08.一日くらい、どうということはない
「最近、お仕事がお忙しいのですね」
朝食の席で、アグネスが言った。
「そう?」
「はい。昨日も一昨日も、遅くまで執務室にいらしたでしょう」
「少し仕事が多くてね」
嘘ではない。
ヴァレンフォード家の仕事は、以前よりずっと多く任されるようになった。それに加えて、ロデリックについて調べることも増えている。
父の件について当時を知る男の居場所も、ようやく分かった。あとは直接会って、話を聞くだけだ。
「あまりご無理はなさらないでください」
「君に言われるとは思わなかった」
そう返すと、アグネスがわずかに眉を寄せた。
「私だから申し上げているのです」
「説得力があるのかないのか分からないね」
「身体を壊すと大変なことは、よく知っています」
「それなら説得力はあるか」
「はい」
納得したらしい。アグネスは満足そうに紅茶へ口をつけた。
「今日は、夕食のお時間には終わりそうですか?」
「そのつもり」
「では、ご一緒できますね」
「ああ」
けれど、その日の夕食を一緒に取ることはできなかった。
◇
昼を過ぎた頃から、身体が重かった。
寝不足だろうと思っていた。昨夜も遅くまで仕事をしていたし、朝もいつもどおりに起きた。多少疲れていてもおかしくない。
そう考えて、そのまま仕事を続けた。
夕方になると、今度は文字がうまく頭に入らなくなった。同じ行を読んだはずなのに、次の行へ移る頃には内容が抜け落ちている。
もう一度読み直す。
それでも分からない。
さすがにおかしいと思い、額へ手を当てた。
熱い。
「旦那様?」
近くで書類を整理していた使用人が、手を止めた。
「何でもない」
今日はもう切り上げたほうがいいかもしれない。そう思って椅子から立ち上がった瞬間、床が揺れたように感じた。
咄嗟に机へ手をつく。
「旦那様、大丈夫ですか」
「大丈夫」
「ですが、お顔の色が――」
「少し熱があるだけだよ」
「すぐにお医者様をお呼びします」
「そこまでしなくていい」
「いけません」
使用人とは違う声が重なった。
顔を上げると、開いた扉のところにアグネスが立っている。
「どうしてここに?」
「夕食のお時間になってもいらっしゃらないので、お迎えに来ました」
窓の外へ目を向けると、いつの間にか日が傾いていた。朝、夕食には終わると言ったことさえ忘れていたらしい。
アグネスがこちらへ歩いてくる。
「お顔が赤いです」
「熱があるみたい」
「お部屋へ戻りましょう」
「まだ仕事が」
「明日になさってください」
「今日中に見たいものがあるんだ」
「逃げません」
何が、と聞くより先に、アグネスが机の上へ視線を向けた。
「書類は、明日もここにあります」
確かにそのとおりだった。
「……そうだね」
「はい」
続きを読んだところで、今の状態では頭にも入らないだろう。反論する気力もなく、仕事を諦めた。
立っているだけでも身体が重く、結局、使用人に付き添われて自室へ戻ることになった。
◇
部屋へ戻ってしばらくすると、呼ばれた医師がやってきた。
横になっているうちにも熱は上がっているらしく、先ほどより身体が熱い。診察の間も頭がぼんやりして、医師に聞かれたことへ答えるだけで妙に疲れた。
脈を取っていた医師が、ようやく俺の手首から指を離した。
「おそらく、疲れが重なったのでしょう。今夜はもう少し熱が上がるかもしれません」
「明日は?」
「朝には下がっているかもしれませんが、下がっていても一日はお休みください」
「分かりました」
「本当に分かっていらっしゃいますか?」
すぐ横から念を押される。
顔を向けると、アグネスが疑わしそうにこちらを見ていた。
「分かってるよ」
「でしたら、明日のことは明日お考えください」
「分かったって」
「本当でしょうか」
熱のせいで気が緩んでいるのか、少し笑ってしまった。
「今日は厳しいね」
「ルーファスが言うことを聞いてくださらないからです」
医師までわずかに笑ったように見えた。
医師が帰ったあとも、使用人たちは水を運んだり、額を冷やすための布を用意したりと、しばらく部屋を出入りしていた。
その間も、アグネスは寝台のそばを離れようとしなかった。
「君も戻ったら?」
「もう少しおります」
「うつるかもしれないよ」
「お医者様は、風邪ではなく疲れからくる熱だろうと仰っていました」
「それでも」
「嫌です」
予想していなかった返事に、アグネスを見る。
本人も口にしてから驚いたらしい。一瞬だけ目を瞬いたものの、言い直すつもりはないようだった。
「……そう」
そこまでして追い返す理由もない。それ以上は何も言わず、用意された薬を飲んで目を閉じた。
それからは、眠ったり、目を覚ましたりを繰り返した。
額に触れていた布が冷たいものに替わる。身体を起こされ、口元へ運ばれた水を飲む。
誰がしているのか確かめる余裕もなかった。ただ、ときどきアグネスの声が聞こえた気がする。
その声も、いつからか聞こえなくなった。
◇
夜中に一度、意識が浮かんだ。
身体が熱い。頭も重く、瞼を開こうとしてもわずかにしか動かない。
それでも、右手に触れているものだけは分かった。
温かい。
誰かの手が、俺の手を両側から包んでいる。
重い瞼をどうにか持ち上げると、寝台の脇にアグネスがいた。椅子へ腰掛けたまま俯き、目を閉じている。
眠っているのかと思った。
けれど、唇がかすかに動いていた。
「どうか、お守りください」
静かな声が聞こえる。
「どうか、この方の苦しみをお取りください」
祈っている。
俺の手を握ったまま。
「どうか……明日の朝も、ルーファスが目を覚ましますように」
声をかけようとしたが、喉から音が出なかった。
アグネスは俺が目を覚ましたことに気づいていない。俺の手を包む指にときどき力を込めながら、同じような言葉を繰り返している。
その温かさに、遠い記憶が重なった。
昔、熱を出したときにも、こうして母に手を握られていた。
アグネスの親指が、ゆっくりと俺の手の甲を撫でる。
やがて祈りの言葉が途切れたあとも、手は離れなかった。
また瞼が重くなる。
意識が沈んでいく最後まで、その温かさだけは分かった。
◇
次に目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
昨日より身体が軽い。
額へ触れてみると、夜中までまとわりついていた熱っぽさもほとんど感じない。
右手を動かしかけて、止めた。
まだ、アグネスに握られていた。
寝台の脇に座ったまま、上半身をこちらへ預けるようにして眠っている。淡い金髪はいつもより乱れ、頬に何本か張りついていた。
「アグネス」
小さく呼んでみたが、起きない。
いつもならそれほど深く眠るほうではない。よほど疲れたのだろう。
視線を上げると、少し離れたところに侍女が控えていた。
「アグネスは、ずっとここに?」
「はい。旦那様がお休みになってから、一度もお部屋へお戻りになっておりません」
「君たちは帰るように言わなかったの?」
「何度も申し上げました。ですが、奥様がどうしてもと」
そう言われて、もう一度アグネスを見る。
昨夜聞いた声が蘇った。
「ずっと祈ってた?」
「はい」
「……そう」
「ご存じだったのですか?」
「夜中に少し目が覚めた」
「そうでしたか」
右手には、まだアグネスの指が重なっている。
少しだけ動かすと、その指が反応した。
「……ん」
アグネスが身じろぎし、ゆっくりと顔を上げる。
「……ルーファス?」
「おはよう」
まだ眠気の残っていた深い青の瞳が、俺の顔を認めた途端に大きくなった。
「お加減は?」
「昨日よりはいい」
答え終わるより先に、握られていた手が離れる。
そのまま伸びてきた冷たい指先が、俺の額に触れた。
「熱が……」
一度離れた手が、確かめるようにもう一度触れる。
「下がっています」
「みたいだね」
「よかった……」
アグネスが小さく息を吐いた。
安心したらしい顔を見てから、目の下に薄く残った疲れに気づく。
「寝てないだろ」
「少しは」
「侍女から聞いた」
アグネスが黙った。
「一晩中いたって」
「……はい」
「祈ってたことも」
「それは、侍女から?」
「俺も聞いた」
アグネスが目を見開いた。
「起きていらしたのですか?」
「少しだけ」
しばらく俺を見ていたアグネスが、気まずそうに視線を下げる。
「……申し訳ありません」
「何が?」
「ルーファスは、ああいったことをお好みではないでしょう」
否定はできなかった。
神に祈れば何かが変わるなどと思ったことはない。むしろ、都合のいいときだけ救いを求めて祈る人間を見ると、苛立つことさえあった。
けれど、昨夜のアグネスに腹が立ったかと聞かれれば、そうではない。
「君が祈ることまで止めるつもりはないよ」
「ですが」
「謝らなくていい」
ようやくアグネスの表情から強張りが消えた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることでもないけど」
それよりも、昨夜から分からないことがある。
「どうして、そこまでするの」
アグネスが不思議そうに俺を見る。
「どうして、とは?」
「使用人もいたんだ。君まで一晩中起きてる必要はなかっただろ」
「はい」
「だったら」
その先をうまく言葉にできずにいると、アグネスは少し考えてから答えた。
「何もせずにはいられなかったのです」
「だから祈った?」
「はい」
「俺の手を握って?」
「……それは」
初めて少し言葉に詰まった。
「苦しそうになさるたびに、握り返してくださったので」
「俺が?」
「覚えていらっしゃらないのですね」
「全然」
「そうですか」
アグネスは自分の手へ目を落とした。
「離すと、また苦しそうになさったので。私の思い込みかもしれませんけれど」
「それで一晩?」
「はい」
「君まで倒れたらどうするの」
「そのときは、ルーファスに心配していただきます」
「……もうしただろ」
アグネスが顔を上げる。
しばらくして、わずかに目元を和らげた。
「そうでしたね」
「だから今日は寝て」
「ですが」
「俺の熱は下がった。次は君が倒れる」
「……はい」
「ちゃんと寝る?」
「寝ます」
「ならいい」
ようやくアグネスが椅子から立ち上がった。
けれど、扉へ向かう前に、もう一度こちらを見る。
「ルーファス」
「何?」
「本当によかったです」
何が、とは聞かなかった。
アグネスはそれだけ言って、侍女とともに部屋を出ていった。
扉が閉じると、急に部屋が静かになった。
右手を見る。
もう誰にも握られていない。
アグネスにも責任がある。
そう考えれば、迷わなくていいはずだった。
その女が、一晩中俺の手を握っていた。
俺が朝、目を覚ますようにと祈りながら。
昨夜、朦朧とする中で蘇った記憶が、また浮かんだ。
幼い頃、熱を出した俺の手を握っていた母。
その母をあんな目に遭わせた男の娘だ。
忘れるな。
そう自分に言い聞かせた。
◇
昼前にもう一度診てもらうと、熱はすっかり下がっていた。
「もう大丈夫?」
「ええ。ただし、今日はお休みください。今夜まで何もなければ、明日からは普段どおりで構わないでしょう」
念を押され、今度こそ素直に頷いた。
食欲も戻っていたので、昼食はいつもと変わらない量を食べた。身体の重さもほとんどない。
これなら問題ないだろう。
そう判断して、午後には外出着へ着替えた。
頼んでおいた馬車が、そろそろ玄関前へ回ってくる頃だ。
階段を下りきったところで、廊下の向こうからアグネスが歩いてくるのが見えた。朝は乱れていた髪も、今はいつもどおり綺麗に整えられている。
けれど、顔にはまだ少し疲れが残っていた。
「ルーファス」
「ああ」
何事もなかったようにすれ違おうとしたところで、アグネスの足が止まった。
「どちらへ行かれるのですか?」
「王都」
「今日ですか?」
「ああ」
アグネスの視線が、俺の顔から外出着へ移った。
「今朝まで熱がおありだったのに?」
「今はないよ」
「お医者様は、今日は休むようにと仰っていました」
「馬車に乗るだけだよ」
それでも納得した様子はない。
「王都へ行って、そのまま馬車に乗って帰ってくるわけではないでしょう」
「……まあね」
「何をなさるのですか?」
「人に会う」
「お約束を?」
「いや」
アグネスが少し考えるように黙った。
「でしたら、明日にしてください」
「今日会いたいんだ」
「明日ではいけませんか?」
できれば今日のうちに話を聞きたかった。ようやく見つけた相手だ。父の件を知る人間に、直接話を聞けるところまで来たのだから。
けれど、今日を逃せば会えなくなるわけでもない。
「一日くらいなら変わらないとは思うけど」
「でしたら、明日にしてください」
今日は随分と引かない。
「アグネス」
「お願いします」
声はいつもどおり穏やかだった。けれど、こちらを見る瞳は真剣だった。
「昨日、あれだけ熱を出されたのです。今日くらい、お休みください」
「もう平気だよ」
「昨日も、最初は大丈夫だと仰っていました」
「昨日は熱があったから」
「ご自分では大丈夫だと思って、お仕事を続けていらしたのでしょう?」
「……そうだけど」
「でしたら、今日は私の言うことを聞いてください」
一晩中俺の手を握っていた女に、そこまで言われる。
このまま出ていこうと思えば、出ていける。
それでも、アグネスの言葉を押し切ってまで今日出かける気にはなれなかった。
「分かった。今日は行かない」
「本当ですか?」
「本当」
「では、馬車も断ってくださいね」
「分かってるよ」
ようやくアグネスの表情が緩んだ。
「では、私は部屋へ戻ります」
「見張らなくていいの?」
「お約束してくださったので、信じます」
「そう」
「夕食でお会いしましょう」
「ああ」
アグネスは自室のほうへ戻っていった。
俺も使用人に馬車を戻すよう伝え、再び階段を上がった。
部屋へ戻って外出着を脱ぎ、寝台へ腰を下ろした。
本当なら、今頃は王都へ向かっているはずだった。
一日くらいどうということはなかった。
そのまま寝台へ横になる。
目を閉じる前に、右手へ視線を落とした。
昨夜、アグネスがずっと握っていた手だった。
あの温もりなど、とっくに残っているはずもなかった。




