13.ずっと聞きたかった言葉なのに
翌朝、アグネスは父親に話をすると言った。
「一人で行くの?」
「はい。最初は、父と二人で話したいと思っています」
「分かった」
昨夜、そうすると決めたのだから、止める理由はない。
けれど、アグネスはその場を離れなかった。
「どうしたの?」
「……一つ、お願いしてもよろしいですか?」
「何?」
「近くにいていただけますか」
意外な頼みだった。
「俺が?」
「はい」
「二人で話すんじゃないの?」
「父には、私から聞きたいのです。でも……ルーファスにも聞いていていただきたいと思っています」
口を挟まず、ただ聞いていてほしいということらしい。
「分かった」
◇
アグネスはロデリックに話があると伝え、午前中に小応接室で会うことになった。
そこには、隣の控え室へ続く内扉がある。
約束の時間より少し早く、俺とアグネスは小応接室へ向かった。
「こちらで待っていてください」
アグネスに案内され、控え室へ入る。
壁際に長椅子と小卓が置かれただけの、こぢんまりとした部屋だった。
「扉は?」
「少しだけ開けておきます」
アグネスが内扉へ手をかける。
けれど、そのまま出ていかず、一度こちらを振り返った。
「ルーファス」
「何?」
「……行ってきます」
「うん」
アグネスが応接室へ戻る。
内扉はわずかに開いたままだった。
向こうからこちらの姿は見えない。けれど、声は十分に聞こえる。
ほどなくして、廊下側の扉が開いた。
「待たせたか、アグネス」
「いいえ、お父様。お時間をいただいてありがとうございます」
「お前が改まって話があるなどと言うから、何事かと思ったぞ。座りなさい」
「はい」
椅子を引く音が二つ続く。
「それで、話とは?」
少しの間があった。
「お父様。アシュフォードという方を、覚えていらっしゃいますか?」
不意に父の姓を耳にして、膝の上の手に力が入った。
扉一枚隔てた向こうからは、すぐには返事がない。
「アシュフォード?」
「はい」
「……どこの?」
聞き間違えたのかと思った。
俺が何年も忘れられずにいた名前を、この男は「どこの」と聞かなければ思い出せないらしい。
「以前、お父様と仕事をされていた方です」
「それだけでは分からんな」
「横領の罪で職を追われた方です」
今度は、答えが返ってくるまで少しかかった。
「……ああ」
それだけだった。
「覚えていらっしゃいますか?」
「昔のことだ」
「あの方は、本当に横領をしたのですか?」
返ってきたのは、答えではなかった。
「誰から、その名前を聞いた?」
「先に答えてください」
「アグネス」
「以前も、私はお父様に尋ねました」
アグネスの声は穏やかだった。
「昔、何をなさったのか。どうして昔のお仕事について何もお話しくださらないのか。けれど、お父様は何も答えてくださいませんでした」
「……」
「今日は、答えていただきたいのです」
「なぜ今になって、そんな話をする」
「知ったからです」
「何を?」
「アシュフォード様のことを」
「だから、誰から聞いた」
「それも、あとでお答えします」
小さく息を吐く音が、開いた扉の向こうから聞こえた。
「アグネス。お前には関係のないことだ」
「あります」
「ない」
「私は、お父様の娘です」
「だからこそだ。お前が知る必要はない」
「それを決めるのは、私ではありませんか?」
わずかな衣擦れの音がしただけで、答えはない。
「アシュフォード様は、横領をしていなかったのではありませんか?」
「誰がそんなことを言った」
「否定はなさらないのですね」
「そういう話ではない」
「では、どういう話ですか?」
そこから先は続かなかった。
何を聞かれても、ロデリックは肝心なところだけを避けている。
証拠なら、すでにある。
父が無実だったことも、ロデリックが罪を着せたことも分かっている。それでも、本人が娘を前にして何と答えるのかを聞きたかった。
「アシュフォード様は、最後まで罪を否定していたそうですね」
「……」
「それでも職を失い、ご家族とも離れることになった」
「どこまで聞いた?」
「息子は、奥様に引き取られました」
「アグネス」
「その後、奥様は一人で息子を育て、身体を壊して亡くなったそうです」
昨夜、自分で話したことだった。
それを今、アグネスの声で聞いている。
「なぜ、お前がそんなことを知っている」
「その息子から聞きました」
そこで、会話が途切れた。
「……息子?」
「はい」
「アシュフォードの?」
「はい」
「誰だ」
アグネスは少し間を置いた。
「ルーファスです」
しばらく、何の音も聞こえなかった。
「……何?」
「ルーファスは、アシュフォード様の息子です」
「そんなはずは」
「本当です」
「なぜ、あいつが……」
そこで言葉が途切れる。
「いつ知った?」
「昨夜です」
「ルーファスから聞いたのか」
「はい」
「なぜ、あいつがお前にそんな話をした」
アグネスは答えなかった。
「アグネス」
「今は、お父様のお話をしています」
「答えなさい。ルーファスは、なぜお前に話した」
「私が尋ねたからです」
「なぜ尋ねる必要があった」
「それは……」
少しの間を置いて、アグネスが答えた。
「私とルーファスの間のことです」
「何をされた?」
それまでとは違い、返事はすぐだった。
俺がアシュフォードの息子だと知った途端、ロデリックにとって過去のことなど二の次になったらしい。
「お父様」
「何をされたと聞いている」
「私は大丈夫です」
「そういうことを聞いているんじゃない」
「分かっています」
「なら答えなさい」
「……お答えできません」
椅子が大きく動く音がした。
「あいつはどこにいる」
「お父様」
「どこだ」
「近くにいます」
「何?」
「この話を、聞いています」
「最初からか」
「はい」
今度は、間を置いて低い声が返ってきた。
「……呼びなさい」
やがて内扉が開き、アグネスが姿を見せた。
その向こうでは、ロデリックが立ち上がっている。
俺も長椅子から立ち、応接室へ入った。
「聞いていました」
ロデリックは何も言わなかった。
これまで俺に向けられてきた親しげな態度は、もうどこにもない。
「お前が……アシュフォードの息子なのか」
「はい」
「いつから私のことを知っていた」
「アグネスと結婚する前からです」
それだけで、ロデリックにも話の先が見えたらしい。俺ではなく、隣にいるアグネスへ目を向ける。
「では、アグネスとの結婚も……」
「あなたへの復讐のためです」
机の縁を掴んだ手に力がこもる。
「私への恨みに、娘を巻き込んだのか」
「そうです」
「アグネスは何もしていない」
「分かっています」
「分かっていて近づいたのか」
否定することはできなかった。
「はい」
最愛の娘が復讐に利用されたと知って、ロデリックの目に初めて明確な怒りが浮かんだ。
三年前なら、その顔を見ただけで満足できたのかもしれない。少なくとも、俺はずっとそう思っていた。
けれど実際に目の前にしても、期待していたようなものは何も湧いてこなかった。
「何をした」
押し殺したような声だった。
「アグネスに、何をした」
「お父様」
「アグネスは黙っていなさい」
「いいえ」
アグネスの声は変わらなかった。
「そのことは、私とルーファスの間で話しました」
「だからといって――」
「今は、お父様のことを聞かせてください」
ロデリックはすぐには引かなかった。
けれど、アグネスも目を逸らさない。しばらくして先に口を開いたのは、アグネスだった。
「アシュフォード様は、本当に横領をしたのですか?」
「……」
「お父様」
「今さら、私が何を言ったところで意味はない」
「私にはあります」
そこでようやく、ロデリックが俺へ向き直った。
「証拠でもあるのか」
「あります」
「何の証拠だ」
「父に横領の罪を着せたことです。それだけではありません」
「何?」
「あなたがこれまでしてきたことも調べました」
「どこまでだ」
「自分が何をしてきたかは、あなたが一番よく知っているはずです」
何を掴んでいるのか探ろうとしているのだろうが、こちらから教えるつもりはなかった。
「証拠はこの屋敷にはありません。俺に何かあっても、なくなることはありません」
「何が目的だ」
もともと、答えは一つしかなかった。
ロデリックから一番大切なものを奪う。そのためにこの家へ入り、そのためにアグネスと夫婦になった。
「父の汚名を晴らします。それから、あなたがしてきたことも明るみに出す」
「それだけか」
ロデリックの目が、俺の隣へ向いた。
何を聞いているのかは分かった。
「アグネスを傷つけるつもりは、もうありません」
「もう?」
言ってから、余計な一言だったと気づいた。
「どういう意味だ」
「お父様」
「アグネス。こいつは、お前に何をした」
「……」
「答えなさい」
「そのことは、私とルーファスの間で話しました」
「そんなことで済むと思っているのか」
「済んだとは思っていません」
アグネスは静かに答えた。
「ですが、私が話したくないことまで、今ここで話すつもりはありません」
「アグネス」
「私は大丈夫です」
それで安心するはずもない。
それでも、何度聞いてもアグネスの答えが変わらないことくらいは分かったのだろう。
「お前の言葉を信用するつもりはない」
「当然だと思います」
「なら、アグネスから離れろ」
口を開きかけて、何も言えなかった。
それは、もともと俺自身が決めていたことだ。
復讐が終われば、この家に残る理由はない。アグネスとの結婚だって、そのためにしたものだった。
だから、頷けばいい。
それなのに、できなかった。
「お父様」
代わりにアグネスが口を開いた。
「そのことは、私たちで決めます」
「お前は――」
「今は、お父様のお話です」
また話を戻された。
ロデリックが口を挟むより先に、アグネスは続けた。
「アシュフォード様は、横領をしていなかったのですね」
「……」
「お父様。私には、まだ答えてくださらないのですか」
「……していない」
初めて、問いにまっすぐ答えた。
「アシュフォードは、横領などしていない」
「では、証拠は?」
「私が用意した」
その言葉を、ずっと聞きたかった。
父は無実だった。ロデリックが罪を着せた。
その事実を明らかにするために、俺はここまで来た。
けれど、聞いたところで何かが戻ってくるわけではなかった。
父も、母も、俺が失った時間も。
「どうしてですか」
「……私の不正に気づいたからだ」
「それで、罪を着せたのですか」
「ああ」
あまりにも短い答えだった。
俺たちの家族を壊したことが、この男の口から出れば、たったそれだけの言葉で終わる。
怒りが消えたわけではない。許せるはずもない。
ただ、どれだけ言葉を重ねさせても、過去は変わらないのだと分かった。
「ルーファスは、お父様がほかにも不正をしてきたと言っています。本当なのですか」
「……」
「お父様」
「一つや二つではない」
「今も、続いているのですか」
「……そういうものもある」
「でしたら、やめてください」
「アグネス」
「そして、償ってください」
これまでロデリックは、アグネスに何も知らせようとしなかった。知る必要はないと言って、遠ざけてきた。
けれど、もうアグネスは知らなかった頃には戻れない。
「私は、お父様の娘です。お父様に大切に育てていただいたことも、愛していただいたことも知っています。だから、嫌いにはなれません」
「……」
「でも、お父様がしたことまで、なかったことにはできません」
今度は、「知る必要はない」と退ける言葉も返ってこなかった。
「もう一度お願いします。これ以上、誰かを傷つけることはやめてください。これまでのことも、償ってください」
返事はなかなか返ってこなかった。
「……今日は、少し考えさせてくれ」
アグネスもすぐには答えなかった。
「分かりました」
その声に、諦めた様子はなかった。今日答えてもらえないのなら、また聞くつもりなのだろう。
「ルーファス」
ロデリックが俺の名を呼んだ。
「お前とは、改めて話がしたい」
「分かりました」
それ以上の言葉を残さず、ロデリックは応接室を出ていった。
扉が閉じても、すぐには動く気になれなかった。
父の無実を、ロデリック自身の口から認めさせた。
ずっと、ここへ辿り着くことだけを考えてきた。
けれど、胸がすくことも、満たされたと思うこともなかった。
「ルーファス」
気づけば、アグネスがすぐそばに立っていた。
「近くにいてくださって、ありがとうございました」
「……うん」
結局、欲しかったものを手に入れたはずなのに、俺がまともに息を吐けたのは、その声を聞いてからだった。




