03.祈る理由が、俺には分からない
アグネスと結婚して、半年が過ぎた。
良い夫でいることにも、すっかり慣れた。
「今日はどうだ?」
「昨日よりは楽です」
「熱は?」
「ありません」
「なら、朝食は下で取れそうか」
「ええ。そのつもりです」
朝、顔を合わせれば体調を尋ねる。食事はできるだけ一緒に取り、天気がよく、アグネスの調子もよければ庭を歩く。寝込んだ日には部屋を訪ね、必要なものはないかと聞くようにもなった。
王都へ出た折には、外出する機会の少ないアグネスのために本や菓子を買って帰ることもある。
半年も一緒に暮らしていれば、何をすれば喜ぶのかも分かってくる。
華美な装飾品にはそれほど興味を示さない。珍しい本を渡したときのほうが長く眺めているし、菓子なら甘すぎないものを好む。
体調についても同じだった。顔色だけでは分からないこともあるが、言葉数が少なくなれば疲れていることが多い。指先が冷たい日は調子が悪く、咳が続いた翌日は、本人が平気だと言っても予定を入れないほうがいい。
半年も見ていれば、そのくらいは覚える。
そうしてアグネスの夫として過ごす一方で、ヴァレンフォード家の仕事にも関わるようになった。
最初は領内の警備に関することだけだったが、今では街道の整備や領内の村々から上がってくる報告にも目を通している。ロデリックから意見を求められることも増えた。
だが、まだ足りない。
俺が探しているものは、見つかっていなかった。
◇
その日の夜、アグネスの部屋へ入ると、本人の姿がなかった。
「奥様でしたら、ただいま湯浴みをなさっております」
部屋を整えていた侍女が言った。
「そうか」
「もうお戻りになると思いますが」
「ここで待つ」
「かしこまりました」
侍女が一礼して出ていく。
静かになった部屋を見回した。半年も経てば、ここへ入ることにも何の違和感もなくなっている。
寝台の脇には鏡台があり、窓際には長椅子が置かれている。小さな卓には、読みかけの本が伏せられていた。
その傍らには、今夜の分として用意された小さな薬入れがある。毎晩、侍女が必要な量だけを取り分けて持ってくるものだ。アグネスの身体に合わせて調合され、王都から定期的に届けられている。
俺は近づいて、それを手に取った。
瓶を軽く傾けると、中の細かく挽かれた薬がさらりと動いた。
これに何かを混ぜたら。
そんな考えが浮かんだ。
病弱な女だ。幼い頃から何度も寝込み、今でも医師が定期的に訪れている。ある朝、目を覚まさなかったとしても、最初から誰かに殺されたと疑う者がどれだけいるだろう。
毎日口にする薬なら、利用することもできるだろう。
俺が疑われずに済めば、ロデリックは最愛の娘を失う。あの男がどんな顔をするのか、想像することは難しくなかった。
指先で瓶の口に触れる。
だが、まだ早い。
ロデリックは俺を信用し始めているものの、任されている仕事は限られている。重要な契約や過去の帳簿には、まだ自由に触れられない。
ここでアグネスが死ねば、状況が変わる。娘を失ったロデリックが、その後も俺をこの家に留めておく保証はない。
ようやくここまで来たのだ。急ぐ理由はなかった。
「ルーファス様?」
背後から声がして、振り返った。
アグネスが立っていた。湯浴みを終えたばかりなのだろう。淡い金髪はまだ少し湿っていて、肩から白い布を掛けている。
その視線が、俺の手元へ落ちた。
「私のお薬を?」
「ああ」
「どうかなさいましたか?」
「毎日飲んでいるから、少し気になっただけだ」
「そうでしたか」
アグネスが近づいてくる。
「苦いですよ」
「飲むつもりはない」
「でしたら、よかったです」
冗談を言ったつもりでもないらしい。
俺は薬瓶を差し出した。受け取るとき、アグネスの視線が俺の指先へ落ちる。
ほんの一瞬だった。
「何だ?」
「いいえ」
アグネスは薬瓶を卓へ戻した。
「お待たせして申し訳ありません」
「俺が勝手に待っていただけだ」
それ以上、薬について尋ねられることはなかった。
ほどなくして侍女が戻り、アグネスの髪を乾かし始める。俺は長椅子へ腰掛け、卓上に置かれていた本を手に取った。
「この前渡したものか」
「ええ。昨日から読み始めました」
「面白い?」
「まだ途中ですが」
アグネスが鏡越しにこちらを見る。
「主人公が少しルーファス様に似ています」
「俺に?」
「はい」
「どこが」
「何を考えているのか、よく分からないところが」
思いがけないことを言われ、本から顔を上げた。鏡の中で目が合う。
アグネスはいつもの穏やかな顔をしていた。からかっているようには見えない。
「そんなに分かりにくいか?」
「時々」
「半年も一緒にいるのに?」
「半年しか、ではありませんか?」
そう言われれば、確かに長いとは言えないのかもしれない。俺は半年もあれば相手のことなどそれなりに分かると思っていたが、アグネスにとっては違うらしい。
「私はまだ、ルーファス様について知らないことがたくさんありますから」
当然だ。俺は、見せても構わないものしかアグネスには見せていない。
それにしても、夫婦になって半年も経つのに、呼び方だけは婚約中から変わっていない。
「その呼び方、そろそろやめないか」
「呼び方、ですか?」
「ああ。ルーファス様、というのは」
アグネスが少し目を瞬く。
「お嫌でしたか?」
「そういうわけじゃない。ただ、もう半年も夫婦でいるのに、いつまでも様をつける必要もないだろう」
婚約中ならともかく、今は夫婦だ。二人でいるときまで以前と同じ呼び方を続ける必要はない。
アグネスはしばらく考えてから、鏡越しに俺を見た。
「では、何とお呼びすれば?」
「ルーファスでいい」
「……呼び捨てにするのですか?」
「夫を名前で呼ぶのは、そんなにおかしいことでもないだろう」
「そうですが、今までずっとルーファス様とお呼びしていましたから」
戸惑っているだけで、嫌がっているわけではなさそうだった。
「無理にとは言わない」
「いいえ。そうではありません」
アグネスは少し迷ったあと、こちらを振り返った。
「……ルーファス」
半年の間、何度も呼ばれてきた名前だった。それなのに、様が一つなくなっただけで、思っていたよりも違って聞こえた。
「ああ」
「少し不思議ですね」
「そのうち慣れるだろう」
「ルーファスも、まだ慣れませんか?」
今度は先ほどより自然に呼ばれた。
「……たぶんな」
アグネスの目元がわずかに和らいだ。
「では、これからはそうお呼びします」
ちょうどそのとき、髪を整え終えた侍女が一礼して部屋を下がっていった。
アグネスは立ち上がると、卓の上の薬瓶を手にした。杯へ水を注ぎ、いつもの薬を飲む。
その様子を、俺は黙って見ていた。
少し前まで、その薬を利用してアグネスを殺す方法を考えていた。
薬を飲み込んだアグネスが杯を置き、こちらを見る。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
「そうですか」
やはり、それ以上は聞かなかった。
俺が寝台へ腰掛けると、アグネスは燭台の火を一つだけ残して消していった。
今夜ここで過ごすことについて、どちらから確認することもない。半年の間に、そういう夜も珍しいものではなくなっていた。
◇
夜も深くなった頃、隣でアグネスが小さく身じろぎした。
枕の上には、ほどけた淡い金髪が広がっている。白い肩が夜着から少し覗いていた。
夫婦になって半年。婚礼の夜こそ何もなかったが、その後もずっと別々に眠っていたわけではない。アグネスの体調を見ながら、夜を共にすることもある。
初めて夜を共にしたときから、無理をさせるつもりはなかった。体調を崩させては困るし、夫婦として暮らす以上、いつまでも触れないままでいるほうが不自然だった。
それだけのことだ。
少し前まで殺す方法を考えていた女が、今はすぐ隣で眠っている。
手を伸ばせば届く距離にいて、俺を夫として受け入れ、無防備に目を閉じている。
妙なものだと思う。
アグネスが小さく息を吐いた。
俺は掛け布を引き上げ、露わになっていた肩まで掛ける。冷えて体調を崩されても面倒だ。
それから背を向け、目を閉じた。
◇
翌朝、目を覚ますと、隣にアグネスはいなかった。
身体を起こすと、窓辺に人影が見えた。朝の淡い光の中、アグネスが両手を組んでいる。
祈っていた。
婚約中から何度も見てきた姿だ。アグネスは朝と夜に祈り、食事の前にも祈る。体調がよければ教会へ足を運び、行けない日には屋敷の礼拝室で過ごすこともあった。
「毎日、よく続くな」
声を掛けると、アグネスが振り返った。
「おはようございます、ルーファス」
「おはよう」
「起こしてしまいましたか?」
「いや」
昨夜から変わった呼び方が、朝になっても少しだけ耳に馴染まない。
アグネスはもう一度窓のほうへ向き、短く祈りを終えた。
「祈ることに、飽きるということはありませんから」
「そういうものか?」
「少なくとも、私にとっては」
「神が聞いているとも限らないのに?」
アグネスがこちらを見た。
「聞いていただくためだけに、祈るわけではありません」
「なら、何のために祈る」
少し考えてから、アグネスは答えた。
「感謝するためでもありますし、心を整えるためでもあります。それから、大切な方の無事を願うためにも」
「願ったところで、叶うとは限らない」
「ええ」
あっさりと認められ、少し意外に思った。
「それでも祈るのか」
「はい」
「理解できないな」
「そうかもしれません」
アグネスは気を悪くした様子もなく、窓の外へ目を向けた。
「叶わないことがあるからこそ、祈りたいのかもしれません」
「叶わないと分かっていて?」
「分かっているわけではありません。けれど、願ったことがすべて叶うとも思っておりませんから」
しばらく庭を眺めてから、アグネスが続ける。
「私自身、いつまで生きられるかは分かりませんし」
思わず眉を寄せた。
「縁起でもないことを言うな」
「申し訳ありません」
「医師から何か言われたのか?」
「いいえ」
アグネスは首を横に振った。
「幼い頃から何度も寝込んできましたから、一度も考えたことがないと言えば嘘になります」
淡々とした声だった。死を怖がっているというより、昔から身近にあったものについて話しているようだった。
「怖くないのか」
「怖くないと言えば、嘘になります」
アグネスは少し考えるように目を伏せた。
「ですが、以前は、いつかそうなっても仕方がないと思っていました」
「今は違うのか?」
「……少し」
アグネスがこちらを見る。
「今は、もう少し生きていたいと思っています」
「どうして」
聞くと、アグネスはすぐには答えなかった。窓から差し込む朝の光が、ほどかれた髪を淡く照らしている。
「結婚しましたから」
「結婚?」
「ええ。まだ半年しか経っておりませんので」
アグネスはわずかに目を伏せ、それから静かに続けた。
「もう少し、妻でいてみたいと思っています」
返す言葉が見つからなかった。
アグネスがこちらを見る。
「おかしいでしょうか」
「いや」
「よかったです」
ほんの少しだけ目元が和らいだ。
大げさに幸せそうな顔をするわけでもない。ただ、この半年の暮らしを悪くは思っていないことだけは分かった。
それは俺にとって都合のいいことのはずだった。
アグネスが俺との婚姻に満足していればいるほど、ロデリックも俺を信用する。そうなるように振る舞ってきたのだから、望んでいたとおりになっているだけだ。
「ルーファス」
呼ばれて顔を上げると、アグネスは少し迷うように間を置いた。
「もし私が先に死んだら、ルーファスはどうなさるのでしょう」
昨夜手にした薬瓶が、脳裏に浮かんだ。
「……どうするとは?」
「この家に残られるのか。それとも、出ていかれるのか」
俺はアグネスを見る。深い青の瞳は穏やかなままだ。
「ずいぶん先のことを考えるんだな」
「考える時間はたくさんありますから」
「君は死なない」
考えるより先に、口から出た。
アグネスが目を瞬く。
「少なくとも、今からそんなことを考える必要はない」
「そうでしょうか」
「薬も飲んでいる。医師にも診てもらっているだろう」
「ええ」
「なら、今は自分が死んだあとのことなんて考えなくていい」
アグネスはしばらく俺を見ていた。
また、あの目だ。
何かを確かめるような眼差し。
「……分かりました」
やがて小さく頷いた。
「では、もう少し長く妻でいられるようにいたします」
「そうしてくれ」
「はい」
アグネスは窓から離れ、朝食へ行く支度をするために呼び鈴へ手を伸ばした。
「ルーファスは、神を信じていらっしゃらないのですね」
「そう見えるか?」
「はい」
「なら、そのとおりだ」
「なぜ、と伺っても?」
「信じる理由がない」
それだけ答えた。
アグネスはしばらく俺を見ていたが、それ以上尋ねてくることはなかった。
「聞かないのか」
「何をでしょう」
「理由を」
「お話しになりたくないのでしょう?」
「……ああ」
「でしたら、聞きません」
アグネスは呼び鈴を鳴らした。
「いつかお話しになりたくなったら、聞かせてください」
「そんな日は来ないかもしれない」
「それなら、それでも構いません」
ほどなくして、廊下から侍女の足音が近づいてきた。
アグネスはいつもと変わらない様子で鏡台へ向かう。俺は寝台の端に座ったまま、その背中を見ていた。
――もう少し、妻でいてみたいと思っています。
先ほどの言葉が、妙に耳に残っている。
この半年、俺はアグネスがこの結婚を悪く思わないように振る舞ってきた。ロデリックに、娘を任せてよかったと思わせるために。
だから、これでいい。
アグネスがもう少し妻でいたいと思うほど、この暮らしを気に入っているのなら、俺の望んだとおりだった。
侍女が部屋へ入ってきたため、俺も立ち上がる。
「朝食で」
「はい」
いつもと変わらない言葉を交わし、内扉を閉めた。
あとで食堂へ行けば、またアグネスと同じ食卓につく。朝の体調を聞き、食事をして、その日の予定を話す。
半年前には意識してやっていたことが、いつの間にか当たり前になっていた。




