09.もう、待つ理由はなかった
翌朝、俺は王都へ向かった。
昨日乗るはずだった馬車に揺られながら、窓の外を流れていく景色を眺める。
熱はすっかり下がっていた。朝食もいつもどおり食べたし、診察に来た医師からも、今日から普段の生活へ戻って構わないと言われている。
それでも、出かける前にはアグネスから念を押された。
「少しでも具合が悪くなったら、お戻りくださいね」
「分かってるよ」
「昨日もそう仰っていました」
「今日は本当に大丈夫」
「でしたらいいのですが」
そう答えながらも、アグネスはまだ心配そうに俺を見ていた。仕方なく夕方までには戻ると約束すると、ようやく送り出してもらえた。
やがて馬車は王都へ入り、賑やかな大通りを抜けて、古い建物が並ぶ一角へ入っていく。
目的の男が働いているのは、その先にある小さな商会だった。
ここまで辿り着くのには随分かかった。
男は、父が失脚する少し前までヴァレンフォード家と取引のあった商会で、帳簿を扱っていた。事件のあとに勤め先を辞めて王都を離れ、それから何度か住む場所を変えている。
ようやく今の居場所を突き止めたのは、つい先日のことだった。
商会の前で馬車を降り、古びた扉を開ける。小さな店内には紙とインクの匂いが漂い、壁際の棚には帳面や紙束が隙間なく並べられていた。
「いらっしゃいませ」
声とともに、奥から一人の男が出てきた。
五十を過ぎたくらいだろうか。白髪の混じった茶色の髪を後ろへ撫でつけ、丸い眼鏡をかけている。
「少し話をしたいんですが」
「私に、ですか?」
「ええ」
「どちら様でしょう」
商売相手を見る目ではなかった。突然自分を訪ねてきた見知らぬ男を、警戒しているらしい。
「ルーファス・アシュフォードです」
父が失脚するまで、俺が名乗っていた家名だった。
「……アシュフォード」
それまで俺を窺っていた視線が、ぴたりと動かなくなった。
「ロバート・アシュフォードの息子です」
それ以上説明する必要はなかったらしい。店の奥では時計の針が音を刻んでいるのに、目の前の男は口を閉ざしたままだった。
「父のことで聞きたいことがあります」
「私は何も知りません」
何を尋ねるのかも聞かずに、男はそう言った。
「まだ何も聞いてませんよ」
「お帰りください」
「少しだけでいいんです」
「仕事中ですので」
男は話を終わらせるように背を向けた。
「ロデリック・ヴァレンフォードについてです」
奥へ戻りかけていた男の足が止まった。
その名まで出るとは思っていなかったのか、すぐにはこちらを見なかった。
「……お帰りください」
言葉は先ほどと同じでも、もう「何も知らない」で押し通せると思ってはいないのだろう。
「父が不正をしたとされた時期、あなたはヴァレンフォード家と取引していた商会にいた。帳簿を担当していたそうですね」
「昔のことです」
「覚えていませんか?」
「何十年、帳簿を扱ってきたと思っているんです。いちいち覚えていません」
ここで問い詰めても、これ以上は出てこない。
「そうですか。では、出直します」
「もう来ないでください」
「それは約束できません」
男の横を通り、扉へ向かう。
今日駄目なら、また来ればいい。居場所さえ分かっているのだから、以前のように探し回る必要はなかった。
「……お父上は、その後」
扉へ伸ばしていた手を、そのまま止めた。
「亡くなりました」
振り返らずに答える。
次の言葉が来るまで、少し間があった。
「……お母上は?」
「父が失脚したあと、両親は離縁しました。母も、もう亡くなっています」
「そうですか……」
声が小さくなった。
何を思ったのかは分からない。俺はそのまま扉を開けようとした。
「だから、俺は何度でも来ます」
「……少し、お待ちください」
先ほどまでとは違う声だった。
男は俺ではなく、床の一点を見ていた。追い返す言葉を探しているようには見えなかった。
「店を閉めます」
「話してくれるんですか?」
「……ここでは話せません」
それだけ告げると、男は店の奥へ戻っていった。
◇
二階の小さな部屋へ通され、俺たちは向かい合って座った。
ここまで俺を通しておきながら、男はなかなか口を開かなかった。膝の上で重ねた手には力が入り、何度かこちらを見ては、すぐに視線を逸らしている。
急かせば、また口を閉ざすかもしれない。
しばらく待っていると、男は眼鏡を外して目元を押さえた。
「あなたは、何を知りたいんです」
「父が何をしたのか」
「世間で言われていたことなら、ご存じでしょう」
「それを聞きに来たんじゃありません」
男は眼鏡を外したまま、伏せていた目を上げようとしなかった。
「父は不正をしていなかった。そうでしょう?」
男は答えない。
否定されなかったことより、その沈黙の理由のほうが重要だった。
「父は何を見つけたんですか?」
「……今さら掘り返して、どうするつもりです」
「父の汚名を晴らします」
「十年以上前のことですよ」
「俺には関係ありません」
「あなたまで目をつけられるかもしれない」
「それも承知しています」
何を確かめようとしているのか、男はしばらく俺の顔を見ていた。
「ロデリック様は――」
そこまで口にして、続きが途切れる。
「ロデリックが何です?」
「……いえ」
「あなたは、あの人が何をしたか知っているんでしょう」
視線を逸らしたまま、男はしばらく何も言わなかった。ここまで話してもなお、ロデリックの名を口にすることには迷いがあるらしい。
長い息を吐いたあと、ようやく口を開いた。
「……お父上は、気づいたんです」
「何に?」
「ヴァレンフォード家の取引に、不自然な金の流れがあることに」
予想していた答えだった。それでも、実際に当時を知る人間の口から聞けば重みが違う。
「詳しく聞かせてください」
「私は当時、帳簿を扱っていました。ただ、すべてを知っていたわけではありません」
「知っていることだけでいい」
「ロデリック・ヴァレンフォードの指示で、実際の取引額とは異なる金額を記したことがあります」
「何度?」
「覚えていません」
「一度や二度じゃない?」
「……はい」
ここまで調べてきたことと食い違いはない。むしろ、ばらばらに拾ってきた記録が、男の言葉によって少しずつ一つの形になっていく。
「父はそれを見つけた」
「正確には、帳簿同士の食い違いに気づかれたのだと思います。それから、ご自分で調べ始めました」
「そのあとに、父の不正が発覚した?」
「……はい」
父がロデリックの不正に気づいたあとで、今度は父自身が不正をしたことにされた。
偶然だと思えるはずがなかった。
「しばらくして、ロバート様が不正に関わっていたという話が出ました」
「誰が言い出した?」
「分かりません」
「本当に?」
「……私は知りません」
そう言いながら、男は固く組んだ自分の手を見ていた。
「ただ、あまりにも早かった」
「何が?」
「証拠が揃うのがです」
そこで初めて、男のほうから話を続けた。
「ロバート様が不正をしているという噂が立ったと思ったら、すぐに帳簿も証言も出てきました。まるで、前から用意されていたように」
「その帳簿を作ったのは?」
「私は関わっていません」
「なら、誰が?」
「分かりません」
そこまで言ってから、男の視線が奥の部屋へ向いた。
「ですが、一つだけ……お待ちください」
男は席を立つと、そのまま奥の部屋へ入っていった。
しばらくして戻ってきたときには、古びた革張りの書類入れを抱えていた。
「これは?」
「当時のものです」
机の上へ置き、留め具を外す。中から取り出されたのは、何枚かの古い紙だった。
「なぜ、こんなものを?」
「怖かったからです」
「何が?」
「次は自分かもしれないと思いました」
一枚を差し出され、受け取る。
長い年月を経た紙はところどころ変色し、インクも薄くなっている。それでも、そこに記された取引先の名や金額、日付は十分に読み取れた。
見覚えのある名前がいくつもあった。これまで調べてきた記録にも、何度も出てきたものだ。
その下に記されていた署名を見て、目が止まった。
ロデリック・ヴァレンフォード。
そこだけは、見間違えようがなかった。
「これは……」
「私が処理するよう渡された指示書です」
もう一枚に目を通す。そこにもロデリックの署名があり、記された金額は正式な帳簿に残されたものと違っていた。
「ロバート様が疑われ始めたあと、ロデリックから昔の書類を処分するよう命じられました」
「全部?」
「はい」
「でも、あなたは残した」
「自分を守るためです」
言い訳をするような口調ではなかった。自分でも、それが誰かを助けるための行動ではなかったと分かっているのだろう。
「褒められた理由ではありません」
「十分です」
今まで手に入れてきた記録を、頭の中で一つずつ思い返す。取引の記録も、金の流れも、関わった人間たちの証言も、すべてロデリックへ近づいてはいた。
それでも、決定的に足りない部分があった。
目の前の書類が、そこを埋めている。父の不正の証拠とされた記録とも照らし合わせれば、誰が金の流れを作り替えたのかまで辿れる。
「これを借りても?」
「……返していただけるんですか?」
「返すとは約束できません」
男の目が書類入れへ向いた。長い間手元に置いていたものを渡すことへの迷いは、当然あるのだろう。
やがて、小さく息を吐く。
「……でしょうね」
「必要なら、あなたが持っていたことは伏せます」
「それでお願いします」
書類が革の入れ物へ戻され、そのまま俺の前まで押し出された。
「私は、何もしなかったんです」
書類入れへ伸ばしかけた手を止める。
「ロバート様が罪を着せられたときも、何も言わなかった。自分にまで疑いが向くのが怖かったんです」
今さらそれを聞いても、俺に言えることはなかった。
「今さら、謝っても仕方がないでしょうが」
「ええ」
謝られても、父は戻ってこない。母も。
だから、それ以上の言葉を求めるつもりはなかった。
「でも、これはもらいます」
「はい」
書類入れを手元へ引き寄せた。
◇
帰りの馬車では、何度も受け取った書類を読み返した。
日付も、金額も、これまで調べてきた記録と合っている。男から聞いた話も、別の人間から得た証言と矛盾しない。
長い時間をかけて集めてきたものが、ようやく一本につながった。
父は不正をしていなかった。
ロデリックが自分の不正を隠すため、父へ罪を着せた。
ようやく、それを証明できる。
窓の外を流れていく王都の街並みから目を離し、書類へ視線を戻す。
父の汚名を晴らす。ロデリックからすべてを奪う。
あの男が何より大切にしているものも。
そのために、アグネスへ近づいた。そのために婚約し、結婚して、三年近く夫として暮らしてきた。
ようやく、ここまで来た。
書類を革の入れ物へ戻し、留め具を閉じた。
◇
屋敷へ戻ったのは、夕方だった。
玄関広間へ入ったところで、聞き慣れた声がした。
「ルーファス、お帰りなさいませ」
振り向くと、アグネスがこちらへ歩いてくるところだった。淡い金髪はいつものように整えられ、二日前に寝台の脇で眠り込んでいた姿とはまるで違う。
「ただいま」
「今日はお加減、大丈夫でしたか?」
「ああ。何ともないよ」
「よかったです」
ほっとしたように目元が和らぐ。
俺が昨日出かけようとしたときには、あれだけ止めた女だ。無事に帰ってきたのを確認して、ようやく安心したらしい。
その視線が、俺の持っている書類入れへ一瞬だけ落ちた。
「昨日お会いになる予定だった方には、お会いできましたか?」
「ああ。会えたよ」
「そうですか」
「うん」
「昨日はお引き止めしてしまいましたから、気になっていたのです」
「一日くらい変わらなかったよ」
「それなら、よかったです」
中身について尋ねられるかと思ったが、アグネスは何も聞かなかった。
「もうすぐ夕食のお時間です」
「着替えたら行くよ」
「はい。お待ちしております」
そう告げて、アグネスは先に廊下を歩いていく。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、なぜか俺はその場を動かなかった。
昨日までと、何も変わっていない。
出かければ、帰りを待っている。帰れば「お帰りなさい」と言われる。朝も夜も同じ食卓につき、ときには庭を歩き、互いの体調を気にする。
三年近く繰り返してきた生活だった。
手元には、その生活を終わらせるために必要だったものがある。
革張りの書類入れを持ち直し、ようやく自室へ向かった。
◇
その夜も、アグネスと向かい合って夕食を取った。
「庭の薔薇が咲き始めたそうです」
「もうそんな時期?」
「はい。庭師が、今年は例年より少し早いと言っていました」
「そうなんだ」
「明日、見に行こうと思っています」
「また体調を崩さないようにね」
「もうすっかり元気です」
「君の『元気』は信用していいのかな」
「ルーファスにだけは言われたくありません」
それを言われてしまえば、返す言葉がない。
「それはそうか」
「はい」
俺の反応がおかしかったのか、アグネスの目元にも小さな笑みが浮かんだ。
そのあとは、アグネスが明日の庭の話をするのを聞きながら、いつもどおり食事を終えた。
食事を終えたアグネスは、「おやすみなさい」と言って自室へ戻っていった。
俺も自室へ戻り、扉を閉める。
父のことを知ってから、ずっとこの日のために生きてきた。
ここまで来るために、必要なものは一つずつ手に入れてきた。
証拠は揃った。父の汚名を晴らせる。
ロデリックを破滅させられる。
そして、アグネスを殺す。
もう、待つ理由はなかった。




