page8「愛流、出動」
起床し、真っ直ぐに洗面所へと向かった愛流は、歯磨きと洗顔を済ませ、化粧を始める。
別に誰に会うという予定があるわけでもない。ただこの化粧は、愛流にとってはスイッチのようなものだった。もしくは仮面と言い換えてもいい。
女好きで、飄々としている愛流。そのキャラを演じるための。
下地代わりの日焼け止めクリームを塗りながら、愛流は自嘲気味に笑った。
自由を愛しているだのなんだのと言いながら、何とも窮屈なことを自らやっているものだ。
男性用のフェイスカラークリームを手に取り、顔にまんべんなく塗っていく。派手に染め上げたピンクの髪は、自分でも見慣れない。配信動画で見た有名な男性タレントがこの髪色をしており、すごく印象に残ったから真似をしてみたいと思い、喫茶「私生活」に戻ってくる直前に美容院に寄って染めてもらったのだ。ちょっとした冒険のつもりだったが、自分には似合っていなかったようだ。
――いや、違うな。
アイブロウパウダーで眉を整えつつ、愛流は自分の腹がどっと重くなるのを感じた。
芸能人を真似したという理由だけで、髪色を大きく変えたのではない。自分の心を誤魔化したくて、だから無意識に目立つパステルピンクにしたのかもしれない。
昨日の記憶が蘇る。愛流に呆れたと言わんばかりの視線を投げかける茂と里奈。そして、店に突然現れた陽子の声。
本当に反射的だった。窓から陽子の姿が見えた瞬間、気付けばコーヒー豆が入った樽の陰に隠れていたのだ。おかげで昨日は風呂に入るまでずっと、髪にも服にもコーヒーの匂いが纏わりついていたような気がする。
別に陽子に会うのが嫌だというわけではない。むしろ会いたいという気持ちがある。しかし同時に、それを恐れる自分がいた。
愛流は自分でも女好きであることは自覚していた。可愛い女性がいれば息をするようにナンパもするし、交際関係もいくつか結んできた。
陽子だけなのだ。会いたいのに会うのが怖いと思う女の子は。
自分でも不思議な感情に戸惑った。他の女性と陽子と、一体何が違うというのだろう。
それがわからないからこそ、陽子と別れたこの四か月間、ずっと夢見市に帰ってくることを避け続けた。おかげで財布も電子マネーの中身もほぼ空だ。これでは自販機で飲み物を買うことすらままならない。だから資金稼ぎをするためにも、戻らざるを得なかった。
まさか戻ってきて早々、陽子に遭遇しかけるとは思いもしなかったが。
仕上げのパウダーを塗りながら、また愛流は大きくため息を吐いた。その時、外からけたたましいサイレン音が鳴り響く。
愛流は窓に駆け寄り、向かいの夢見警察署の様子を眺めた。パトカーが二台、三台と赤いランプを光らせながら道路に出てくる。
事件と金の匂いがした。それを感じとると共に、愛流は無意識のうちに口角を上げる。
自分の部屋に戻ってヘルメットを手に取ると、慌ただしく階段を降りた。一階の店舗スペースに入るなり茂にぶつかりそうになるが、愛流は軽やかなステップで避ける。
「おい、愛流!」
「悪い、親父。急ぐ」
本来、今日はアルバイト代わりに店を手伝う予定だった。しかし警察があれほど大きく動いている以上、何らかの事件があったと見ても良い。
店のアルバイト代と警察――というよりも、安田からの依頼料。どちらが金儲けになるかは、目に見えてわかる。
何より、この探偵の仕事を薦めてきたのは茂なのだ。文句を言われる筋合いはないはずだ。
背中から茂が呼び止める声が聞こえた気がした。しかし愛流は聞こえなかった振りをして店を出て、隣の駐車スペースへと向かう。バイクに被せていたカバーを外すと、ヘルメットを被り、エンジンをかけた。
パトカーを早く追いたいという気持ちはあるが、ここで事故を起こすのはスマートではない。愛流は周囲の安全を確認してから車道に出て、アクセルグリップを一気に回した。
先ほどまでモヤモヤしていた気持ちが、少しだけ紛れたような気がした。
(続)




