8 来訪
衝撃に固まっていた小雪が、ぎこちなく動きだすまでに十秒はかかった。
机を挟んで向かい合っていた小雪とチトセの位置は、いまや手を伸ばして微妙に届かない距離まで開いている。室内の空気は重苦しい。
「チトセさん。正直に答えてください」
肘をつき、両手を顔の前で組み合わせた小雪がぽつりと言葉を落とす。手の甲に額を押し付けてうつむいているために、表情は読み取れない。一体何を言われるのかと、チトセは固唾を飲んで小雪をうかがう。
「その……チトセさんは、人形に性的興奮を覚えるんですか?」
「せ、っ……ッ!?」
言葉を受けて一拍。緊張からかひいていた赤みが、一気にチトセの頬に戻ってきた。続けざま、慌てた様子でまくしたてる。
「と、年頃の娘が、何をっ」
「チトセさん、顔が真っ赤ですよ」
人間の顔ってこんなに赤くなるんだな、と小雪は妙なところで感心してしまった。
「あ、当たり前だ! 急に何を言い出すんだ君は!」
平淡な小雪の声に、チトセはいくぶんか冷静さを取り戻したようだ。
こほん、と小さく咳払いをして口を開く。
「……いいかサユキ、俺は変態じゃない。人形相手に興奮したりはしない。――ただ、」
何か続きを言いかけたところで、チリリィン、と涼やかな音にチトセの言葉は遮られた。
『邪魔するぞ〜〜、っておォ!?』
ガタガタン! と派手な物音が部屋に響く。
「あ……」
声と物音に、チトセが無言で立ち上がった。その背中からは、そこはかとない怒りが伝わってくる。
小雪が追いかけようと立ち上がり、チトセが部屋の扉に手をかけたところで、
「わりィ! なんか箱みたいなヤツひっくり返した!」
廊下側から勢いよく開け放たれた扉に、チトセは顔面をしたたかにうちつけたのだった。
「だからァ、悪かったって謝ってるじゃねぇかよ〜〜」
キュウゥン、と鼻にかかったような高い声が同情を誘う。普段はピンと立っているのであろう三角の耳は頭にそってぺたりと伏せられている。毛並みはツヤツヤとしていて、触れればさぞかし気持ちがいいのだろうソレに、小雪の目は釘付けになっていた。
「一体何度言えばお前は玄関を使うようになるんだ? 前に来たときには薬草酒の壺に頭から突っ込んでいただろう」
鼻の頭を赤くしたチトセが、仁王立ちで説教をしている。面前に正座させられた青年は、チトセと同年代か少し上くらいに見えた。
「いやァ、でもなァ」
玄関はなァ……と呟きながら、彼はまたキュウゥンと悲しげな声をあげる。
「でもじゃない。次からはちゃんと玄関を使え。それから部屋の扉を開けるときはノックを、」
「……い、犬の、耳……?」
「んん?」
ぴくん、と三角の耳が動く。うなだれてチトセの説教を受けていた彼が、思わず声をあげた小雪に目を向ける。
初対面の人物にじっと見つめられ、小雪は思わず一歩後退りした。
人見知りはしないほうだと自負していたのだが、今回ばかりは仕方がないと思う。先程からずっと目を離せないままでいたソレは、変わらずに青年の頭に鎮座している。
青年を凝視し続ける小雪に、何を思ったのかチトセがポン、と手をうった。
「――ああ、紹介しておくか。こいつはライカ。ちなみに犬ではなく狼だ」
「お! よろしくな!」
応じて人懐こい笑みを浮かべる青年の背後で、パタパタと尻尾がはためいている。
「小雪です。よ、よろしくお願いします……」
差し出された手と、尻尾に交互に目をやりながら小雪は握手を交わした。




