06.いつものあなたが、そこにいる
屋敷へ戻った頃には、日が暮れ始めていた。予定より少し遅くなったが、夕食には十分間に合う時間だ。
馬車を降りると、使用人が玄関の扉を開けた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ」
外套を預けながら、いつものように尋ねる。
「アグネスは?」
「奥様でしたら、午後から少しお熱が出まして、お部屋でお休みになっております」
その言葉に、足が止まった。
「熱?」
「はい」
「朝は何ともなかっただろう」
「昼食のあとから少しお身体がだるいと仰いまして。お休みいただいていたのですが、その後お熱が」
「医師は?」
「すでにお越しいただきました。風邪だろうとのことで、今夜は安静になさるようにと」
「分かった」
それなら、さほど心配することでもないだろう。アグネスが熱を出して寝込むのは、結婚してからも何度かあった。
「夕食は部屋で?」
「今夜は召し上がらないそうです。あとでスープを少しお持ちする予定でございます」
「何も食べられないなら、無理はさせないで」
「かしこまりました」
使用人と別れ、階段を上がる。
朝には、一緒に夕食を取るつもりでいた。熱が下がれば、明日にでもまた一緒に食べられる。
そう考えながら自室へ戻りかけ、内扉の前で足を止めた。
この向こうが、アグネスの部屋だ。
医師にも診てもらっているし、本人も休んでいる。俺が顔を見たところで、何かできるわけでもない。
それでも、そのまま自室へ入る気にはなれず、少し迷ってから扉を叩いた。
「はい」
侍女の声を聞いて中へ入ると、アグネスは寝台に横になっていた。淡い金髪はほどかれ、枕の上へ広がっている。いつも白い顔は熱のせいで頬だけ赤く、その色がかえって具合の悪さを目立たせていた。
「ルーファス」
こちらに気づいたアグネスが身体を起こそうとしたので、すぐに止める。
「そのままでいい」
「お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま」
寝台のそばまで行くと、遠目に見たときよりも顔色が悪い。頬には熱がこもっているのに、唇にはあまり色がなかった。
「朝は元気だったのに」
「私も驚いております」
「いつから?」
「昼食をいただいたあとくらいでしょうか。少し身体が重いと思っていたら、熱が出てしまって」
「医師は数日休めば大丈夫だと?」
「はい」
なら、今は休ませるしかない。
そう思っていると、アグネスのほうから口を開いた。
「今日はどうでしたか?」
「何が?」
「王都のお仕事です」
「ああ」
商会について、いくつか話を聞くことができた。五年前にヴァレンフォード家との取引を担当していた人間の名前も分かり、思っていた以上の収穫だった。
「悪くなかった」
「そうですか。よかったです」
自分は熱を出して寝込んでいるというのに、アグネスの目元がわずかに和らぐ。
「君は人の仕事より自分の心配をしてろ」
「しております」
「しているようには見えないけど」
「きちんとお薬も飲みました」
「ならいい」
そこで会話が途切れた。
帰ってきたことは伝えたし、容体も分かった。あとは眠らせたほうがいいだろう。
そう考えていたところで、アグネスがこちらを見る。
「夕食、ご一緒できなくなってしまいましたね」
「熱があるんだから仕方ないだろう」
「朝は楽しみにしていたのですが」
「治ったら食べればいい」
「そうですね」
素直に頷く顔を見てから、寝台を離れた。
「今日は早く寝て」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
明日には少し下がっているだろう。
部屋を出たときには、その程度に考えていた。
◇
翌朝、食堂へ入って最初に目についたのは、いつもアグネスが座っている向かいの席だった。
誰もいない。
「まだ熱が?」
朝食を運んできた使用人に尋ねると、昨夜より少し上がっているという。
「医師は?」
「朝一番にお越しいただく予定です」
「来たら、昨日からの様子も伝えておいて」
「かしこまりました」
使用人が下がったあと、カップを手に取る。
アグネスが体調を崩せば、部屋で食事を取ることはこれまでにもあった。向かいの席が空いていることだって、別に珍しくはない。
そのままいつもどおり朝食を済ませ、仕事へ向かった。
◇
「こちらが、先月分の支出です」
「ああ」
使用人から受け取った書類を開く。
昨日、王都で聞いた話と照らし合わせれば、調べるべきものはいくつもあった。五年前の商会、当時の帳簿係、ヴァレンフォード家から出た金。その一つ一つを辿れば、ロデリックが何をしていたのか、さらに確かめられるかもしれない。
ようやく掴んだ糸口だ。ここで手を止める理由はなかった。
何枚か書類をめくったところで、開いた扉の向こうを見覚えのある侍女が通り過ぎた。
アグネス付きの侍女だ。
「待って」
呼び止めると、侍女がすぐに戻ってくる。
「はい、旦那様」
「アグネスは?」
「ただいまお休みになっております」
「熱は下がった?」
「いいえ。朝とあまり変わっておりません」
「医師は来た?」
「はい。先ほどお帰りになりました。もうしばらく様子を見るようにとのことでございます」
「分かった。休ませておいて」
「かしこまりました」
侍女を行かせ、書類へ目を戻した。昨日と変わらないのなら、少なくとも急に悪くなったわけではない。そう考えて仕事を続けたものの、昼を過ぎてもアグネスの熱は下がらなかった。
廊下で侍女を見かければ熱を尋ね、食事が運ばれていけば、どのくらい食べられたのかを聞いた。返ってくるのは、熱はまだある、スープを少し口にしただけだという答えばかりだった。
夕方になっても変わらない。
夜になっても下がらない。
翌朝になっても、同じだった。
これまでなら、一日か二日寝ていれば少しずつ回復していた。今回もそうなるものだと思っていたのに、その兆しが見えないまま三日目の朝を迎えた。
◇
執務室へ向かう途中、アグネスの侍女とすれ違った。
「アグネスは?」
もう、呼び止めることに迷いもしなかった。
「昨夜はあまりお眠りになれなかったようです」
「熱は?」
「まだ下がっておりません」
「医師は今日も来る?」
「はい」
「来たら俺にも話を聞かせて」
「かしこまりました」
それだけ聞いて歩き出したものの、数歩進んだところで足を止めた。
「食事は?」
振り返って尋ねる。
「今朝はほとんど召し上がっておりません」
「……分かった」
今度こそ執務室へ向かった。
◇
「長引いております」
昼前にやって来た医師は、アグネスを診察したあと、そう告げた。
寝室にはロデリックも来ている。
「ただの風邪ではなかったのか」
ロデリックの声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「今のところ、胸の音に悪い兆候はありません。しかし、奥様はもともとお身体が丈夫ではありません。熱がこれ以上続くようであれば、さらに体力を消耗されます」
「薬を変えることは?」
俺が尋ねると、医師はこちらを向いた。
「すでに調整しております」
「他にできることは」
「身体を休め、少しでも水分と食事を取っていただくことです」
「それだけ?」
「現状では」
それ以上聞いても、答えは変わらなかった。
医師を見送ってから、寝台へ目を向ける。
アグネスは眠っていた。
淡い金髪が枕へ広がり、頬には熱による赤みが残っている。いつもこちらを見返してくる深い青の瞳は閉じられたままで、聞こえてくる呼吸も普段より浅い。
ロデリックが寝台のそばへ腰を下ろした。
「この子は、昔から何度もこうして熱を出した」
眠っているアグネスの手を取り、両手で包む。
「何度経験しても、慣れるものではないな」
アグネスから返事はない。
ロデリックはその手を離そうともせず、眠っている娘を見つめていた。
その横顔に浮かんでいるものが偽物ではないことくらい、分かる。
この男は、アグネスを愛している。
昔からずっと。
だからこそ――。
俺は、眠っているアグネスから視線を逸らした。
「……仕事へ戻ります」
ロデリックは娘を見たまま「ああ」と答えた。
「何かあったら呼んでください」
「分かった」
部屋を出て扉を閉めると、廊下の静けさがやけに耳についた。
◇
机の上には、調べかけの書類が積まれていた。
椅子へ座り、一番上の紙を取る。
五年前の取引については、少しずつ分かってきている。商会の名も、動いた金額も、当時のことを知る人間も見つかりつつあった。
調査は順調だった。
それなのに、読み進めていた目が、いつの間にか同じ行へ戻っていた。
もう一度読む。
今度は意味を頭に入れたつもりだったが、次の行へ進んだところで、廊下から足音が聞こえて顔を上げた。
扉の前を通り過ぎていく。
アグネスの部屋とは関係のない使用人だった。
書類へ視線を戻し、続きを読もうとする。
しばらくして、また足音が近づいてきた。
今度は扉の前で止まる。
叩く音がするより早く、俺は手にしていた紙から顔を上げていた。
「入って」
扉を開けたのは、アグネスの侍女だった。
「旦那様。奥様のお熱が、少し下がりました」
「……下がった?」
「はい。先ほど目を覚まされて、お水も召し上がりました」
思わず聞き返してから、手にしていた紙を机へ置く。
「食事は?」
「まだですが、少しなら召し上がれそうだと仰っております」
「なら、食べられるものを少しずつ出してあげて」
「かしこまりました」
侍女が一礼する。
「また何か変わったら知らせて」
「はい」
扉が閉じてから、しばらくそのまま座っていた。
やがて机の上の書類を取り直し、途中で止まっていたところを探す。
今度は同じ行を読み直すこともなく、最後まで目を通すことができた。
◇
それから、アグネスの熱は少しずつ下がっていった。
すぐに元どおりとはいかなかったが、数日後には寝台から起きられるようになり、さらに何日かすると、一緒に昼食を取れるまでに回復した。
まだ食堂へ下りると疲れるというので、食事はアグネスの部屋へ運ばせた。
窓辺の卓を挟んで向かいに座るのも久しぶりだった。
「ご心配をおかけしました」
「まったくだ」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
アグネスがスプーンを手に取り、ゆっくりとスープを口へ運ぶ。
まだ以前と同じ量を食べられるわけではないらしい。それでも、数日前には水を飲むのがやっとだった。こうして自分でスプーンを動かしているだけでも、ずっといい。
「侍女から聞きました」
「何を?」
「何度も私の様子を尋ねてくださっていたそうですね」
スプーンを持ったまま言われ、少しだけ眉を寄せる。
「何度も、ってほどじゃない」
「そうなのですか?」
「仕事の合間に聞いただけだよ」
「それでも、ありがとうございます」
「……別に、礼を言われるようなことじゃない」
アグネスはそれ以上追及せず、またスープを口へ運んだ。
俺も自分の皿へ視線を戻す。
何度尋ねたのかと聞かれても、数えていなかったから分からない。
「それより、ちゃんと食べて」
「食べています」
「さっきからスープばかりじゃないか」
「お医者様からも、無理にたくさん食べなくてよいと言われています」
「なら無理はしなくていいけど、食べられるものは食べて」
「はい」
素直な返事を聞きながら、改めてアグネスを見る。
頬にはまだ少し疲れが残っているものの、熱に浮かされていたときとはまるで違う。唇にも色が戻り、深い青の瞳も、いつもと同じようにこちらを見返している。
その淡い金髪に、小さな青い石が留められていることに気づいた。
「もうそれをつけてるのか」
アグネスが髪へ手をやる。
「はい」
「まだ寝てたほうがいいくらいなのに」
「髪飾りくらい、つけてもよいでしょう?」
「駄目とは言ってない」
「寝ている間はつけられませんでしたから、久しぶりにつけたくなったのです」
指先で青い石に触れたあと、アグネスが少し迷うようにこちらを見た。
「似合っていますか?」
「似合ってる」
すぐに答えると、その目元が柔らかくなる。
「よかったです」
それで満足したらしく、アグネスは再び食事へ戻った。
窓から差し込む昼の光を受けて、青い石が小さく輝いている。頬にも唇にも色が戻り、食事をしながら、ときどきこちらを見る。
いつものアグネスが、そこにいた。




