05.一年半も一緒にいれば
アグネスと結婚して、一年半が過ぎた。
ヴァレンフォード家での暮らしにも、そこでの仕事にも、すっかり慣れていた。
その日の午後、俺はロデリックの執務室で、領地の帳簿に目を通していた。
机の上には何冊もの帳簿が積まれている。半年前までなら、俺のところへ回ってくることのなかったものだ。
領内の警備から始まり、街道の整備、村々への支出、商人との取引。任される仕事が増えるにつれて、触れられる情報も増えていった。
目的には、確実に近づいている。
「……これは」
一冊の帳簿をめくる手が止まった。
五年前のものだった。ある商会へ支払われた金額が、以前目を通した取引記録の額と合わない。
それだけなら、記載の誤りとも考えられる。
だが、同じ商会の名が何度も出てくる。金額も、そのたびにわずかに食い違っていた。
もう一度いくつかの項目を確かめてから、帳簿を閉じる。
これだけでは足りない。だが、手がかりにはなる。
俺は商会の名を頭に入れ、帳簿を閉じて脇へ置いた。
ようやく一つ見つけた。これを辿れば、さらに何か出てくるかもしれない。
「旦那様」
扉の外から声がした。
「何だ」
「そろそろご支度のお時間でございます」
時計を見ると、もうそんな時間になっていた。
今夜はロデリックとアグネスとともに、王都で開かれる晩餐会へ出席することになっている。
「分かった」
帳簿を片づけ、執務室を出た。
◇
支度を終え、自室で上着の袖を整えていると、内扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはアグネスだった。
まだ支度の途中らしく、淡い金髪は結い上げられていたが、耳元にも首にも装飾品はない。
「どうした?」
「少し、よろしいでしょうか」
「ああ」
アグネスは近づいてくると、手にしていた二つの小箱を机へ置いた。
「今夜つける髪飾りを迷っておりまして」
蓋を開く。
一つには真珠をあしらった髪飾り、もう一つには小粒の青い石を連ねたものが入っていた。
「ルーファスなら、どちらになさいますか」
「俺が?」
「はい」
「侍女に聞いたほうが詳しいだろう」
「侍女にも聞きました」
「何と言っていた?」
「どちらでも合うと」
「それで決められなかったのか」
「ええ。どちらも気に入っておりますので」
俺も改めて二つを見比べた。
「青いほう」
「こちらですか?」
「ああ」
アグネスが青い石の髪飾りを手に取る。
「なぜでしょう」
「真珠だと全体が淡くなりすぎる」
「淡く?」
「君は髪も肌も色が薄いだろう。少し色があったほうが似合う」
言いながら、アグネスを見る。
細く柔らかな金髪は、窓から入る光を受けると白金に近く見える。肌も白く、体調を崩した日には唇まで色を失うが、今日は頬にわずかに赤みがあった。
「それに」
「はい?」
「瞳にも近い」
「私の?」
「ああ」
アグネスは髪飾りの石を眺め、それから鏡の中の自分を見る。
「私の瞳は、もう少し暗い青だと思います」
「暗いだけじゃない」
「そうなのですか?」
「明るいところだと、少し紫がかって見える」
言ってから、鏡越しに目が合った。
深い青。室内では濃く見えるが、窓から光が入れば、青の奥にわずかに違う色が見える。
一年前は、ただ青い目だと思っていた。
「……では、こちらにいたします」
アグネスが青い髪飾りを箱へ戻した。
「選んでくださって、ありがとうございます」
「聞かれたから答えただけだ」
「それでもです」
アグネスは二つの箱を持ち上げた。
「では、後ほど」
「ああ」
内扉が閉まる。
俺は鏡へ向き直り、自分の襟元を整えた。
一年半も一緒に暮らしていれば、妻の髪や瞳の色くらい覚える。
それだけのことだった。
◇
玄関広間へ下りると、ロデリックはすでに来ていた。
「アグネスは、もう少しかかるそうだ」
「そうですか」
ロデリックは急かす様子もなく、近くの椅子へ腰掛けた。
「今日は朝から調子がよさそうだった。久しぶりの晩餐会だからな」
「楽しみにしていたんですか?」
「ああ。それもあるだろうが」
含みのある言い方に目を向けたが、ロデリックはそれ以上何も言わなかった。
衣擦れの音がして、顔を上げる。
階段の上にアグネスがいた。
深い青のドレスを着ている。淡い金髪は緩やかに結い上げられ、先ほど俺が選んだ青い石が留められていた。同じ色の石が耳元にも揺れている。
よく似合っていた。
綺麗だと思う。
別に、おかしなことではない。アグネスの容姿が整っていることくらい、結婚する前から知っている。
階段を下りてきたアグネスへ手を差し出すと、彼女は当然のように、その手へ自分の指を重ねた。
「お待たせいたしました」
「いや」
「髪飾りはどうでしょう」
「似合ってる」
答えると、アグネスの目元が柔らかくなった。
「よかったです」
隣では、ロデリックが満足そうに娘を眺めている。
「では、行こうか」
「はい、お父様」
俺たちは屋敷を出た。
◇
晩餐会には、領内外から多くの貴族が招かれていた。
ロデリックの婿としてこうした場へ出ることにも、もう慣れた。騎士として出席していた頃とは周囲の扱いも違い、声を掛けてくる人間も増えている。
領地経営について尋ねられ、ロデリックとの関係を探られ、ときにはアグネスとの結婚生活まで話題にされた。
「夫人はお身体が弱いと伺っていましたが、お元気そうで何よりです」
「今日は調子がいいようです」
「ルーファス卿が大切になさっているからでしょう」
「俺のおかげではありませんよ」
笑って答えながら、少し離れたところへ目を向ける。
アグネスは年配の夫人と話していた。人の多い場所を好む女ではないが、必要な挨拶はきちんとこなし、話しかけられれば穏やかに応じている。
やがて相手が離れると、アグネスが小さく息を吐き、手にしていた杯を置いた。
俺は話していた相手へ断りを入れ、彼女のところへ向かう。
「疲れた?」
「少しだけ」
「座るか」
「ええ」
壁際の椅子まで連れていき、アグネスが腰を下ろすと、近くにいた給仕から水を受け取って渡した。
「ありがとうございます」
「帰る?」
「まだ大丈夫です」
「無理はするな」
「しておりません」
「君の大丈夫は信用できない」
「一年半も一緒にいるのに?」
聞き覚えのある言葉に、アグネスを見る。
彼女も覚えていたらしい。少しだけ目元を和らげている。
「一年半一緒にいるから言ってる」
「それなら、従います」
アグネスは水を一口飲んだ。
頬には、先ほどまでよりわずかに赤みが差している。体調を崩したときの色ではない。人の多い広間が暑いのだろう。
「何でしょう?」
「何が?」
「先ほどから、こちらを見ていらっしゃるので」
「顔色を見ていただけだ」
「具合が悪そうですか?」
「いや。まだ大丈夫そうだ」
「でしたら、もう少しだけ」
「ああ」
俺はその隣に立った。
少し休ませてから戻ればいい。
良い夫として振る舞うなら、その程度は当然だった。
◇
屋敷へ戻った頃には、すっかり夜も更けていた。
「アグネス、疲れていないか?」
馬車を降りるなり、ロデリックが娘へ尋ねる。
「大丈夫です、お父様」
「本当に?」
「ええ。馬車の中で休めましたから」
「ならいいが、今日は早く休みなさい」
「はい」
ロデリックはそれでもしばらく娘の顔色を確かめてから、自室へ戻っていった。
俺とアグネスも二階へ上がり、吹き抜けに面した回廊を並んで歩く。
「楽しかったか?」
「はい」
「それならよかった」
「ルーファスは?」
「俺?」
「楽しくありませんでしたか?」
「悪くはなかった」
「それなら、よかったです」
玄関広間の灯りはすでにいくつか落とされ、夜の屋敷は静かだった。
「あ」
隣を歩いていたアグネスが足を止める。
「どうした?」
「髪飾りが少し緩んでいるような気がして」
片手を上げるが、うまく触れないらしい。
「見せて」
アグネスが俺に背を向ける。
結い上げていた髪は少し崩れ、細い後れ毛が白い首筋へ落ちていた。青い髪飾りが、わずかに傾いている。
留め具へ手を伸ばした。
近くで見ると、淡い金髪は夜の灯りの下では昼間より色を深くしている。
指先で髪飾りに触れたとき、ふと視線がその向こうへ落ちた。
吹き抜けの下に、玄関広間の石床が見える。
俺の手は、アグネスのすぐ後ろにある。髪飾りから手を離して少し下ろせば、その肩に届く。
このまま押せば。
そう思った。
アグネスは俺に背を向けている。周囲には誰もいない。
夜会で疲れた病弱な女が、ふらついて手すりを越えた。そう見えるだろう。
髪飾りから手を離し、ゆっくりと下ろす。
細い肩のすぐ後ろで止まった。
ほんの少し押せばいい。
アグネスは何も言わない。
ただ、じっと立っている。
俺は指を曲げた。
それから手を引き、もう一度髪飾りへ触れた。
傾いていた位置を直し、留め具を確かめる。
「これで大丈夫だ」
「ありがとうございます」
アグネスが振り返った。
深い青の瞳が俺を見る。
「取れそうではありませんか?」
「大丈夫だと思う」
「よかったです」
アグネスは髪飾りへそっと触れた。
「気に入ったので、落としたくありません」
「また買えばいいだろう」
「同じものでも、これはルーファスに選んでいただいたものですから」
「……そう」
アグネスは何事もなかったように歩き始める。
俺もその隣を歩いた。
もう一度、押せる場所を探すことはしなかった。
◇
「今日はありがとうございました」
アグネスの部屋の前で、彼女が振り返った。
「何に対して?」
「髪飾りを選んでくださったことも、晩餐会で気にかけてくださったことも」
「夫なんだから当然だろう」
口にしてから、以前ならもう少し言葉を選んでいたかもしれないと思った。
良い夫なら、どう答えるか。
そんなことを考えることも、最近は減っていた。
アグネスが少し目を見開き、それから静かに笑った。
「そうですね」
「ああ」
「では、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
アグネスが部屋へ入り、扉が閉じる。
俺も自室へ戻り、上着を脱いで椅子の背へ掛けた。
なぜ、押さなかった。
川のときとは違う。
あの頃より、ロデリックから任される仕事は増えた。過去のことへつながる手がかりにも、少しずつ触れられるようになっている。今日だって、ようやく一つ見つけた。
それでも、まだ決定的な証拠ではない。
今殺す必要はない。ロデリックからすべてを奪うなら、最後まで残しておいたほうがいい。
理由なら、いくらでもあった。
机へ向かい、昼間に見つけた商会の名を紙へ書き留める。
王都で調べさせるため、必要なことだけを書いた手紙も用意した。明日の朝、使いに持たせればいい。
次に調べるべきものも分かっている。
復讐は進んでいる。
何も問題はない。
◇
翌朝、食堂へ入ると、アグネスはすでに席についていた。
「おはようございます」
「おはよう」
向かいへ座ると、ほどなく朝食が運ばれてくる。
ふと、アグネスの髪に目が留まった。昨夜と同じ青い石が、小さく留められている。
「それ、今日もつけてるのか」
アグネスが髪へ触れた。
「こちらですか?」
「ああ」
「気に入りましたので」
「昨日のドレスに合わせただけだと思ってた」
「せっかくルーファスに選んでいただきましたから」
「そう」
「変でしょうか」
「いや。似合ってる」
「では、しばらく使います」
アグネスの目元が柔らかくなる。
俺はカップへ手を伸ばした。
「今日は、何かご予定があるのですか?」
「午前中はロデリックと仕事だ。午後もたぶん屋敷にいる」
「では、夕食はご一緒できますね」
「そのつもり」
「分かりました」
いつもどおり答え、残っていた紅茶を飲む。
窓から差し込む朝日を受けて、アグネスの髪に留められた青い石が小さく光っていた。




