10.また明日、と約束したから
翌朝、目を覚まして最初に考えたのは、今日こそ終わらせるということだった。
昨日、ようやく証拠が揃った。
これで父の汚名を晴らし、ロデリックを告発することができる。
残っているのは、アグネスのことだけだ。
殺す方法は、婚礼の夜から考えていた。アグネスが毎日飲んでいる薬に毒を混ぜればいい。
あの頃は、まだ早かった。ロデリックを破滅させる前にアグネスが死ねば、俺がヴァレンフォード家に残る理由を失う。父の汚名を晴らすために必要なものも、何一つ揃っていなかったから、殺さなかった。
けれど、今は違う。
もう、何も待つ必要はない。
◇
午前中は、いつもどおりロデリックの仕事を手伝った。
昨日手に入れた書類については、もちろん何も話していない。向かいの席に座るロデリックは、俺が自分を破滅させる証拠を手に入れたことなど知らず、領地から届いた報告書を読んでいた。
「ここは任せていいか」
「ええ」
「午後から出るんだ。戻りは夕方になる」
「分かりました」
ロデリックが書類をこちらへ寄越したあと、ふと思い出したように尋ねてきた。
「アグネスは?」
「さあ」
「一緒に朝食を取ったんだろう」
「取りましたけど、そのあとの予定までは聞いていませんよ」
「そうか」
それだけで少し残念そうな顔をする。
娘のことになると、本当に分かりやすい男だった。アグネスが笑えば嬉しそうにして、少しでも体調を崩せば必要以上に心配する。
たった一人の娘を、心から大切にしている。
だからこそ、アグネスを選んだ。
父が失脚したあと、家族はばらばらになった。両親は離縁し、俺は母と二人で暮らすことになった。それまで暮らしていた家も、名乗っていた名前も、何もかも失ったが、それでも母だけはそばにいてくれた。
母は俺を養うために、夜遅くまで針仕事をしていた。疲れていたはずなのに、俺の前ではいつも笑っていた。
そんな母が病気になったとき、必要な薬は俺たちにはあまりにも高かった。
病床で日に日に細くなっていく母の手を握りながら、何度も祈った。薬がなくてもどうにか助かってくれないか、もう一度元気になってくれないかと、そんなことばかり願っていた。
けれど、どれだけ願っても母は帰ってこなかった。声を聞くことも、笑った顔を見ることも、もう二度とできない。
お前にも味わわせてやる。
昨日までそこにいた人間が、もう二度と帰ってこないということを。
アグネスを失ってから、思い知ればいい。
そのために俺はアグネスへ近づき、この家へ入ったのだから。
昼前には頼まれていた仕事も片づき、部屋を出た。
自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、庭へ続く扉の向こうに淡い金色が見えた。アグネスが侍女を一人連れて歩いている。
昨日話していた薔薇を見に行ったのだろう。
少し迷ったものの、そのまま通り過ぎる気にはならず、俺も庭へ出た。
「アグネス」
呼ぶと、アグネスが振り返った。
「ルーファス」
「薔薇を見に来たの?」
「はい。昨日お話ししたでしょう?」
「そうだったね」
近づくと、アグネスが庭の奥を指した。
「こちらです。とても綺麗に咲いているのですよ」
並んで歩いた先では、赤や白の薔薇が垣根を覆うように咲いていた。その向こうには小さな池があり、風が吹くたびに花の香りが漂ってくる。
「奥様、少々お待ちください」
侍女が少し離れたところで足を止めた。咲いている薔薇の一本が気になったらしく、アグネスに声をかけてから垣根のほうへ向かっていく。
アグネスはそのまま池の近くまで歩いていき、俺もあとを追った。
水辺で足を止めたアグネスの背中が、こちらを向いている。
侍女は薔薇の垣根の向こうにいて、ほかに人の姿はなかった。
今なら、誰にも見られない。
背中を押せば、ドレスを着たアグネスはすぐには水から上がれないだろう。助けるのが間に合わなかったことにすれば、それで済む。
一歩近づき、手を伸ばした。
掌がアグネスの背中へ触れると、その肩がわずかに強張った。
「ルーファス?」
振り返ったアグネスの深い青の瞳が、まっすぐ俺を見る。
俺は背中から手を離した。
「何?」
「……いや」
アグネスはそれ以上何も言わなかった。ただ、一度だけ背後の池へ目をやってから、再び俺を見る。
「こちらから見ると、池にも薔薇が映っています」
何事もなかったように水面を指す。その先では、赤い花が水の揺れに合わせて形を変えていた。
「本当だ」
「綺麗でしょう?」
「うん」
アグネスは再び池へ目を向けた。
さっきと同じように、その背中がこちらを向いている。
手を伸ばせばいい。
そう思っているうちに、薔薇の垣根の向こうから侍女の声がした。
「奥様、お待たせいたしました」
アグネスが振り返り、侍女から何本かの薔薇を受け取る。そのうちの一本を選ぶと、今度はこちらへ差し出してきた。
「ルーファスも一本いかがですか?」
「俺が?」
「お部屋に飾ってください」
差し出されたのは、赤い薔薇だった。
「……ありがとう」
受け取ったところで、侍女もすぐそばまで戻ってきた。
これではもう手は出せない。
別に構わない。最初から池で殺すつもりだったわけではなかった。
「私はもう少し庭を見てまいります。ルーファスは?」
「仕事が残ってるから戻るよ」
「そうですか」
「また夕食で」
「はい」
アグネスと別れ、屋敷へ戻った。
◇
午後の仕事を終えて自室へ戻ると、昼にアグネスからもらった薔薇が机の上に置いたままになっていた。
呼び鈴を鳴らし、やってきた侍従に渡す。
「これ、適当に飾っておいて」
「かしこまりました」
しばらくして、薔薇は水を入れた小さな花瓶に挿され、机の端へ置かれた。
昼は機会を逃したが、別に構わない。最初から池で殺すつもりだったわけではないし、やはり婚礼の夜から考えていた方法が一番確実だった。
机の引き出しを開け、奥にしまっていた小瓶を取り出す。
中に入っているのは、アグネスを殺すために用意した毒だ。
彼女は毎日、同じ時間に薬を飲んでいる。その中に混ぜておけば、疑うことなく口にするだろう。
小瓶を握って立ち上がった。
今からアグネスの部屋へ行けばいい。夫が妻の部屋を訪ねても誰も不審には思わないし、あとは隙を見て薬に混ぜるだけだ。
扉へ向かおうとしたところで、外から控えめな音がした。
「ルーファス、少しよろしいですか?」
アグネスの声だった。
足を止め、手にしていた小瓶を引き出しへ戻す。
「どうぞ」
扉が開き、アグネスが何枚かの書類を抱えて入ってきた。
「お仕事中でしたか?」
「終わったところ」
「よかった。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます」
向かいの椅子を勧めると、アグネスは腰を下ろし、持ってきた書類を机の上へ広げた。
「領地から届いたものなのですが、確認していただきたいところがあって」
「どれ?」
「こちらです」
領内の施療院へ送る寄付についての書類だった。
アグネスが一箇所を指す。
「昨年より増やしたいと思っているのですが、この金額では多すぎるでしょうか」
「これくらいなら問題ないと思う」
「では、こちらで進めても?」
「いいよ。ただ、冬にも必要になるだろうから、全部使わずに少し残しておいたほうがいい」
「そうですね」
アグネスは俺の言ったことを書き留めると、続けて別の書類を差し出した。
ほかにもいくつか尋ねられ、一つずつ答えていくうちに、机の上に広げられていた書類は少しずつ片づいていった。
「ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい。とても助かりました」
アグネスは書類を揃えながら、ふと思い出したように言った。
「以前は、父にすべて聞いていたのです」
「そうなの?」
「はい。最近は、ルーファスにもお聞きできるので助かっています」
「これくらいならいつでも聞いて」
「では、お言葉に甘えます」
アグネスは書類を抱えて立ち上がった。
「明日、もう一つ見ていただきたいものがあるのですが」
「いいよ」
「午後でもよろしいですか?」
「たぶん空いてる」
「では、その頃に伺います」
「うん」
そのまま扉へ向かいかけたアグネスが、机の端を見て足を止めた。
「あら」
「何?」
「薔薇、飾ってくださったのですね」
「ああ。侍従に頼んだ」
「そうでしたか」
アグネスは花瓶の薔薇をしばらく眺めてから、こちらへ目を戻した。
「ありがとうございます」
「俺は頼んだだけだよ」
「それでも、嬉しいです」
そう言って書類を抱え直し、今度こそ扉へ向かう。
「では、また明日」
「また明日」
扉が閉まると、部屋には再び静けさが戻った。
机へ戻り、引き出しを開ける。
さっきしまったばかりの毒は、同じ場所にあった。今からでも遅くはない。アグネスは自室へ戻ったばかりなのだから、追いかけて薬に混ぜればいい。
小瓶を手に取ったところで、さっき交わしたばかりの言葉を思い出した。
――では、また明日。
明日の午後には、書類を見る約束をしている。
それくらい、先に済ませればいい。
小瓶を引き出しへ戻した。
そのあとでいい。
たった一日だ。
それくらい、何も変わらない。




