02.いくらでも幸せにしてやろう
結婚して、一か月が過ぎた。
朝からよく晴れていた。窓から差し込む日差しは暖かく、風もほとんどない。庭へ目を向ければ、春の花が咲き始めている。
朝食を終えたあと、向かいの席に座るアグネスを見る。今日は顔色が悪くない。
結婚してから分かったことだが、彼女の体調には日によってかなり差がある。朝から起き上がれない日もあれば、昼過ぎまで庭や居間で過ごせる日もある。無理をすると翌日に響くため、予定を詰め込むこともできない。
面倒な身体だとは思うが、把握しておかなければならないことでもあった。
「アグネス」
「はい」
食後の祈りを終えたアグネスが顔を上げる。
「今日は体調がよさそうだな」
「ええ。今朝はずいぶん楽です」
「それなら、少し庭を歩かないか」
アグネスの目がわずかに見開かれた。
「庭を、ですか?」
「ああ。天気もいい」
「ルーファス様は、今日はお忙しくないのですか?」
「昼までは時間がある」
嘘ではない。昼からはロデリックと領内の警備について話すことになっている。
結婚を機に騎士を辞めてから、俺は少しずつヴァレンフォード家の仕事に関わり始めていた。まだ任されているのは領内の警備や騎士、兵に関することがほとんどだが、騎士として働いていた俺なら意見を出しやすいと、ロデリックのほうから話を持ちかけてきた。
こちらとしても都合がいい。
「でしたら、ご一緒してもよろしいですか」
「もちろん」
いつもと変わらない静かな声だったが、返事は少しだけ早かった。
その様子を見て、結婚式の日にロデリックから聞いた話を思い出す。
――体調のいい日に、一緒に庭を歩けたらいい。
本当だったらしい。
これくらいのことで喜ぶのなら、都合がいい。
◇
庭へ出ると、柔らかな風が吹いていた。アグネスの淡い金髪が風に揺れ、日の光を受けた髪はところどころ銀色にも見える。
俺はその半歩前を歩きながら、普段よりも歩調を落としていた。
婚約中にも何度か一緒に歩いたことがある。そのたびに彼女に合わせていたから、今ではどの程度の速さなら無理なくついてこられるかも分かっている。
「ルーファス様」
「何だ?」
「私に合わせてくださっていますか?」
「どうして?」
「いつもより、ゆっくり歩いていらっしゃるので」
気づいていたらしい。
「置いていくわけにはいかないだろう」
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃない」
そう答えると、アグネスはそれ以上何も言わず、俺の隣を歩き続けた。
細い石畳の道の両脇には季節の花が植えられ、少し離れたところには生垣で囲まれた一角もある。アグネスは時折足を止め、咲き始めた花を眺めていた。
「好きな花でも?」
良い夫なら、そのくらい尋ねるだろう。
「特にこれが、というものはありません」
「そうなのか」
「季節ごとに違う花が咲くのを見るのが好きなのです」
アグネスは足元に咲く花へ目を落とした。
「寝込んでいる間に、庭の景色が変わっていることもありますから」
そう話すアグネスに、残念がっている様子はなかった。長く寝込むことも、彼女にとっては珍しいことではないのだろう。
「それなら、今日は出られてよかったな」
「はい」
アグネスがこちらを見上げた。
「お誘いいただけて、嬉しかったです」
大げさに喜ぶわけでもなく、声もいつもと変わらず静かだった。ただ、深い青の瞳が普段より少し柔らかく見える。
「それなら、また来ればいい」
「……ええ」
一度目を伏せてから、アグネスは前を向いた。
その横顔を見ながら俺も歩き出す。
これでいい。
彼女が俺との暮らしに満足しているほど、都合がいいのだから。
しばらく歩いていると、アグネスの足取りが少しずつ遅くなってきた。呼吸も先ほどより浅くなっている。
「休もう」
近くの長椅子を示すと、アグネスは首を横に振った。
「まだ大丈夫です」
「大丈夫かどうかは聞いていない。疲れただろう」
アグネスは俺を見たあと、少し黙ってから諦めたように頷いた。
「……少しだけ」
「なら休め」
長椅子まで歩き、アグネスが腰を下ろす。俺もその隣へ座った。
「ルーファス様は、よくお気づきになりますね」
「そうか?」
「父も侍女たちも気づいてくれますが、長く一緒におりますから」
アグネスは膝の上で手を重ねながら、こちらへ顔を向けた。
「ルーファス様とは、まだ一年もご一緒しておりませんのに」
半年の婚約期間と、一か月の結婚生活。それだけだ。
だが、その間ずっと俺は彼女を観察していた。
何を好み、何を嫌うのか。どの程度動けば疲れ、どんなときに無理をするのか。どうすれば安心し、俺を好ましい婚約者だと思うのか。
知らなければ演じられない。
「夫だからな」
そう答えると、アグネスはしばらく俺を見つめていた。
また、この目だ。
婚約中から時折向けられる、俺の言葉を静かに確かめるような眼差し。
「何だ?」
「いいえ」
アグネスは首を横に振り、庭へ目を戻した。
何を考えているのかは分からない。こちらから尋ねるほどのことでもないだろう。
しばらく二人で庭を眺めていると、今度はアグネスのほうから口を開いた。
「ルーファス様」
「今度は何だ?」
「こちらでの暮らしには、もう慣れましたか?」
予想していなかった問いだった。
「だいぶな」
「ご不便はありませんか」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
アグネスは少し考えてから、言葉を続けた。
「私との結婚で、ルーファス様はそれまでのお暮らしをずいぶん変えることになったでしょう」
「そうでもない」
「騎士のお仕事まで辞められたではありませんか」
「自分で決めたことだ」
「それでも、私との婚姻がなければ、もう少し続けていらしたでしょう?」
俺は返事をしなかった。
アグネスの言うとおりだった。騎士を辞めたのは、この家へ入るためだ。
それを惜しいと思ったことはない。
最初から、それ以上に欲しいものがここにあった。
「君が気にする必要はない」
「それは分かっております」
アグネスは膝の上に重ねた自分の手へ目を落とした。
「ただ、私はずっとこの屋敷で暮らしておりますから。結婚したからといって、私の生活はそれほど変わっておりません。ですが、ルーファス様は違います」
騎士を辞め、それまでの暮らしを離れ、ヴァレンフォード家へ入ってその名を名乗ることになった。
どれも俺が自分の目的のために選んだことだ。それをアグネスは、自分との結婚のために俺が手放したものだと思っているらしい。
「だから?」
「何か困ったことがあれば、私にもおっしゃってください」
「君に?」
「私にできることは、あまり多くありませんが」
そう言って、アグネスは一度自分の身体へ視線を落とした。
「それでも、夫婦になったのですから」
夫婦、という言葉が妙に耳に残った。
俺はこの女の夫になった。
誰かに強いられたわけでもない。自分から望み、そのために何年も準備して、ようやくここまで来た。
「分かった。そのときは頼らせてもらう」
「はい」
アグネスも静かに頷いた。
何も知らない女だ。
俺が騎士を辞めてまでこの家へ入った理由も、自分が何のために選ばれたのかも知らないから、こんなことが言える。
「そろそろ戻ろう」
「ええ」
俺が立ち上がって手を差し出すと、アグネスは一瞬その手を見たあと、素直に重ねた。
触れた指は冷たい。細い身体を支えながら立たせると、アグネスが小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ああ」
立ち上がったのを確かめて手を離し、そのまま二人で屋敷へ戻った。
◇
昼食を終えたあと、ロデリックの執務室を訪れた。
重い扉の向こうには大きな机といくつもの書棚が並んでいる。婚約者だった頃には、ほとんど入ることのなかった部屋だ。
「来たか」
机に向かっていたロデリックが顔を上げる。
「座ってくれ」
向かいの椅子へ腰を下ろすと、何枚かの書類を渡された。
「領内の警備について、少し君の意見を聞きたくてね」
目を通すと、街道と主要な村、その周辺を巡回する人員についての記録だった。
「近頃、北側の街道で荷馬車を狙った盗賊が出ている」
「騎士を増やすおつもりですか?」
「それも考えている。だが、どこへ配置するべきか迷っていてね」
俺は資料をめくりながら、添えられていた地図にも目を通した。騎士団にいた頃なら、この程度のことは何度も考えている。
「巡回する人数を増やすより、経路を変えたほうがいいでしょう」
「というと?」
「今の経路では――」
地図を広げ、いくつかの場所を示しながら説明する。ロデリックは途中で口を挟むことなく聞いていた。
「なるほど」
一通り話し終えると、感心したように頷いた。
「やはり君に聞いて正解だった」
「お役に立てたなら何よりです」
「騎士を辞めさせてしまったことは、今でも少し申し訳なく思っているんだ」
「あなたが辞めさせたわけではありません。俺が決めたことです」
「そう言ってくれると助かるよ」
ロデリックは苦笑しながら、先ほどの資料へ目を落とした。
「だが、君が培ってきたものを、この家でも生かしてもらえたらと思っている。これからも、こういうことは相談させてもらっていいか?」
「もちろんです」
一か月前には、この部屋へ入ることさえほとんどなかった。それが今は、ロデリック本人から家の仕事に関する資料を渡され、意見まで求められている。
まだ警備に関することだけだが、それで構わない。こうして関わる仕事が増えていけば、いずれ見えるものも増えていく。
少しずつでいい。
「そういえば」
ロデリックの声に、顔を上げる。
「今朝、アグネスと庭を歩いたそうだな」
「ええ」
「あの子が話してくれたよ。ずいぶん喜んでいた」
娘の話をするロデリックの声は、先ほど仕事について話していたときよりも柔らかい。
「それならよかったです」
「ありがとう」
「なぜあなたが礼を?」
「父親だからだよ」
ロデリックは当然のことを言うように答えた。
「結婚しても、あの子が楽しそうにしていると嬉しいものだ」
「そういうものですか」
「父親というのは、そういうものだよ」
朝のアグネスを思い出す。
ただ庭を歩いただけだ。それだけのことで娘は喜び、父親は俺に礼を言う。
「これからも、体調のいい日には付き合ってやってくれ」
「もちろんです」
「君が夫でよかった」
心の底からそう思っているらしい。
「そう言っていただけて光栄です」
俺も笑みを返した。
そのあとも仕事の話を続け、執務室を出る頃には何枚かの資料を預けられていた。自室で確認し、気づいたことがあれば教えてほしいという。
たった一か月だ。
それでも、少しずつこの家の仕事に関わるようになっている。
予定どおりだった。
◇
夜も遅くなり、俺は自室でロデリックから預かった資料を読んでいた。
領内の警備費や騎士、兵士の人数、街道の地図。今探しているものとは関係がないが、それでも構わない。こうして関わる仕事を増やしていけばいい。
紙を一枚めくったところで、内扉を叩く音がした。
「ルーファス様」
アグネスの声だった。
「どうぞ」
扉が開き、夜着の上から薄い羽織をまとったアグネスが姿を見せた。
「どうした?」
「まだ灯りが見えましたので」
「何か用か?」
「少しだけ」
部屋へ入ってきたアグネスは、机の上に広げた書類を見て足を止めた。
「お仕事中でしたか」
「ああ。だが、構わない」
「でしたら、すぐに戻ります」
「だから、構わないと言っている」
そう言うと、アグネスは少し迷ったあと、その場に留まった。
「今朝のことなのですが」
「庭?」
「はい」
アグネスは静かに俺を見る。
「ありがとうございました」
「それを言うために来たのか?」
「ええ」
「わざわざ?」
「きちんとお伝えしておきたかったので」
俺には分からなかった。
庭を歩いただけだ。それも、結婚式の日に彼女が望んでいると聞いていたから誘ったにすぎない。
「楽しかったです」
アグネスはそう言って、わずかに目元を和らげた。
「結婚してから、ルーファス様もお忙しそうでしたから。二人でゆっくりお話しするのは初めてでしたし」
確かにそうかもしれない。
食事は一緒に取っている。それでも、二人だけで何をするでもなく過ごしたのは初めてだった。
「また体調のいい日に歩こう」
「はい。楽しみにしております」
「ああ」
それだけで満足したらしく、アグネスは小さく頭を下げた。
「それでは、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
アグネスが部屋を出ていき、内扉が静かに閉じた。
俺はしばらくそこを見ていたが、やがて机の上の書類へ視線を戻した。
今日、ロデリックから家の仕事について意見を求められた。まだ警備に関することだけだが、こうして少しずつ任されることが増えていけばいい。
そして、娘が庭を歩いたことを喜んでいたと聞かされ、礼まで言われた。
アグネスを大切にすることが、あの男の信用につながる。
それなら、簡単なことだった。
アグネスが庭を歩きたいのなら、何度でも付き合えばいい。食事を共にしたいのなら、毎日でも向かいに座る。体調を崩せば心配し、望むことがあれば叶えてやる。
誰が見ても、良い夫でいればいい。
アグネス自身が、俺との結婚を喜ぶほどに。
ロデリックが、この男に娘を任せてよかったと安心するほどに。
そのほうが、最後に失ったときの苦しみも大きい。
ロデリックが娘の幸せを願うのなら、いくらでも幸せにしてやろう。
奪う、その日までは。
俺は机の上の書類を引き寄せた。
静かな夜の中、紙をめくる音だけが続いていた。




