ただただ一つ
ストリアータは生まれた時から何物にも興味が薄かった。ありとあらゆるものに対し無関心であり無感情、生まれながらにして彼女は重大な欠陥を持っていた。
けれど幸いにも彼女はそれが異常な事と物心付いた頃には気付き、同時に周囲の人間の真似をすること、従うことによってどうにかやりすごしてきた。
彼女が生まれた環境はそれらが許された。子は家のもの、貴族は国を栄えさせるもの、そうなる為の道に進めば良い。
関心は無くとも彼女は自分が恵まれた存在である事、だからこそ未来が定められていると理解していた。
導かれるというのは不自由なことだ、けれど望みもなければ不満も無い。だから自分の役目を果たす、それだけの為に彼女は生きてきた。
六歳の時、王太子ロベルトとの婚約が決まった時もそうだ。望んだものではなくとも彼女は文句一つ零さなかった。
婚姻が政略に使われることは彼女の中では当たり前だったし、自分の立場からすればこうなることは予測するまでも無かった。何なら生まれた時から既に決まっていたようなものだ。
今の自分ならば求められて当然だろう。青い血を継ぐ美しい才女、それが今の自分に対する他者からの評価なのだから。
ストリアータにとってロベルトはどうでもいい存在だった、けれど彼と睦まじい様を周囲は望んでいる。
相手は自分の五つ上。長く付き合っていくのであれば血縁、例えば妹のように演じる方向も検討した。だが将来的に婚姻関係となるならば最初からそのように思わせるべきか。ならば敬称で呼ぶより名を口にした方がいいかもしれない。
ストリアータは恋がわからない、興味もない。だが同じ年頃の少年達が向ける感情がそれだと気付いていたし、彼らが妹に与える感情の違いも感じていた。
だから彼女はいつものように振る舞った。万人に好まれる、それでいて魅力的な少女として。ロベルトは自分に好意的なこともあり、そう見せることは容易かった。
彼女は自分の親が良識的なことも、二人に愛されていることもわかっている。自分がいわば狂人という類いの存在であることも。知らずともそんな自分を守ってくれる家族に彼女は感謝している。
だから彼らの期待に応えたい。非の打ち所の無い令嬢となって、両親が誇れるような王妃となって、二人が守る民を繋ぐための国母となる。
自分はロベルトの妃となり、子を産み、国を繋げていく。それがストリアータの人生、例え彼女がそこに何の感情を持たずともストリアータはそうやって生きていくだけだ。
□
王弟について話は聞いていた。平和を望み、自ら臣下へと下った男。彼が王座についたとしてもこの国は今のような善政を迎えていた。人々からそう評される優れた人格者。
それを彼女は情報の一つとして捉えただけで深くは考えなかった。何があろうといつも通り皆に愛されるストリアータとして対応するだけの話。何も変わらないはずだった。
「ストリアータ、あんまり無理しなくてもいいんだぞ」
実際に紹介されるうち、ヴァンという男はストリアータにとっておかしな存在となった。努力を重ね、次々と才を見せるストリアータを皆が褒める中、ヴァンは複雑そうな顔をする。
知らないことがあるのは気味が悪い。だからその理由を尋ねればヴァンは言った、昔の自分を見ているようで放っておけないと。
そういえば彼も王として育てられたのだ、自分と同じように厳しい教育を受けたのだろう。彼が王としての地位を捨てた今も国の剣として鍛錬を欠かさぬ努力家であることをストリアータは知っていた。才に恵まれたストリアータにとってはさほど苦痛ではないが、彼は無理するようなこともあったのだろう。自分と同じ、国を守る為に。
そのことがきっかけでストリアータはヴァンを同胞のように思い始めた。初めて両親以外に親しみを抱いた日だった。きっとそこから私の歯車は狂ってしまった、ストリアータという一人の人間が生まれてしまった。
ヴァンは情に深い男だった。あれだけ毛嫌いされても彼はロベルトのことを大切にしていた。どんなに嫌われようとも彼の為を思った行動を取っていた。後々ロベルトは全ての人間から切り捨てられるが、本当に手遅れになるその瞬間までヴァンだけは彼を見捨てなかった。どんなに憎まれても家族だからと。
いずれは己の主君の妻になるとはいえ、遠戚でしかないストリアータにも彼は優しかった。ヴァンはストリアータが懐くのをたいそう喜び、とても可愛がってくれた。両親と同じように自分を愛してくれた。
この人はきっと自分がただのストリアータでも許してくれるのだろう。そう思わせるだけのぬくもりをヴァンはストリアータに与えてしまった。だからストリアータは変わってしまったのだ。
ヴァンと過ごす度、話しかけられる度、親しくなる度、ストリアータの灰色の世界はどんどん色付いていく。一番最初に飛び込んできたのは鮮やかな紫で、最後には艶やかな彼の黒に彩られて。
彼の前に立つだけでばくばくと心臓が喚いて苦しい。上がっていく体温に燃えてしまいそうだと思う。口が渇いて彼の名を呼ぶことすらできない。けれどそれがどうしようもなく幸せだった。
全てを擲うつほどの激しい執着を抱えたストリアータの初恋。そしてたった一度の恋はこうして始まってしまったのだ。
□
それからストリアータは将来自分が住む場所だからと、父にねだり幾度と城へと足を運んだ。ロベルトの恋慕も利用し城に呼ばれるように仕向けることも欠かさなかった。全ては愛するヴァンと会いたいがために。
十分に親しくなったのを確信し、彼女はヴァンにあることを尋ねた。王になる気は無いのか、と。優先順位は変わってしまったが彼女は両親が望む王妃の地位を諦める気は無かった。ただ彼女とてどうせなら愛する者に嫁ぎたかった。
もしヴァンが王になることを望むのならストリアータはロベルトを始末するつもりだった。そうすれば自ずと継承権はヴァンに移る。けして不可能なことでは無い。
手早く済む暗殺は得策では無い。だが社会的に貶めるのはいくらでもできる、例えば王家でももみ消せぬほどの相手を害してしまった――とか。今は難しくともロベルトがもう少し年頃になればそのように操る事もさほど難しいことでもない。
けれどヴァンは王になることを望まなかった。自らが王座に付くことなく、この国が平和であることを彼はどこまでも望んでいた。
ストリアータはその願いを叶えると決めた、だけどもどうしても彼の傍にいたかった。だからストリアータは王妃になると決めたのだ。ロベルトの妃になることを覚悟した。
そうすればヴァンが王になることはない。彼は国の剣としてこの国を守り続けられる。自分の血統を持って彼が愛するこの国を盾として守ることができる。ヴァンの願いを全て叶えられる。そして王城に住まう限り――彼の傍にいられる。
自分の人生など彼女にとってはどうでもいい。運命に出会ってしまった彼女のたった一つ望むものは他ならぬ最愛だけだ。
□
ストリアータがその耳飾りについて家人から聞かされた時、彼女が真っ先に尋ねたのは対となる品の行方だった。
彼女の瞳が曾祖母からそっくり受け継いでいること、そしてヴァンの瞳もまた曾祖父と同じだと。王家の中で唯一それを目にしたことのある今の王から教えられていたのだ。
それから幼い頃目にした曾祖母の肖像画でストリアータは耳飾りの存在を知っていた、ヴァンと同じ瞳の色の宝玉を。前々より一目見てみたいと思っていた。
「リア、君がその耳飾りを持つなら私にも君の家の耳飾りをくれないか」
王城にあると聞いて婚約者に話を持ちかければ譲ってもらえることとなり、彼女は浮き足立っていた。
だがその一言に彼女の気分は底へと沈んだ。ふつふつと湧き上がったそれを抑え込み、いつものように曖昧な言葉で濁す。ならば勝手に誤解して納得して。
ストリアータは思わず顔を伏せる。今の表情をこの男に見せる訳にはいかない、こんな怒りに満ちた顔なんて。これから先もこの男を使わなければならないのだから。
『あの品はお前ごときに相応しくない』
咄嗟に飲み込んだ言葉。長年の演技はそれが飛び出すことを防ぎ、もっともらしく聞こえるように振る舞ってくれた。
あの耳飾りは曾祖母達の深い愛の証だ。そのような品がこの男に手にするなんて許されるわけが無い。
ストリアータは無感情だった。だがヴァンによって恋情に、執着に、喜びに、様々な感情を覚えることができた。同時にロベルトに対して、憎悪や怒りを向けることを知ってしまった。ヴァンに纏わることに限られるけれど彼女は耳飾りのように興味を持つことを覚えた。
万人に無感情な彼女が唯一愛する者がヴァンで、唯一嫌う者はロベルトであった。この男はヴァンを傷つける、血縁というだけでヴァンに関心を持たれてる。例え自分がもっと好かれていたとしても関係無い。
くわえてストリアータは真っ先にロベルトを見限っていた。もし王妃となったならば政務は自分がこなすべきだろうと、彼女は密やかに王たるものの知識も蓄えつつある。この男に国を任せては傾いてしまう確信があった。
嫌悪はヴァンへの恋心に目覚めた時に覚えたが、失望は徐々に生まれたものだ。これは王の器では無い。武力を野蛮なものと決めつけ、一向にその重要性を理解しない。剣を持つことなく人はわかり合えるだなんて夢見がちなことを口にする。軽々しく愛について語る。剣が必要ないならより殺傷力を高めた武器が生まれるものか、愛がそんな美しい訳あるか。現に私の胸にあるそれは。
ストリアータはロベルトが嫌いだ。それでもヴァンの幸福に必要だから生かしている。もし必要なければ今すぐにでも殺してやるのに。その激情を彼女は最後の瞬間まで悟らせなかった。
□
ヴァンと距離を置くこと、それは苦渋の決断だった。でもそうしなければ彼に迷惑をかけるとストリアータはわかっていた。
年頃の、それも王太子の婚約者ともなれば注目を浴びる。自分は多くの者に好かれているが、そんな自分を嫌う者や陥れたい者がいる以上、隙を見せる訳にはいかない。今までのように逢瀬する自分達を見たならば、例え一方的に想いを寄せているだけでも口さがない噂が流されるに決まってる。
だから彼女は先手を打った。王妃となれば更に距離を置くことになる、でもヴァンの幸福を思えば我慢できた。
ロベルトの女遊びが始まったのはその頃からだ。だが彼女にとってはそんなことどうでもよかった。そもそもストリアータは彼に恋情など欠片も抱いていないのだ。
その移り気にますます嫌悪を募らせることはあっても引き離すようなことに労力を割きたくない。どうせ自分への愛情は健在である。その証拠にすぐに飽きて長続きしない、婚姻を取り消そうともしない。
そんな渦中で行われた夜会にてその愚かしい光景を眺めた時ストリアータは考えてしまった。例え一時でも望んだ上で愛する者と結ばれる、それはどれほど幸せなことなのだろうと。とっくに諦めてしまったヴァンとの幸福をその姿に重ねてしまった。
それが悲哀に満ちているように思わせてしまったらしくヴァンに心配させてしまった。何でも無いことを伝えたくて、当たり前のことを口にしたのに余計に悲しませてしまったようだ。彼にそんな顔をさせてしまう自分が悔しくて心苦しかった。
婚約者だろうが未成年の私に手を出すわけにはいかない。だが性欲は溜まる、だから他の女で発散しているのだろう。それを防ぐにはあの男をもっと私に引き寄せれば良い。淑女として失格であろうと体を差し出せば、もしくは愛してると嘯けばあの男はすぐにでもつなぎ止められるだろう。その努力を自分は怠ってしまった。
でもどうしても嫌だった。ストリアータは子を産む以外でロベルトに抱かれたくない。そして彼女は嘘が嫌いだ。特にヴァンへの恋情に背くことだけは絶対に行いたくなかった。だから彼女は嘘にまみれたこの世界でも欺き濁し誤魔化すことはしても嘘を吐くことは無い。嘘がもっと己の人生を生きやすくするとしてもできなかった。
周囲が止めても、評価が地に落ちても、ロベルトの女遊びは悪化していく。貴族に相手されなくなったから平民へと手出しするようになった。次々変わる相手にせめてあの男が世間から見て醜い姿なら良かったのにと何度思ったことか。
まあ万が一孕ませるような真似をしても堕ろさせれば良い。逆らうなら殺す、王妃以外から生まれた落胤など国の混乱を招くだけだ。それはヴァンも望まないだろう。
だがその彼女の考えは間違いだった。ストリアータは事態を甘く見ていた訳ではない。彼女は知っていたからこそ間違えた。公爵家に逆らって生きていける者などいないと、確かにそうだ。
だがそれは自国の民の話であって、他国の、それも高位の者であれば通用しないことを見逃してしまった。
ロベルトがどんな女を手玉に取ろうが興味が無かった。おかげでストリアータは出遅れた。将来受け持つことであろう外交について知識を蓄えていたからこそ彼女は知っていたが、他の者はそれについて知らなかったこと、平民相手だと油断していたことも災いした。
敵国である南の国の王家だけ、それも滅多に生まれない髪色の女があの男に近づいている。その事にストリアータが気付いた時にはもう関係を持った後だった。
身ごもっていないことを願い、初めて彼女はロベルトへ苦言を呈した。もう二度と関係を持たせるわけにはいかない、と。
□
殆どの者があの男を見限ったというのに、ヴァンが自分に続いて何度目かわからない忠言をかけてくれたことにストリアータは深く感謝していた。
我慢できず後日ストリアータは昔のように偶然を装って謝罪を果たした。その懐かしい空気に釣られたのか、彼に頭を撫でられたのは計算外だったが。
わかりきったことだけれども己はやはり彼を愛しているのだと思い知らされ、ストリアータは戸惑うことしかできなかった。
溢れていく喜びと想いを押さえ込もうと握り込んだ拳を胸に押しつける。そんな事で止められる訳がないのに。
ストリアータは混乱していた。己の人生をかけて叶えようとしていた願いが崩れかけているかもしれないこと、愛する者が自分に触れていること、恐怖と歓喜に彼女の余裕は崩れてしまった。
だから彼女はずっと誰にも悟らせないようにしていた本心を他でもない想い人へ伝えてしまった。どうにか確信を抱かせない形にはできたけれど。
「……何があろうとお慕いしております」
その言葉は彼の瞳を見ながら言ってしまった。自分でもおぞましいと思う、彼への欲望をよりにもよって彼に見せてしまった。ストリアータはその事を深く後悔した。
□
南の国の娘が消えたことでひとまず安心していたストリアータ。けれど最早その時には彼女の願いは破綻していた。
しばらくしてストリアータは王妃となった。ヴァン・ライル・アントネラ、彼自身の口からそう告げられた。
突如、城に向かうどころか屋敷から出ることも禁じられているうちに決まっていた。最後の最後でストリアータは取り返しの付かない失敗を犯して。
絶望していた彼女に容赦なく周囲は現状とそれに必要な知識を与えた。それから最後にロベルトとの面会を、これは彼に恋心を寄せていると思い違いをしているヴァンの計らいであった。
娘はやはり南の国の王女で、最悪なことに身ごもって、自分がヴァンに向けるような執着をロベルトに向けていた。自分が人生をかけてヴァンを守ろうとしたのと同じように、国をかけてロベルトを守った。いくら父王に溺愛されてるとはいえ、南の国の提案を考えれば命を賭けるような真似もしたのだろう。
決して許せないがストリアータはその心情を理解できた。それが直後のストリアータの行動へ影響を与えた。
王命を下されたストリアータは最後の面会でこれまでの恨みも込めて役立たずになったあの男を殺してやるつもりだった。
けれど自分と同じく愛する男の為に尽くした女の事がふと頭によぎり、懐に隠していたナイフを掴むのは止めた。代わりに心を壊す為の引き金を与えるだけに留めた。
南の国に移るまでに立ち直ればいいが、逆に壊れきってしまったなら。それでもあの娘がどうにかしてくれるだろう、自分の立場に置き換えて想像しストリアータはそう結論づけた。
今のストリアータは生まれた頃のような虚無感に支配されていた。一番最悪な結末へと向かって全て崩れてしまった、もう覆ることのない未来に彼女は再び嘆く。どうして、と。
□
「トリー、すまない。私は君を幸せにしたかったのに」
王妃として迎えた初夜でヴァンにかけられた言葉にストリアータはまた泣いた。
それは私の台詞だ。私はヴァンを幸せにしたかった。騎士として生きる事を望んだ貴方を王にしたくなかった、貴方の王妃になりたくなかった。貴方のたった一つの願いも叶えられなかった。
――結局叶ったのは私の願いだけだった。
ならばせめて今の自分ができる償いは果たそう。王子を産んで、立派な子へと育て上げ、彼を早く王座から下ろそう。
そんな彼女の二度目の願いは叶わなかった。ストリアータは三人の王子を産んで夭折する。
彼女の幼い忘れ形見を守る為にもヴァンは長く王座に付いた。最後は笑って大往生を迎えた彼には一つだけ心残りがあった。
それはロベルトを気遣うあまり、最後までストリアータに愛を伝えられなかったこと。もし伝えていたならば望まぬ婚姻でもいつか彼女も私を愛してくれただろうか。
夢見た真実に気付かぬままヴァンは永遠の眠りへ就いたのだった。




