04.あとは、この手を離すだけだった
アグネスと結婚して、一年が過ぎた。
ヴァレンフォード家での暮らしは、すっかり日常になっていた。
朝になればアグネスと食卓を囲み、その日の体調を聞く。食事を終えればロデリックの執務室へ向かい、領地から届いた報告に目を通す。昼食を挟んでまた仕事へ戻り、夜になれば妻と食事をする。
騎士だった頃とは何もかもが違い、今では剣を握る時間より、ペンを握っている時間のほうが長くなった。
任される仕事も少しずつ増えている。最初は領内の警備について意見を求められるだけだったが、半年ほど前から街道の整備や村々から届く報告にも目を通すようになり、最近では領内の支出や商人との取引に関する書類まで回ってくる。
この一年、娘を大切にする婿として振る舞い、与えられた仕事も真面目にこなしてきた。その甲斐はあったらしい。
それでも、まだ足りない。
任される仕事が増えたとはいえ、俺が自由に触れられるのはヴァレンフォード家の仕事の一部にすぎない。探しているものへつながる手がかりも、まだ見つかっていなかった。
焦る必要はない。この家へ入ってから、まだ一年だ。あと一年かかろうが、二年かかろうが構わない。
「ルーファス」
声を掛けられ、顔を上げる。
向かいに座るアグネスがこちらを見ていた。
「何だ?」
「今日は、お忙しいですか?」
「今日は?」
「ええ」
珍しいことを聞く。
「午前中に何枚か確認する書類があるくらいだ。午後は特に予定はない」
「そうですか」
アグネスは小さく頷き、それきり食事へ戻ろうとする。
「何かあるのか?」
「いえ……」
そこで一度言葉を止めた。
「今日、領内の教会へ礼拝に行こうと思っておりまして」
「ああ」
アグネスが教会へ行くこと自体は珍しくない。体調のいい日を選び、月に何度か足を運んでいる。
「もし、お時間がおありでしたら、ご一緒していただけたらと思ったのですが」
「俺が?」
「はい」
結婚して一年になるが、アグネスの礼拝に付き添ったことはほとんどない。
「珍しいな。礼拝に誘われたのは初めてじゃないか?」
「ルーファスは、教会がお好きではないでしょう?」
「だから今まで誘わなかった?」
「……ええ。ご迷惑かと思いましたので」
俺が神を信じていないことを知っているから、誘うこと自体を控えていたらしい。
「午後なら空いている。一緒に行こう」
「よろしいのですか?」
「ああ」
「ですが、本当にご無理はなさらなくても」
「教会が好きではないだけで、入れないわけじゃない。祈るつもりもないが、君に付き添うくらいはできる」
「それなら」
アグネスの目元がわずかに和らいだ。
「ご一緒していただけると嬉しいです」
「ああ」
「ありがとうございます」
アグネスは再び食事へ戻った。
教会へ行くくらいで喜ぶのなら、安いものだ。良い夫として振る舞ううえでも、断る理由はなかった。
◇
午前中に予定していた仕事を終え、昼食を取ってから屋敷を出た。
教会までは馬車で一時間ほどだ。向かいに座るアグネスは、流れていく景色を眺めていた。
「体調は?」
尋ねると、こちらを向く。
「大丈夫です」
「朝から変わっていない?」
「ええ。今日は調子がいいようです」
「ならいい」
それからしばらくして、アグネスが口を開いた。
「ルーファス」
「何だ?」
「今日はありがとうございます」
「朝も聞いた」
「そうでしたね」
「まだ教会にも着いていないぞ」
「それでも、嬉しかったので」
そう言って、また窓の外へ目を向ける。
俺はその横顔を見てから、背もたれへ身体を預けた。
この程度のことで、ずいぶん喜ぶものだ。
そう思いながら、教会へ着くのを待った。
◇
馬車に一時間ほど揺られ、教会に到着した。
領内ではそれなりに大きな教会で、周辺の村からも人が訪れるという。アグネスは幼い頃から何度も来ているらしく、礼拝堂へ入ると慣れた様子で祭壇の前まで進んだ。
俺は少し離れた長椅子へ腰掛ける。付き添ってきた侍女と護衛たちも後方に控えていた。
祭壇の前で、アグネスが祈りを捧げる。瞼を伏せ、胸元で両手を組む姿は、屋敷で祈るときと変わらない。
神を信じる理由が、俺には今も分からない。
願ったところで叶うとは限らないし、救われない人間はいくらでもいる。それでもアグネスは祈る。
長い祈りが終わるまで、俺は黙って待っていた。
やがてアグネスが立ち上がり、こちらへ戻ってくる。
「お待たせいたしました」
「もういいのか?」
「はい」
隣へ並び、そのまま出口へ向かう。
「今日は長かったな」
「分かりましたか?」
「屋敷でも毎日見ているからな」
アグネスが少し驚いたように俺を見る。
「何をそんなに祈っていた?」
「いろいろと」
「いろいろ?」
「父のことや、領地の方々のこと。それから――」
少し間を置いて、アグネスがこちらを見た。
「ルーファスのことも」
「俺?」
「はい」
「何を祈ることがある」
「お元気でいられますように、と」
「頼んだ覚えはない」
「ええ」
「なら、なぜ」
アグネスは不思議そうに俺を見る。
「私が祈りたかったからです」
それだけだった。
「……好きにすればいい」
「はい」
アグネスは気を悪くした様子もなく頷いた。
教会の外へ出ると、春の日差しが石段へ降り注いでいた。
◇
帰路についてしばらくした頃、馬車の下から妙な音がした。
御者が速度を落とし、やがて馬車が街道の端へ停まる。
「確認してまいります」
御者が降りていき、護衛の一人も後を追った。
しばらくして扉が開く。
「車輪を留めている金具が緩んでおります。直せますが、少々お時間をいただくかと」
「どのくらいだ?」
「四半刻ほどあれば」
「分かった」
扉が閉じると、向かいに座るアグネスが窓の外へ目を向けた。
「少し歩くか?」
声を掛けると、こちらを見る。
「よろしいのですか?」
「今日は調子がいいんだろう?」
「ええ」
「なら、馬車の中で待っている必要もない」
「そうですね」
俺たちは馬車を降り、侍女と護衛を連れて街道の脇を歩き始めた。
木々の向こうから水音が聞こえてくる。少し進むと川が見え、昨日まで降っていた雨のせいか、普段よりも水量が増していた。
川沿いには細い道が続き、ところどころに春の花が咲いている。
「ここにも咲いているのですね」
アグネスが足を止めた。
「珍しい花なのか?」
「いいえ。屋敷の庭にもあります」
「なら、毎日見ているだろう」
「同じ花でも、咲いている場所が違えば少し違って見えます」
「そんなものか」
「そんなものです」
アグネスが先へ進み、俺もその隣を歩く。侍女と護衛は、修理中の馬車の様子を気にしながら、俺たちから少し離れて後ろを歩いていた。
川沿いの花へ目を向けながら歩くアグネスを見て、念のため声を掛ける。
「近づきすぎるなよ」
「分かっております」
「本当に?」
「子供ではありませんから」
「それならいいが」
言った直後、アグネスの足元で土が崩れた。
「……っ!」
身体が傾く。
「アグネス!」
反射的に腕を伸ばした。
俺も斜面の縁へ膝をつき、滑り落ちかけたアグネスの右腕を掴んだ。
「ルーファス……!」
アグネスは斜面の途中で止まっていた。靴の先は土についているが、踏み込もうとするたびに柔らかな土が崩れ、身体が少しずつ下へ滑っていく。
空いた手で草を掴もうとするものの、細い草は根元から抜け、土と一緒に斜面を転がっていった。その先では、昨日までの雨で水量を増した川が速く流れている。
「動くな」
「はい……」
「そのままでいろ」
腕に力を込め、引き上げようとした。
手を離せば、アグネスはそのまま川へ滑り落ちる。
流れは速い。身体の弱い彼女が落ちれば、助からないかもしれない。
事故になる。
足を滑らせた妻を助けようとして、間に合わなかった。侍女も護衛も見ている。俺が腕を掴み、助けようとしたことも見ているのだから、誰も疑わないだろう。
力を入れる必要はない。
むしろ、抜けばいい。
指先からわずかに力を抜くと、掴んでいた腕がほんの少し掌の中を滑り、アグネスの身体が下がった。
「……っ」
小さく息を呑む音がする。
アグネスは斜面へ顔を向けたまま、空いた手で必死に土を掴んでいた。
あと少し、この手を開けばいい。
それだけで終わる。
俺は――。
腕に力を込めた。
強く掴み直して身体を後ろへ引き、アグネスが斜面を上がってきたところでもう片方の手を伸ばす。腰を抱え、そのまま後ろへ倒れるようにして岸の上まで引き上げた。
「旦那様!」
「奥様!」
侍女と護衛が駆け寄ってくる。
その声が聞こえているのに、すぐには身体を起こせなかった。
腕の中にいるアグネスは俺の胸元へ身体を預け、荒い呼吸を繰り返している。
「何をしている!」
思ったより大きな声が出た。
アグネスの肩がわずかに揺れる。
「申し訳……ありません」
「足元くらい見ろ。落ちていたら――」
そこまで言って、言葉が止まった。
落ちていたらどうなっていたかなど、誰より分かっている。
ほんの少し前、俺はそうなることを選びかけた。
「……すみません」
アグネスがもう一度謝る。
「怪我は?」
「ないと思います」
「本当に?」
「はい」
まだ息を整えながら、自分の手足を確かめる。それからアグネスは俺を見上げた。
「ルーファス」
「何だ」
「ありがとうございます」
静かな声だった。
助けてもらった妻が、夫へ礼を告げる。ただそれだけの言葉だった。
「……ああ」
短く答え、それ以上は何も言えなかった。
礼を言われるようなことなど、していない。
ほんの一瞬とはいえ、俺はこの手を離そうとしたのだから。
◇
屋敷へ戻ると、予定より早く帰宅していたロデリックが玄関まで出てきた。
「アグネス!」
「お父様」
馬車から降りた娘の姿を見て、ロデリックが駆け寄る。
「怪我をしたと聞いたが」
「怪我はしておりません。少し土で汚れただけです」
「川へ落ちかけたんだろう?」
「落ちてはおりません」
「同じようなものだ」
ロデリックは娘の顔や手を確かめ、それから俺を見る。
「ルーファスが助けてくれたそうだな」
「ええ」
「そうか……」
安堵したように息を吐く。
「本当にありがとう」
「俺は何も」
「何もじゃない。君がいなければ、どうなっていたか」
言葉に詰まった俺に、ロデリックはもう一度告げた。
「娘を救ってくれて、ありがとう」
「……夫として当然のことをしただけです」
「そうだとしてもだ」
ロデリックは俺の肩へ手を置く。
「君が一緒にいてくれてよかった」
俺は何も答えなかった。
アグネスが死ねば、この男は苦しむ。
それを望んでいることは、今も変わらない。
ただ、今日はそのときではなかった。
◇
夕食を終えたあと、アグネスの部屋へ向かった。
今日は夜を共にするためではなく、昼間のことがあったため、様子を見るだけだ。
扉を開けると、アグネスは寝台の上で本を読んでいた。
「具合は?」
本から顔を上げる。
「大丈夫です」
「本当に?」
「ええ。少し驚いただけです」
「手を見せろ」
「手?」
「掴んだところ」
アグネスは右腕を差し出し、袖を少し上げた。
手首から前腕にかけて赤い跡が残っている。俺がつけたものだ。
「痛むか」
「少しだけです」
「……強く掴みすぎた」
「あの状況でしたから」
「明日も残っていたら、医師に診せろ」
「これくらいで?」
「診せろ」
「分かりました」
素直に頷くのを見てから、袖を元に戻す。
「今日はもう寝ろ」
「はい」
立ち上がろうとすると、アグネスが俺を呼び止めた。
「ルーファス」
「何だ?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「もう聞いた」
「それでも、もう一度お伝えしておきたかったので」
「そうか」
「はい」
アグネスは少し間を置いた。
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
部屋を出て内扉を閉め、自室へ戻った。
机の上には、昼間に読むつもりだった書類が残っている。椅子へ座って一枚目を開き、文字を追っていたが、途中で右手が止まった。
手を離せばよかった。
あのまま指の力を抜くだけで、事故に見せかけることができた。誰にも疑われなかっただろう。
それでも、俺は引き上げた。
理由なら分かっている。
まだ証拠が揃っておらず、今アグネスを失えばロデリックのそばに残れる保証もない。だから助けた。
それだけだ。
俺は再び書類へ目を落とした。
けれど、先ほど読んだはずの一行が頭に入っていない。もう一度最初から読み直してみても、やはり同じところで目が止まった。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
右手を握りしめる。
掌には何も残っていない。それでも、アグネスの細い腕を掴んだ感触だけが、いつまでも消えなかった。




