11.飲まないで
午後、アグネスが約束どおり書類を持ってきた。
「こちらです」
昨日と同じ椅子へ腰を下ろし、机の上に書類を広げる。今日は領地にある学校の修繕についてだった。
「屋根の傷みがひどいそうなのです。このまま冬を迎えるのは難しいと」
「だったら、冬まで待たないほうがいいね」
「やはり、そうですよね」
アグネスが頷く。
見積もりに目を通し、いくつか気になるところを確認したが、大きな問題はなかった。
「これで進めていいと思う」
「ありがとうございます」
「ほかには?」
「今日はこれだけです。昨日に続いて、ありがとうございました」
「これくらいならいつでもいいよ」
「またお願いしてしまいますよ」
「いいって言ってるんだからいいよ」
「では、遠慮なく」
小さく笑って立ち上がり、書類を抱える。そのまま扉へ向かいかけたところで、アグネスが振り返った。
「ルーファス」
「何?」
「今夜も、お待ちしております」
夕食のことだろう。
「うん」
それを聞いてから、アグネスは部屋を出ていった。
これで、昨日の約束は果たした。
もう何も残っていない。
◇
夕食も、いつもと変わらなかった。
アグネスは昼間に見た書類について少し話し、それから庭の薔薇がまだしばらく楽しめそうだと言った。俺もいつもどおり答え、食事を終えると、それぞれの部屋へ戻った。
自室へ入ると、机の端には昨日アグネスからもらった赤い薔薇がある。花瓶の中で、まだ綺麗に咲いていた。
その隣で引き出しを開け、毒の入った小瓶を取り出す。
昨日はやめた。池では侍女が戻ってきて、そのあとはアグネスと今日の約束をしたから、一日だけ延ばした。
その約束も、もう終わった。
小瓶を上着の内側へしまい、部屋を出た。
◇
アグネスの寝室の前で足を止め、扉を叩くと、侍女が開けた。
「旦那様」
「アグネスは?」
「お部屋にいらっしゃいます」
中へ通されると、アグネスは鏡台の前に座っていた。夜の支度をしているところだったらしく、昼間は綺麗に結い上げられていた淡い金色の髪がほどかれ、背中へ流れている。
鏡越しに目が合った。
「ルーファス」
少し驚いた顔をしたあと、目元を和らげる。
「どうされたのですか?」
「別に。少し顔を見に来ただけ」
口にしてから、自分でも妙な言い方をしたと思った。
けれど、アグネスは理由を尋ねなかった。
「そうですか」
それだけ答えて、少し嬉しそうに笑う。
俺は窓際の椅子へ腰を下ろし、侍女がアグネスの髪を梳いていくのを眺めた。
「今日はお疲れではありませんか?」
「大丈夫だよ」
「昨日も遅くまでお仕事をされていたでしょう」
「君こそ。今日も書類を見てたんじゃない?」
「私はそれほどでもありません」
「そう?」
「はい」
櫛が長い髪を何度も滑り、やがて夜の支度が整った。
「奥様、お薬をこちらへ置いておきます」
侍女が寝台脇の小卓へ、今夜の分の薬が入った小さな薬入れと、水差し、グラスを置く。
「ありがとう」
「ほかに御用はございますか?」
「大丈夫よ。もう休んで」
「かしこまりました」
侍女は俺にも一礼してから部屋を出ていった。
扉が閉まると、寝室には俺とアグネスだけが残った。
アグネスは鏡台の前から立ち上がり、寝台の近くにある椅子へ移る。
「もう少し、こちらにいらっしゃいますか?」
「ああ」
「では、何かお話ししましょうか」
「何を?」
「そうですね……」
少し考えてから、アグネスは今日ロデリックと話したことを教えてくれた。
「父が帰ってきてから、薔薇のことを話したのです」
「ロデリックに?」
「はい。今年はよく咲いていると」
「見に行くって?」
「明日の朝にでも見てくると言っていました」
「好きだね」
「父は昔から庭が好きなのです」
アグネスが笑う。俺も口元だけで笑った。
ロデリックは、明日の朝には最愛の娘がいなくなっているとも知らない。
何をしても戻ってこない。どれだけ名前を呼んでも、返事はない。
俺が母を失ったときと同じように。
お前にも味わわせてやる。最愛の者がいなくなる悲しみを。
「ルーファス?」
「何?」
「いえ。少しぼんやりされていたので」
「考え事してただけ」
「そうでしたか」
アグネスはそれ以上聞かず、また別の話を始めた。
しばらくして話が途切れたところで、小卓の時計へ目を向ける。
「もうこんな時間ですね」
「そうだね」
「お薬を飲んでしまいます」
アグネスは立ち上がると、小卓へ向かった。
薬入れへ手を伸ばしかけたところで、ふと動きを止める。
「そういえば」
その手を止め、アグネスが鏡台のほうを見た。
「明日の外出に使う手袋を、昼間に置いてきたままでした」
「どこに?」
「隣の衣装部屋です。今のうちに取ってまいります」
「明日でもいいんじゃない?」
「朝になって慌てたくありませんから」
そう言って、アグネスは小卓の上に薬を残したまま扉へ向かった。
「すぐに戻ります」
「ああ」
扉が閉まる。
部屋に一人になってから、小卓へ目を向けた。
今夜の分の薬が置かれている。
アグネスが戻ってくるまで、どれくらいかかるかは分からない。
それでも、十分だった。
立ち上がって小卓へ向かい、上着の内側から小瓶を取り出す。
迷う必要はない。
薬入れの蓋を開け、中の薬へ小瓶の中身を加える。傍らの薬匙で軽く混ぜ、元の位置へ戻した。
何年も、そのために準備してきたというのに、やってしまえばほんの数秒で終わった。
薬入れの蓋を閉じて元の場所へ戻し、小瓶を上着へしまう。
椅子へ戻って間もなく、廊下から足音が近づいてきた。
扉が開き、アグネスが手袋を持って戻ってくる。
「お待たせしました」
「見つかった?」
「はい。やはり取りに行ってよかったです。明日の朝になってから探すところでした」
「そう」
アグネスは手袋を鏡台へ置き、そのままこちらへ戻ってきた。
「明日は出かけるの?」
「はい。午前中に少しだけ」
「そうなんだ」
明日の予定。
そんなものは、もう関係ない。
アグネスは小卓の前へ立ち、薬入れを手に取った。
蓋を開けると、中の薬を小さな薬匙ですくう。
俺はそれを見ていた。
ここまで来た。
邪魔をする者はいない。昨日の約束も果たした。
もう、先延ばしにする理由はない。
薬匙を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。
手元の薬へ目を落とし、それから俺を見る。
目が合った。
深い青の瞳が、静かにこちらを見ている。
アグネスは何も言わない。
そのまま薬を口元へ運んだ。
「待って」
声が出た。
アグネスの手が止まる。
「……どうしました?」
答えられなかった。
ここで黙っていればいい。
アグネスは薬を飲む。それで、続けてきた復讐が終わる。
そのために、今ここにいる。
「それ……」
そこで黙ればよかった。
それなのに。
「飲まないで」
アグネスは俺を見つめた。
驚いた様子はない。
視線をゆっくりと手元の薬へ落とし、それからもう一度俺を見る。
何も言わない。
「アグネス?」
しばらくして、アグネスはわずかに目を伏せた。
そして、そのまま薬を口元へ運んだ。
「――何してるんだ」
椅子を蹴るように立ち上がり、アグネスの手首を掴む。その手から薬を取り上げると、床へ落ちて小さな音を立てた。
「飲むなって言っただろ」
思ったより強い声が出た。
アグネスは抵抗しなかった。掴まれた手首にも構わず、ただ俺を見上げている。
「……はい」
「はい、じゃない」
何を怒っているんだ。
飲ませるために毒を入れた。
俺が、アグネスを殺すために。
それなのに。
「なんで飲もうとするんだよ」
アグネスは答えなかった。
その顔に、驚きはない。
床へ落ちた薬へ一度だけ目を向ける。
胸の奥が冷えた。
池のそばで背中へ触れたとき、アグネスは振り返ったあと、池を見た。
そして今も、俺が飲むなと言った理由を尋ねることなく、それでも薬を飲もうとした。
「……君」
掴んでいた手首から、力が抜ける。
アグネスが静かに俺を見る。
「知ってた?」
長い沈黙のあと、アグネスはほんのわずかに目を伏せた。




