。


「口の中のを飲みこんで話せ。仮にも女だろ?」


「仮にってなによ~」


「女はそんなことしない」


「するもんね」



 ごくり、とちゃんと噛んでいるのかさえ怪しい音が聞こえた、帽子屋は顔を顰める。



「管理人って他に誰がいるの?」


「お前、さっき言ったこととチグハグだぞ?

 自分で探すんじゃあなかったのか?」


「だって……今日は眠りネズミサンもいないみたいだし……」



「ああ。今日は仕事で皆、駆り出されいる」


「仕事?」


「ああ、仕事だ」



 食い下がったアリスに帽子屋は、それ以上答える意向を見せなかった。

 ’’それ以上聞くな’’という意味であると彼女は理解していた。


「みんな、あまり質問に答えるのは、好きじゃないみたいね?」


「そうか?

 俺やチェシャ猫は、結構答えていると思うぞ?」

「だって……重要な部分は、はぐらかされるから……」


 アリスはそう言って、再びオムライスを口に運びだしたと思いきや、何か思いついたように奇声を上げ、口の中のものが器官に入ったのか、むせ返る。

 その様子に帽子屋は呆れて、ため息すら出ずにティッシュを彼女へと渡した。

 漸く収まると、水を一杯飲んだアリスは苦しそうに続ける。


「そう言えば……お婆さんがね。

 死の無い世界だって言った後、何か続きがあったみないなんだけど……

 私には、まだ早いって教えてくれなかったの。

 多分、同じようなことをチェシャさんも言ってた気がする。

 なんだっけ……確か……」


 アリスはスプーンを口に当てながら考える素振りを見せ、帽子屋はそんな彼女の言葉を聞いて、顔を顰めた。


「その答え、お前は聞いてもいいのか?」


 唐突に帽子屋の声色が真剣味を帯びた。


「え?」


「俺はお前の知りたいことがなんなのか、知っている。

 でも、今は知らない方がいいこともある」


「何それ」


「そういうことだ」


「どういうことよ」


「いいから早く食え。冷めるぞ」


 帽子屋は結局の所はぐらかしては、食べることを勧め、アリスも不満そうにしながらオムライスを完食した。

 満腹の彼女はソファーに移って、吹き込んでくる風を気持ちよさそうに受けている。

 帽子屋は食器を片づけ終わると、アフターティーを彼女の前へ置き、自分の分もテーブルに置いた後、ソファーへ腰掛けると、ゆっくりと紅茶を味わう。


 沢山話した反動からか、随分と長い沈黙がリビングを包んだ。

 ふと、アリスが独り言のように呟く。


「幸せだな~って思うの」


 小さく小さく囁かれた言葉は風に攫われてしまいそうであったが、帽子屋の耳にはちゃんと届いていた。


「なんでだろうなぁ。

 皆といるのが楽しくて、チェシャさんが呼ぶようにお姫様になった気分で……

 まるで、本当に’’アリスのための物語’’の中にいるみたい。

 夢なら覚めてほしくなくて……でも現実なら……」


 アリスはふわりと風で浮いたカーテンのその先を見ながら、一度言葉を止めたが、遮光カーテンが風と共に外側へ引いて行った後に続けた。


「いつかは、なくなっちゃうでしょ?

 私ね、気が付いてる。

 自分の聞きたいこと。帽子屋さんやチェシャさん、お婆さんが私に告げなかったこと。

 もし、それが私の思うものと同じなら……

 私のために教えてくれなかったんだよね?」


 再び、吹き込んできた風がアリスの髪を揺らし、アリスはその風に促されるように帽子屋の方へと振り返った。

 その表情は、今までのどんな表情よりも儚げで悲しみを帯びたものだった。

 帽子屋はカップをソーサーに置き、沈黙を守る。


「この世界は……」


 しばらくの沈黙の後、言葉を選ぶように慎重に彼は言う。


「不思議の国ってのは……一人の男が書いたお伽噺だ。

 それはアリスという少女が見る夢の中の話。

 全くもって、意味のわからない世界の話だ。

 それと同じで……この世界も、いつ出来たのか誰にも分からず、いつの間にか自然と出来がっていて、彷徨う魂が集まる場所へとなっていった。

 何故、そのお伽噺がこの世界になっているのかは分からない。

 人の思念で出来あがった、つまり多くの人間が知っている物語だからじゃないか。

 それが管理人の予想だ。

 そんな曖昧で……矛盾だらけの玩具箱みたいな世界のくせに……

 ここはとても残酷な場所なんだ」


 帽子屋の言葉が目に見えない誰かを責めるような声色であり、言葉を重ねる度に表情は歪んで行った。


「死の無い世界?

 いや、確かにここには死が存在しない。しかし……」


 帽子屋はそこまで言って、やっと言葉を止めた後、アリスを見た。

 アリスはただ帽子屋の言葉に耳を傾けていたが、その視線とかち合うと小さく微笑む。


「大丈夫。私、聞く覚悟は出来てる」


 微笑みと覚悟の言葉。

 帽子屋は一度、唇を噛み、幾度か言葉に出す手前で躊躇った後、遂に続けた。


「ここに……不思議の国に長く居すぎた魂は……

 やがて消滅する」


 最後の言葉を紡いだ時、風は止み、世界が沈黙に包まれたような気がした。

 アリスも予想していた言葉だったのだろう。

 悲しそうに目を伏せ、唇を引き締める。


「でもな。

 長くってのは、100年以上のことをいう。

 その間に見付けられなかった場合のことだ」


「その確率は?

 見付けられる確率と、管理人に救われる確率を足して……どのくらい?」


 意外とアリスの冷静な声に帽子屋は言葉を躊躇った。


「2%。あるかないか、だ」


「そう」



 再び長い沈黙が訪れた。

 その間、アリスはカップに手をつけず、帽子屋は何度めかのお変わりを注ぎ足した。


「管理人には……住人の過去ってわかるの?」


「まさか。

 分かるなら、教えても文句は言えないだろう?

 それにさっきも言ったが、俺達は上が定めた人間しか救えない。

 俺の場合は許可が降りたときだけ、この銃に弾が装填される仕組みになってる」


「へぇ。便利だね。まるで神様みたい」


 アリスの言葉に帽子屋は飲みかけた紅茶を吹きそうになる。


「お前、カミサマとか信じる性質だったのか?」


「え~、信じないの?

 私はまぁ……いたらいいなぁ、みたいな」


「意外だな」


「そう?」


「意外だ」


「しつこいよ」


 会話と沈黙が交互に流れる。

 日は傾き、風が段々と涼しさを増していった。

 アフターティーを飲み終えた2人のカップを帽子屋は下げ、洗濯に取りかかる。

 その背をアリスは追いかけ、二階の十分な広さを誇る干場でそれを手伝おうとしたが、帽子屋に阻まれた。


「いい。俺と眠りネズミの分しかない」


 目を泳がせながら、虫でも追い払うかのように、手でアリスを追いやる帽子屋。

 アリスはそんな彼の小首を傾げる。


「なんだ? それとも男もんの下着でも見る趣味でもあるのか?」


 泳がせていた目がアリスを捉え、開き直ったかのように笑いながら言いやった。

 途端、アリスは顔を一気に赤く染めながら、バタバタと一階へと降りて行く。


「まったく……」


「いやぁ、初心で可愛いですよねぇ」


「お前は本気で、俺に殺されたいらしいな?」


 アリスの走り去った方、二階の帽子屋の部屋から繋がるバルコニーの入り口からチェシャ猫の声が聞こえた。


「私はそんなにマゾヒストじゃないですよ~?

 それにアナタの視界に入ってないだけマシでしょう?」


「声も聞きたくない。存在を消せ」


「相変わらず酷いですねぇ。

 愛玩動物は可愛がるべきですよ~?」


「もういいから、何しにきたんだ?」


「またそれですか」


「それしか、お前に話すことがない」


 沈黙を置くことすらない会話が行きかい、帽子屋の声色には言葉を重ねる度に不機嫌の色がにじみ出てくる。


「と、いいましても~。

 今日は、これと言って用があって来たわけじゃありません。

 少し……そう、少しだけ、アナタが心配でね」


「ふざけるなよ。お前の心配してもらう謂れはない」


 チェシャ猫の言葉を帽子屋は跳ねのけた。

 そんな言葉にチェシャ猫はため息をついて、そっと何歩か帽子屋の方へと歩み寄る。


「ちゃんと話せたみたいで、良かったですねぇ。

 帽子屋サンは臆病な人ですから……」


「お前は俺に喧嘩を売っておきながら、毎度涼しい顔で、良く俺の前に姿を見せることが出来るな? チェシャ」


 帽子屋は眉を寄せながら、漸くチェシャ猫へと振り向いた。


「まさかアナタに喧嘩を売るなんて恐れ多い。

 私はいつもアナタのために、言葉を選んでいるつもりですが?」


 弧を描いたチェシャ猫の瞳を見て、帽子屋は盛大にため息を吐きだした。

 その時、一階からアリスが帽子屋を呼ぶ声。


「ほら、アナタの可愛いお姫様がお呼びですよ~?」


「チェシャ猫」


「はい?」


「お前が俺を恨もうと憎もうと、構わないが……その矛先は俺だけに向けていればいい。

 あいつは巻き込むな」


 帽子屋の言葉を重なるように、一階のウッドデッキからアリスの声が聞こえる。


「アリス! すぐ行くからちょっと黙れ!」


 帽子屋はチェシャ猫にそれだけ告げると、彼の横を素通りして一階へと降りて行く。

 チェシャ猫はその背を見送りながら、バルコニーを通り抜けた風に長い髪を靡かせ、チョーカーの鈴が一つ鳴った。

 彼はどこまでも青い、空を眺め、悲しげな表情を作る。


「相変わらず、言葉の通じない人ですねぇ。帽子屋さんは……

 まぁ、私は猫ですし……通じなくて当たり前、ですかねぇ?」



 ちりん、ちりん。

 涼しげな音が風に攫われ、チェシャ猫の呟きも、愛しそうに呼ぶ名前も、誰にも知られずに青い空へとしみ込んで行った。


「アリス……」






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