07.殺す理由が、一つ増えた
アグネスと結婚して、二年半が過ぎた。
あの商会を調べ始めてから、もう一年になる。
時間はかかったが、その分だけ見えてきたものも多い。帳簿に記された金額の食い違いは一つや二つではなく、名目だけの取引や、実際には納められていない品、不自然なほど安く買い叩かれた土地も見つかった。
ロデリック自身の名が残されているものは少ない。それでも、同じ商会や関わった人間を一つずつ辿っていけば、ばらばらに見えた取引が少しずつつながっていった。
父の件についても、ようやく当時のことを知る人間が一人見つかった。ロデリックと父の双方を知っていた男で、まだ直接話を聞けてはいないものの、今どこにいるのかまでは分かっている。
もう少しだ。
あと少しで、父が陥れられたことを証明できる。
机の上の書類を閉じた。
そろそろ昼食の時間だ。
執務室を出て廊下を歩いていると、ロデリックの部屋の前にアグネス付きの侍女が立っているのが見えた。
珍しい。
「アグネスがいるの?」
「はい」
侍女が答える。
「旦那様とお話をなさっております」
「分かった」
そのまま通り過ぎようとしたときだった。
「――もう、おやめになってください」
閉じた扉の向こうから聞こえた声に、足が止まった。
アグネスだった。普段より少し強い声だった。
「アグネス」
続いてロデリックの声がする。
「この話は何度もしただろう」
「でしたら、何度でも申し上げます」
「お前には関係のないことだ」
「あります」
短い沈黙のあと、アグネスが続けた。
「私は、お父様の娘です」
何の話だ。
そばに立つ侍女を見ると、困ったように視線を伏せた。
扉の向こうから、ロデリックのため息が聞こえる。
「お前は何も心配しなくていい」
「そういうことではありません」
「もういい。この話は終わりだ」
「ですが――」
「アグネス」
今度の呼び方には、これ以上話すつもりはないという響きがあった。
それきり、アグネスから返事は聞こえなかった。
少しして扉が開く。
出てきたアグネスが、廊下に立つ俺を見つけて足を止める。
「ルーファス」
「終わった?」
「……はい」
いつもと変わらないように見えた。
けれど、身体の前で重ねた指には、少しだけ力が入っている。
「昼食だろ。行こうか」
「はい」
俺は何も聞かなかった。
アグネスも、何も言わなかった。
◇
昼食の席でも、アグネスは普段と変わらなかった。
今日届いた手紙の話をして、庭の花が咲き始めたことを話す。先ほど父親と何を話していたのか、自分から触れることはなかった。
俺も尋ねなかった。
ただ、聞こえてきた言葉だけは頭から離れない。
――もう、おやめになってください。
何をやめろと言ったのか。
俺がこの二年半で調べてきたことと、まったく無関係だとは思えなかった。
確かめるのは、夜になってからにした。
◇
夕食を終えると、食後の茶が運ばれてきた。
向かいに座るアグネスが紅茶へ口をつけるのを見ながら、昼間から考えていたことを口にする。
「アグネス」
「はい」
「君は、お義父上の仕事についてどのくらい知ってる?」
口元へ運ばれかけていたカップが止まった。
アグネスはすぐには答えず、ゆっくりと顔を上げる。
「お父様の?」
「ああ」
「どうして、そのようなことを?」
「俺もこの家の仕事をするようになって長いからね。君はどのくらい知ってるのかと思って」
アグネスは答えなかった。
けれど、その表情がわずかに変わったのを見逃さなかった。
「……何か、ご覧になったのですか?」
「何か?」
「帳簿や、契約書を」
今度は俺が黙る番だった。
そこまで具体的な言葉が出てくるとは思っていなかった。
「どうしてそう思う?」
「ルーファスは、この一年ほどでお父様のお仕事をずいぶん任されるようになりましたから」
「それだけ?」
「……いいえ」
アグネスはカップを受け皿へ戻した。
「今日のことを聞いていらしたのでしょう?」
「ああ」
「どこから?」
「全部じゃないよ。君がお義父上に、もうやめてくれと言っていたところから」
「そうですか」
アグネスは視線を落とした。
困っているようには見える。けれど、会話を聞かれたことだけが理由ではなさそうだった。
「何をやめてほしいの?」
少しの沈黙のあと、アグネスが顔を上げる。
「ルーファスは、どこまでご存じなのですか?」
「質問してるのは俺なんだけど」
「分かっています。ですが……」
そこで言葉を切り、深い青の瞳で俺を見つめた。
「お父様のお仕事に、おかしなところがあることには、もうお気づきなのですか?」
否定する理由はなかった。
「少しは」
アグネスの指先が、受け皿の縁でわずかに動く。
「驚かないんだね」
「……はい」
「知ってた?」
すぐには答えが返ってこなかった。
「何をなさっているのか、詳しく知っているわけではありません」
「でも、何かあるとは思ってた?」
「はい」
その答えを聞いた途端、胸の奥に冷たいものが広がった。
何も知らないと思っていた。
父親が何をしているのかも知らず、その庇護の中で守られて暮らしているだけの女だと。
だが、違ったらしい。
「いつから?」
「はっきりとおかしいと思うようになったのは、成人してからです」
「何があった?」
アグネスは少し考えてから話し始めた。
「子供の頃、この屋敷へいらした方が、お父様に何かを訴えているところを見たことがあります。その方は土地のことで揉めていたようでしたが、その頃の私には詳しいことまでは分かりませんでした」
それだけなら、子供が意味を理解できなくても不思議ではない。
「ほかには?」
「長く勤めていた使用人が、急にいなくなったこともありました。商人の方がお父様と言い争っているのを見たこともあります。でも、その頃はどれも別々のことだと思っていました」
アグネスはそこで一度言葉を切った。
「成人してから、一度だけ帳簿を見たことがあります」
「帳簿?」
「偶然、開いたままになっていたものを目にしただけです。けれど、以前お父様から聞いた覚えのある取引と、書かれている金額が違っていました」
「それで?」
「お父様に尋ねました」
返ってくる答えは、聞く前から想像できた。
「何て?」
「二度と見るな、と」
アグネスは膝の上で手を重ねる。
「そのとき、昔見聞きしたことも、すべて無関係ではなかったのかもしれないと思いました」
「それから調べた?」
「いいえ」
予想していたものとは違う答えに、アグネスを見る。
「調べなかった?」
「何を、どう調べればよいのかも分かりませんでした。それに、私が自由に見られるものではありませんから」
「じゃあ、何も知らない?」
「具体的なことは、ほとんど」
アグネスは少し考えてから続ける。
「ただ、お父様が何もしていないとは、もう思っていません」
そこまで分かっているのなら、気になることがあった。
「俺が何か知ってたら困る?」
「……いいえ」
返事は思っていたより早かった。
「むしろ……」
アグネスが言いかけて、口を閉じる。
「むしろ?」
「……何でもありません」
続きを待っても、それ以上は話そうとしなかった。
「だから今日、やめろと言ってた?」
「今日だけではありません。以前にも何度か」
「何をやめろって?」
「……具体的に何をなさっているのかは、私にも分かりません」
自嘲するような響きはなかった。ただ、事実をそのまま認める声だった。
「誰かを不当に困らせるようなことをしているのなら、もうやめてほしいと。そう申し上げました」
「それで、お義父上は?」
「何もしていないと仰るか、私には関係ないと仰るだけです」
それでも、今日まで何度も同じことを言ってきたらしい。
「誰かに相談しようとは思わなかった?」
アグネスの視線が落ちた。
「思いました」
「しなかった?」
「はい」
しばらく待っても、続きを口にしない。
「どうして?」
アグネスはすぐには答えなかった。
やがて膝の上で重ねていた手を見ながら、静かに言う。
「怖かったのです」
「君の父上が?」
「いいえ」
首を横に振る。
「もし本当に、お父様が悪いことをしていたら。それを誰かに話せば、お父様がどうなるのか。この家がどうなるのか。ここで働いている方々はどうなるのか」
そこで一度言葉が止まった。
「それに、私自身がどうなるのかも、怖かったのです」
思っていなかった答えだった。
「父親だから?」
「はい」
そこには迷いがなかった。
「母を亡くしてから、お父様はずっと私を大切にしてくださいました。何か間違ったことをしているのだとしても、それだけで嫌いにはなれませんでした」
「だから、誰にも言わなかった?」
「それだけではありません」
アグネスは顔を上げた。
「私も、この生活を失いたくありませんでした」
言い訳をするような様子はなかった。
「お父様を失いたくなかった。この家も失いたくなかった。今までどおり暮らせなくなることも怖かった」
深い青の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「ですから、私には何もできなかったとは言いたくありません。私は、何もしなかったのです」
返す言葉が、すぐには浮かばなかった。
もっと簡単な女だと思っていた。
父親の罪など何も知らず、その庇護の中で穏やかに暮らしているだけの女。
あるいは、何かに気づいても、自分には関係がないと目を逸らしている女。
どちらかなら、もっと分かりやすかった。
「いつか明るみに出ると思ってる?」
「……はい」
「そのとき、君はどうする?」
アグネスの瞳が揺れた。
「分かりません」
「君の父上を庇う?」
「……分かりません」
同じ答えだった。
「庇いたいと思ってしまうかもしれません。お父様ですから」
そこでアグネスは一度言葉を切った。
「でも、それではいけないことも分かっています」
俺は冷めかけた紅茶へ手を伸ばした。
アグネスも自分のカップを取る。
それで話は終わったと思った。
「ルーファス」
「何?」
呼ばれて顔を上げる。
「もし――」
アグネスは何かを言おうとして、口を閉じた。
「何?」
「お父様のお仕事について、何かお知りになることがあったら……」
続きを待つ。
けれど、アグネスはしばらく黙ったあと、首を横に振った。
「……いえ。申し訳ありません。何でもありません」
それ以上は聞かなかった。
ただ、二度も途中でやめた言葉が気になった。
父親のしていることを俺が知っていたとしても、困らない。
むしろ――。
その先に、アグネスは何を続けるつもりだったのか。
◇
その夜、自室へ戻ると、机の上に置いていた帳簿を開いた。
アグネスは知っていた。
正確には、何かあると気づいていた。
父親が誰かを傷つけるようなことをしているのではないかと疑い、それでも誰にも話さなかった。
ロデリックを失いたくなかったから。
この家を失いたくなかったから。
自分の生活が変わるのが怖かったから。
その間にも、この男に傷つけられた人間はいた。
父と母も、その中にいる。
これでいい。
むしろ、都合がいい。
ロデリックの娘というだけではない。
何かあると分かっていながら黙っていたのなら、アグネスにもまったく責任がないとは言えない。
これで、殺す理由が一つ増えた。
そう思えばいいはずだった。
帳簿へ目を落とし、並んだ数字を追う。
けれど、浮かんでくるのは数字ではなかった。
『私も、この生活を失いたくありませんでした』
自分の弱さまで隠さず、そう言ったアグネスの顔が残っている。
『むしろ……』
あのとき、何を言おうとしたのか。
それだけではない。
『お父様のお仕事について、何かお知りになることがあったら……』
あの続きも、結局聞けなかった。
父親のしていることを知られるのが怖いのなら、俺が何かに気づいていると知った時点で、もっと警戒するはずだ。
これ以上知ろうとしないでほしい。父を疑わないでほしい。
そう言うことだってできた。
それなのに、アグネスは何も止めようとしなかった。
俺は帳簿の頁をめくった。
アグネスにも責任がある。
そう考えれば、何も迷う必要はない。
そのはずだった。




