01.すべてが終わる、その日までは
教会の鐘が鳴っていた。
高い天井へ響いた音がゆっくりと遠ざかっていく中、俺は祭壇の前に立っていた。
隣にいるのは、今日から妻となる女性だ。
アグネス・ヴァレンフォード。
銀色にも見える淡い金髪を結い上げ、その上から薄いヴェールを掛けている。もともと白い肌は今日はさらに血色が薄く、婚礼衣装に包まれた身体もほっそりとしていた。
けれど、伏せていた瞼が上がると、その儚げな印象は少し変わる。深い青の瞳は穏やかではあるものの、決して弱々しくはない。
婚約してから半年、何度か言葉を交わすうちに、その静かな眼差しの奥に意外なほど頑固なところがあることも分かっていた。
今もそうだ。長い式が負担になっているのだろう。
途中で一度休憩を挟んだにもかかわらず、先ほどから時折、呼吸を整えるように小さく息を吐いている。
「大丈夫か」
周囲に聞こえないよう声を落とすと、アグネスは何でもないことのように頷いた。
「はい」
「無理をするな」
「しておりません」
言い切ったあと、少し考えるような間が空く。
「……できるだけ」
「それは、多少は無理をしているという意味じゃないのか」
「式の途中で倒れるようなことはいたしません」
「そういう問題ではない」
できるだけ穏やかに言い聞かせる。
婚約して半年もあれば、彼女の「大丈夫」をそのまま信じてはいけないことくらいは分かるようになった。
祭壇の向こうに控えている侍女へ目をやれば、すぐに意図を察したらしく、小さく頷き返された。
「もう少しだ。具合が悪くなったら言ってくれ」
「分かりました」
今度は素直な返事が返ってくる。
ようやくここまで来たのだ。こんなところでアグネスに倒れられては困る。
やがて司祭が俺たちの前へ進み出ると、それまで静かに見守っていた参列者たちの間から、衣擦れの音さえ聞こえなくなった。
「ルーファス・ヘイル」
司祭の口から告げられた姓を聞きながら、これも今日で最後なのだと思う。
ヘイルは、長く使ってきた姓だった。明日から俺はヴァレンフォードを名乗る。そのためにここまで来たのだから、ためらう理由などないはずだった。
それでも、胸の奥には鈍いものが沈んでいる。
「あなたは、ここにいるアグネス・ヴァレンフォードを妻とし、健やかなるときも、病めるときも、ともに歩むことを誓いますか」
「誓います」
答えに迷うことはなかった。
何を誓うことになるのかは、ここへ来る前から分かっている。神の前で口にする言葉に意味があるとも思っていない。
司祭の視線が隣へ移る。
「アグネス・ヴァレンフォード。あなたは、ここにいるルーファス・ヘイルを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、ともに歩むことを誓いますか」
「はい。誓います」
隣から聞こえた声に揺らぎはなかったが、胸元で重ねられた手はほんのわずかに震えていた。
緊張しているのか、疲れているのか。その両方かもしれない。
俺が片手を差し出すと、アグネスは重ねていた手をほどき、不思議そうにこちらを見上げた。
「掴まっていてくれ」
「ですが――」
「無理をしないと約束しただろう」
少し迷った末、細い手が俺の腕に添えられる。
「ありがとうございます」
「気にしなくていい」
身体を預けやすいように腕をわずかに曲げると、アグネスもそれ以上は遠慮せず、俺を支えにした。
周囲には大勢の目がある。今日から俺は、病弱な妻を娶った夫なのだ。妻を気遣い、大切に扱う男だと、ロデリックにも、この家の使用人にも、そしてアグネス自身にも信じてもらわなければならない。
司祭の祈りが始まると、アグネスは静かに瞼を伏せた。祈りを捧げる横顔は、いつ見ても真剣だ。
彼女が敬虔な信徒であることは、婚約して間もない頃から知っている。食事の前には祈り、体調が許せば礼拝にも出る。神を信じることが、彼女にとっては当たり前のことらしい。
俺には理解できなかった。
祈ったところで、何になるというのだろう。
長い祈りが終わってアグネスが瞼を上げると、深い青の瞳と視線が重なった。ごくわずかに緩んだ口元へ、俺も同じように笑みを返す。
アグネスは俺との結婚を受け入れている。婚約を申し込んだとき、ロデリックからは何度も本人の意思を確認すると言われた。俺からも、望まない婚姻なら断って構わないと伝えている。
それでも彼女は、この縁談を受けた。
少なくとも今のところは、それを後悔させるわけにはいかない。
再び鐘の音が教会に響き渡る。
その音に見送られるようにして、俺たちは夫婦になった。
◇
婚礼の宴は、日が暮れるよりも早く終わった。
通常なら夜まで続くものだが、今日はアグネスの身体を考えて時間を短くしている。それでも本人が最後まで出席すると譲らなかったため、途中で一度席を外して休ませることになった。
最後の客を見送る頃にはさすがに疲れたらしく、アグネスは侍女に付き添われて先に部屋へ戻っていった。
その後を追う前にロデリック・ヴァレンフォードから声を掛けられ、そのまま応接間へ向かう。
部屋へ入るなり、ロデリックは自ら酒を二つの杯へ注いだ。
「今日はありがとう」
「礼を言われるようなことはしていません」
「アグネスのことだ。ずいぶん気を遣わせただろう」
「当然のことです」
返した言葉が気に入ったらしく、ロデリックの表情が満足そうに緩んだ。俺もそれに合わせて笑みを浮かべる。
「君に来てもらえて、本当によかった」
差し出された杯を受け取ると、ロデリックは自分の杯にも口をつけた。
「アグネスを他家へ嫁がせることだけは、どうしても考えられなくてね」
「存じています」
「あの子の身体では、環境が大きく変わるだけでも負担になる。私の目の届かないところで何かあったらと思うと、とても送り出せなかった」
そこまで言って、ロデリックは少しばかり困ったように笑った。
「過保護だと思うだろう?」
「いいえ。大切なお嬢様ですから、当然でしょう」
「今日からは君の妻でもある」
「ええ」
そんなことは、よく分かっている。
ロデリックが娘をどれほど大切にしているのか。何をすれば喜び、何をすれば不安を覚えるのか。それを知るために、俺は時間をかけてきた。
「君なら安心できる」
ロデリックはもう一口酒を飲んだ。
「若くして騎士として功績を立て、陛下から爵位まで賜った。何より、アグネスが君との結婚を望んだ」
最後の言葉だけが予想外で、思わず彼の顔を見る。
「そうなのですか」
「本人から聞いていなかったのか?」
「縁談を受けるとは聞きましたが」
「あの子はあまり感情を表に出さないからな。自分は結婚しないと思っていたらしい。身体のこともあるから、ずっとそのつもりでいたのだろう」
それは想像できた。社交の場へ出ることもほとんどなく、屋敷で過ごす時間の長い女だ。他家へ嫁ぐとなれば、今までと同じようには暮らせない。
「だが、君との婚約が決まってからは、少し楽しみにしていたようだよ」
「何をです?」
「大したことではない。体調のいい日に、一緒に庭を歩けたらいい、と」
すぐには言葉が出なかった。
庭を歩く。結婚したあとの楽しみとして父親へ話すほどのことが、それなのか。
「ささやかだろう?」
「ええ」
「だが、あの子にとってはそういう暮らしがいいらしい」
「でしたら、叶えてあげたいですね」
俺の返事に、ロデリックは嬉しそうに目を細めた。
アグネスが望むなら、庭くらいいくらでも歩けばいい。それで良い夫だと思ってもらえるのなら、難しいことではなかった。
しばらく穏やかな表情を浮かべていたロデリックだったが、やがて杯を置くと、まっすぐこちらへ目を向けた。
「ルーファス。アグネスを頼む。あの子は、私にとって何より大切な娘だ」
先ほどまでとは違う声音だった。
それも、よく知っている。だからこそ、俺はここにいる。
「ええ。大切にします」
安心したように頷くロデリックを前に、俺は穏やかな笑みを崩さなかった。
◇
アグネスの寝室へ入ると、ほのかな薬草の香りがした。
すでに婚礼衣装を脱いで白い夜着へ着替えており、結い上げられていた髪もほどかれている。銀色を帯びた淡い金髪が背中へ流れる姿は昼間よりも幼く見えたが、顔色は明らかに悪くなっていた。
「やはり疲れているじゃないか」
鏡台の前にいたアグネスが、声に気づいてこちらを向く。
「疲れてはおりますが、寝込むほどではありません」
「それなら最初からそう言ってくれ。心配する」
「式の最中にご心配をお掛けしたくありませんでしたので」
「倒れられるほうが心配だ」
口にしてから、自分でもよくできた言葉だと思った。
実際、倒れられては困る。ただし、その理由はアグネスが考えているものとは違うだろう。
「今後は気をつけます」
素直な返事が返ってきたところで、控えていた侍女が小卓に水差しとグラス、それから小さな薬入れを用意した。
アグネスは薬入れの蓋を開けると、中の薬を小さな匙ですくって口に含み、すぐに水で流し込んだ。その手つきには迷いがなく、毎日繰り返していることなのだと分かった。
あの薬は、王都でも限られた薬師しか作れないものだと聞いている。毎日欠かさず飲む必要があり、値も張るらしいが、ヴァレンフォード家にとっては何でもない金額なのだろう。
医師を呼び、薬を買い、少し疲れれば休ませる。父親が惜しみなく金を払い、屋敷中の人間が彼女の身体を気遣っている。
これだけ守られていれば、長く生きられるのかもしれない。ずいぶん大切にされている命だ。
「ルーファス様?」
いつの間にか、アグネスが飲み終えた薬入れを見つめていたらしい。呼びかけられて顔を上げると、アグネスが不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。何でもない」
何事もなかったように笑みを作り、寝台へ目をやる。
「今夜は休んだほうがいい」
「ですが――」
何かを言おうとしたアグネスだったが、途中で口を閉じた。
「婚礼の夜だからといって、君に無理をさせたいわけじゃない。今日は身体を休めるほうがいい」
すぐには返事がなかった。
深い青の瞳が、こちらを静かに見つめている。何かおかしなことを言っただろうかと思い始めた頃、ようやくアグネスが小さく頷いた。
「……分かりました」
「不満か?」
「いいえ。ただ、私の身体のことで、あなたにばかり気を遣わせることになるのではないかと思っただけです」
「それを承知で結婚したんだ。君が気にする必要はない」
「そうですか」
「ああ」
それでもアグネスの視線はしばらく俺から離れなかった。
婚約中にも、こんなふうに見つめられたことがある。俺の言葉の向こうに何かないか確かめようとするような、静かな眼差しだった。もっとも、彼女がその理由を尋ねてきたことはない。
やがて、その目元がわずかに和らいだ。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。当然のことだ」
「それでも、です」
少し間を置いてから、アグネスは改めて俺を見た。
「これから、よろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそ」
笑みを返すと、彼女も静かに微笑んだ。その表情には、ほんのわずかに安堵が見える。
この女なりに、今日から始まる暮らしを楽しみにしているのかもしれない。それなら、それでいい。俺を疑われるより、ずっと都合がいい。
夫婦の寝室はそれぞれ用意され、内扉で行き来できるようになっている。ただ、今夜は婚礼の夜ということで、俺がアグネスの部屋へ残ることになっていた。
やがて侍女たちが下がり、扉が閉じると、部屋は急に静かになった。
先に寝台へ入ったアグネスに続いて横になると、思っていた以上に互いの距離が近い。
夫婦なのだから当然なのだろうが、これまで触れるときにはいつも人目があったことを思えば、妙な感覚だった。
「おやすみなさいませ、ルーファス様」
「ああ。おやすみ」
余程疲れていたのだろう。しばらくすると、隣から聞こえてくる呼吸がゆっくりと規則正しいものに変わった。
俺は眠る気になれず、暗い天井を眺めたまま今日一日のことを思い返していた。
ようやく、ヴァレンフォード家の内側へ入った。もう俺は、この屋敷を訪れる客ではない。明日からはヴァレンフォードの名を名乗り、この家の人間として暮らしていく。
顔を横へ向けると、アグネスが静かに眠っていた。
窓から差し込む淡い月明かりを受け、枕に広がった髪が銀色に光っている。
今日一日だけでも、俺は何度この女に笑いかけただろう。
祭壇では腕を貸し、宴の最中も身体を気遣い、先ほどは父親に大切にすると約束した。それは今日だけで終わるものではない。
これからも夫として優しく接し、アグネスにもロデリックにも俺を信じてもらわなければならない。
そうしてこの家の人間として暮らしながら、これまで外からでは掴めなかったものを探る。そのために結婚したのだ。
分かっていたはずなのに、ヴァレンフォード家の一員として生きていく自分を思うと、胸の奥に冷たい不快感が広がっていった。
ロデリックも、この屋敷も、明日から自分が名乗るヴァレンフォードという名も嫌いだった。
そして、そのすべてに守られて生きてきたアグネスも。
隣でアグネスが小さく身じろぎし、寝返りを打った拍子に夜着の襟元がわずかにずれた。
月明かりの下に白い首筋が覗く。
そこへ目を留めたまま、俺はゆっくりと片手を伸ばした。
頬を撫でようとしたわけではない。あと少し伸ばせば、指が細い首に触れる。
眠っている今なら抵抗されることもないだろう。この手に力を込めるだけで、ロデリックが何より大切にしている命を奪える。
指先が肌に触れる寸前で、手を止めた。
まだ、そのときではない。
ようやくヴァレンフォード家へ入り込んだばかりなのだ。ここでアグネスを殺してしまえば、これまで費やした時間も、今日まで積み重ねてきたものも無駄になる。
必要なものをすべて手に入れるまでは、この女には生きていてもらわなければならない。
伸ばしていた手を握り込み、ゆっくりと引き戻す。
アグネスは何も気づいた様子もなく、穏やかな寝息を立てていた。
今日、神の前で夫婦になることを誓った男が、何のために自分へ近づいたのか。なぜヴァレンフォードの姓を欲しがったのか。これまで向けられてきた笑顔や気遣いの裏に何があるのか。
俺は何一つ話していない。
先ほどロデリックから聞いた言葉が、ふと頭に浮かんだ。
――体調のいい日に、一緒に庭を歩けたらいい。
アグネスが結婚生活に望んでいるのは、そんなささやかなことらしい。
庭くらい、いくらでも一緒に歩こう。身体が辛いなら休ませればいいし、大切な妻として扱うこともできる。
すべてが終わる、その日までは。
俺はもう一度アグネスの寝顔を見てから、静かに瞼を閉じた。
ここまで来るのに何年もかかったのだから、焦る必要はなかった。




