12.もう誤魔化せない
「……君」
掴んでいた手首から、力が抜ける。
アグネスは逃げるように手を引くこともなく、静かに俺を見ていた。
「知ってた?」
少しの沈黙のあと、アグネスは頷いた。
「はい」
「……いつから?」
「結婚する前から、少しおかしいとは思っていました」
「結婚する前?」
思わず聞き返すと、アグネスはもう一度頷いた。
「婚約していた頃からです」
予想していなかった答えだった。
「その頃から、俺が君を殺そうとしてるって?」
「いいえ。そこまでは思っていませんでした」
アグネスは静かに首を横に振る。
「ただ、ルーファスが私と結婚したい理由は、私自身ではないのだろうと思っていました」
「……」
「父に対しても、何か思うところがあるのではないかと」
それでも、アグネスは俺と結婚した。
俺が差し出した手を取り、ヴァレンフォード家の娘として俺を迎え入れた。婚礼の日には神の前で誓い、今日まで三年近く、俺の妻として暮らしてきた。
「俺が君を殺そうとしてるって思ったのは?」
「結婚してからです」
「いつ?」
アグネスはすぐには答えなかった。
「一度ではありません」
「一度じゃない?」
「はい。何度か、そう感じることがありました」
静かな声だった。
思い当たることは、一つではない。
眠っているアグネスの首へ伸ばした手。川辺で掴んだ腕。階上の回廊。昨日の池。
そのたびに俺は、気づかれていないと思っていた。
「それで確信したの?」
「はい」
「……怖くなかった?」
「怖くなかったと言えば、嘘になります」
「だったら、なんで何も言わなかったんだよ」
アグネスはわずかに目を伏せた。
「何度も、何もなさいませんでしたから」
「何度も?」
「殺そうと思えば、できたはずです。それでもルーファスは、そのたびに何もなさいませんでした」
意味が分からず、眉を寄せる。
違う。
時期ではなかっただけだ。
ロデリックを破滅させる準備が整っていなかった。アグネスには、それまで生きていてもらう必要があった。
少なくとも、最初はそうだった。
では、昨日は。
池のそばで、アグネスの背中に手を添えた。
押そうと思えば押せた。侍女が戻ってくるまで、時間がなかったわけでもない。
昨夜だって、毒は手元にあった。
今日まで延ばす必要など、本当はどこにもなかった。
「父のことを調べていらっしゃるのも、分かっていました」
アグネスの声で、思考が途切れた。
「どこまで知ってる?」
「詳しいことは何も知りません」
「ロデリックが何をしたかは?」
「知りません」
「俺が恨んでることは?」
「……はい」
「理由は?」
「それも知りません」
アグネスは俺から目を逸らさなかった。
「父が過去に何かをしたらしいこと。それをルーファスが調べていること。父を恨んでいること。それだけです」
「それで、君を殺そうとしてる理由まで分かったの?」
そこで初めて、アグネスがわずかに目を伏せた。
「父を苦しめるためなのだろうと思いました」
何も答えなかった。
それで十分だったらしい。
「父は、私をとても大切にしてくれていますから」
「……知ってるよ」
「私が死ねば、父は苦しむでしょう」
「ああ」
もう誤魔化す意味もなかった。
「そのために君と結婚した」
アグネスの表情は変わらない。
「ロデリックから君を奪うためだ」
「はい」
「俺が君を大切にすれば、あの男は安心する。娘が幸せに暮らしてると思う。そのあとで君を奪えばいいと思ってた」
口にすると、ひどく単純な話だった。
あの男が一番大切にしているものを奪う。
それだけのために、俺はアグネスへ近づいた。
「最愛の者がいなくなる悲しみを、あの男にも味わわせたかった」
アグネスの指先が、膝の上でほんのわずかに動いた。
それでも何も言わなかった。
「なのに、君は飲もうとした」
「はい」
「なんでだよ」
今度は、答えが返ってくるまでに少し時間がかかった。
「この命は、父に生かしてもらったものですから」
「……何?」
「私は幼い頃から、何度も体調を崩しました。医師を呼んで、薬を取り寄せて、良い治療法があると聞けば、父はできる限りのことをしてくれました」
アグネスの視線が、寝台脇の小卓へ向く。
「今もこうして生きていられるのは、父が諦めなかったからです」
「だから?」
「父に生かしていただいた命です。その父が誰かを苦しめていたのなら……私は、そのおかげで何不自由なく生きていたことになります」
「君は何も知らなかっただろ」
「何も、ではありません」
アグネスは静かに首を横に振った。
「何かがおかしいとは思っていました。それでも私は、この暮らしを失うのが怖くて、何もしませんでした」
以前、同じことを聞いた。
何もできなかったのではなく、何もしなかったのだと、アグネスは自分でそう言った。
「だから、もし私の命で償えるのなら、それでもいいと思っていました」
「よくない」
考えるより先に言葉が出た。
アグネスが目を上げる。
「よくないよ」
「ですが――」
「ロデリックの罪と、君の命に何の関係があるんだよ」
「父に生かしてもらった命です」
「だからって、ロデリックのものじゃないだろ」
思ったより強い声になった。
「君の命は君のものだ。助けてもらったからって、返すものじゃない」
アグネスは黙って俺を見ている。
ついさっきまで、その命をロデリックから奪うためのものとして扱っていた俺が言えたことではない。
それでも、アグネスが父親の代わりに死ぬことだけは、間違っていると思った。
「それに、君はロデリックが何をしたのかも知らないんだろ」
「はい」
「だったら、君が命で償うなんておかしいだろ」
「……父に何かあると分かっていながら、私は何もできませんでした」
「聞いたんだろ」
「はい」
「ロデリックが答えなかった」
「それでも、もっとできることはあったのかもしれません」
「……そうかもね。もっと聞けばよかったのかもしれない。自分で調べることだってできたのかもしれない」
「……」
「でも、それと君が死ぬことは別だろ」
アグネスは何も言わなかった。
「何もしなかったと思ってるなら、これからすればいい。ロデリックが何をしたのか知って、それから考えればいい」
「ルーファス……」
「何をしたのかも知らないまま、君が代わりに死んで終わらせるなよ」
しばらくして、アグネスが小さく頷いた。
「……はい」
それから少し間を置いて、改めて俺を見る。
「では、教えていただけますか」
「何を?」
「父が何をしたのかを」
いつかは話すことになると思っていた。
けれど、それはすべてが終わったあとだと思っていた。
「昔、ある男が横領の罪で告発された」
アグネスは黙って聞いている。
「その男は否定した。でも証拠が出て、職を失った。家名にも傷がついた」
「……」
「妻とは離縁した。そのあと、男は死んだ」
「では……」
「横領なんてしてなかった。罪を着せられたんだよ」
アグネスの瞳が、わずかに揺れた。
「ロデリックに」
「その方は……」
「俺の父だよ」
アグネスの唇がわずかに開く。
何か言いかけたようだったが、そのまま口を閉じた。
「父が失脚したあと、両親は離縁した。俺は母と暮らした」
それまでの家を出て、母は針仕事をしながら俺を育てた。
「身体を壊してからも、働くのをやめられなかった」
「……」
「薬を勧められた。でも、高かった。まったく買えなかったわけじゃない。でも、必要なだけ飲ませてやることはできなかった」
アグネスの視線が、寝台脇の小卓へ向いた。
毎晩、欠かさず飲んでいる薬が置かれていた場所だった。
「その母も死んだ」
部屋が静まり返る。
「それでも、ロデリックは何も失わなかった」
地位も、財産も。
そして、一番大切な娘も。
「君が病気になれば医師を呼べた。高い薬だって買えた」
最初から、アグネスが悪いわけではないことくらい分かっていた。
それでも、ロデリックが惜しみなく金を払い、屋敷中の人間に守られながら生きている娘を見るたびに、母のことを思い出した。
「どうして俺の母は、あんなふうに死ななきゃならなかったんだって思った」
アグネスがゆっくりと俺を見る。
「だから、あの男にも同じ思いをさせたかった」
「……申し訳ありません」
「謝らないで」
「ですが」
「君の薬を買ったのは君じゃない。俺の母に薬を買えなかったのも、君のせいじゃない」
アグネスは何も言わなかった。
「さっき自分で言っただろ。ロデリックに生かしてもらったって」
「はい」
「だったら生きろよ」
アグネスが目を上げる。
「生かしてもらった命なら、勝手に捨てるな」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
その命を奪おうとしていたのは俺だ。
「……俺が言えたことじゃないけど」
アグネスはしばらく黙っていた。
「ルーファスは、もう私を殺さないのですか?」
答えは、もう決まっていた。
「ああ。殺さない」
「父への復讐は?」
「やめないよ」
それも迷う必要はなかった。
「父の汚名は晴らす。ロデリックがしたことも明るみに出す」
「証拠が見つかったのですね」
「ああ」
「……そうですか」
アグネスはそれだけ言って、膝の上で重ねていた手へ視線を落とした。
「ロデリックが罪を犯したなら、償うのはロデリックだ」
「はい」
「君じゃない」
しばらくして、アグネスが顔を上げる。
「父にもう一度、聞いてみます」
「何を?」
「あなたのお父様のことを」
「……」
「今度は、何も答えてくださらなくても、それで終わりにはしません」
深い青の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「私も知るべきだと思います」
「ああ」
俺が持っている証拠を、今ここですべて見せるつもりはなかった。
アグネス自身がロデリックに聞きたいのなら、そうすればいい。
床へ目をやる。
先ほど落とした薬匙のそばに、細かく挽かれた薬が散っていた。
「とりあえず、こっちだな」
小卓に残っていた薬入れを手に取る。中にも毒を混ぜてある以上、この部屋へ残しておくわけにはいかない。
「これは俺が処分する」
「はい」
毒を混ぜた薬瓶を上着の内側へしまってから、呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして先ほどの侍女が戻ってきた。
「お呼びでしょうか」
「薬をこぼした。今夜の分をもう一度持ってきて」
「かしこまりました」
侍女は床へ視線を落としたものの、余計なことは聞かなかった。
散った薬と薬匙を片づけてから部屋を出ていき、しばらくして新しい薬入れと薬匙を持って戻ってきた。
「こちらでございます」
「ありがとう」
アグネスが受け取る。
「ほかに御用はございますか?」
「大丈夫よ。もう休んで」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
侍女は俺にも一礼し、部屋を出ていった。
再び二人きりになる。
アグネスは新しい薬入れの蓋を開け、薬匙で薬をすくった。
俺は黙って見ていた。
今度はそのまま口へ含み、グラスの水で流し込む。
飲み終えたアグネスがグラスを小卓へ戻してから、こちらを見た。
「……これなら、よろしいですか?」
「うん」
思わず答えてから、少しだけ顔をしかめる。
「なんで俺に確認するの」
「ずっと見ていらしたので」
「……そうだね」
アグネスは薬入れを小卓へ戻した。
「ルーファス」
「何?」
「今夜は、もうお戻りになりますか?」
自室へ、という意味だろう。
時計を見ると、もう遅い時間になっていた。
「……そうだね」
「分かりました」
アグネスはそれだけ答えた。
椅子から立ち上がり、扉へ向かう。
取っ手へ手をかけたところで、足が止まった。
殺すために、この部屋へ来た。
そのために毒まで持ち込み、アグネスの薬へ混ぜた。
もう、その目的はなくなった。
なら、帰ればいい。
それなのに、アグネスを一人残して扉を閉めることに、妙な抵抗があった。
振り返る。
アグネスはまだ椅子に座っていた。
「アグネス」
「はい?」
「もう少しいてもいい?」
アグネスが瞬きをした。
それから、静かに頷く。
「はい」
扉から手を離し、先ほどまで座っていた椅子へ戻った。
「何かお話ししますか?」
「いや」
「では、このままで?」
「うん」
「分かりました」
何を話すでもなく、二人で座っていた。
アグネスも、何も聞かなかった。
ロデリックへの復讐をやめるつもりはない。
父の汚名を晴らす。あの男がしたことを明るみに出し、その罪を償わせる。
それは変わらない。
ただ、アグネスは殺さない。
復讐に必要なくなったからではない。
もう、殺したくなかった。
それだけは、認めるしかなかった。




