page5「大学生活」
「え! 今日って夜から雨なの?」
次の講義に向かうため廊下を歩いている時、陽子は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。それに対し、友人の佐々木葵はやや垂れがちな目を何度も瞬きしながら頷く。
「そうみたいだよ。それもゲリラ豪雨だって言うから、かなり激しく降るみたい」
その言葉を聞き、陽子は軽い立ち眩みを覚えた。
今日の講義は後二つある。それだけならばまだ間に合うかもしれないが、その後にはサークルの活動と立ち飲み屋のバイトもあるため、かなり怪しい。
陽子は現在、ミステリー研究会というサークルに所属していた。主には既存のミステリーの小説や映画、ドラマといった創作物について評論し、時には自分達でも小説を創作する――という活動を予定している。
このミステリー研究会は、陽子が提案して今年から立ち上げたものだ。前回の事件で愛流が調査し、推理を組み上げていく姿を目の当たりにし、自分も彼の隣に立つことを望むならそうしたスキルも少しは磨かなければいけないのではないだろうかと思い、提案したのだ。
現在のメンバーは三人。陽子の他には、前回の事件で知り合った荒井切櫂入と新谷芽衣の二人が所属している。
元々は美術部に所属していた櫂入達だったが、四か月前の事件を機に大学側から部を解散させられたことで、無所属となっていた。そこで陽子は自分の考えを伝え、一学年上の先輩である二人に協力を要請することで、何とかミステリー研究会の開設に成功することができたのだ。
サークルに顔を出すことは、今の陽子にとっては大学生活における楽しみの一つでもある。しかし夜の大雨のことを考えてしまうと、どうしても憂鬱になっていけなかった。
おまけに二か月前から喫茶「私生活」とはまた別に始めた立ち飲み屋のバイトも入っているのだ。もし予報が事実なら、帰りに大雨に遭うことは間違いないだろう。
「天気予報、お願いだから今日だけは外れて」
「ねぇ、私もそう思うよ。でもそういう時に限って、外れてくれないんだよねぇ」
葵が悪意のない笑顔で痛い所をついて来る。陽子は何も言うことができず、唸るしかなかった。
「よぉ、伊勢に佐々木」
声をかけられて、陽子と葵は振り返る。矢尾涼平が長い手を振りながらこちらに歩いて来ていた。金髪のショートヘアが、わずかに揺れる。陸上部に所属しているというのもあってか、黄色いアロハシャツの上からでもわかるぐらい筋肉が盛り上がっていた。
陽子と葵、そして矢尾の三人は、中学二年生の時のクラスメイトだった。休日に会うほど仲が良かったというわけではないのだが、たまたまこの大学で再会したということもあって、入学以降は頻繁に会話するようになった。
「何、これから講義?」
「そう。矢尾くんも?」
「いいや。俺はもう上がり。でも部活があるからそっちに行かなくちゃなって」
「でも今晩から雨みたいだよ」
「そうなんだよなぁ。でもうちの部活、雨天なんて関係なく走らなくちゃいけないし――時代に合ってなくねぇか?」
矢尾は口では不満を漏らしつつも、ヘラヘラと笑っていることから、言うほど嫌がってはいないことが伝わってくる。彼自身、本当に部活動が好きなのだろう。
矢尾は一度やると決めたらとことんのめり込むタイプだ。中学時代の体育祭でもリレーのアンカーになり、他の走者と圧倒的差をつけて一位に輝いた。それもあってクラスどころか同じ学校のあらゆる女子から黄色い声援が上がったことを、陽子は今でも覚えている。
しかしその矢尾も、あの事件をきっかけに何事にもやる気を出せない時期があった。
矢尾だけではない。葵も精神的ショックから家に引きこもり、陽子もまた、自分を責め続けて食事も手に付けられないような状況が続いた。陽子の知る限り、他のクラスメイトにも、何かしらの変化があったように思う。
陽子に軽い頭痛が走る。そして今朝見た夢が脳裏でフラッシュバックされた。
――なぜ、今になってそんなにも気になるの?
陽子はどうしても胸騒ぎを覚えずにはいられない。しかしそれをこの二人に悟られたくはない。だから陽子は、笑顔を浮かべ続けるしかなかった。
「あっ、そういえばこの前、黒子先生に会ったんだよ」
矢尾の言葉に、陽子はついに笑顔を崩して「え?」と口にした。隣に立つ葵もまた表情を強張らせる。
「一昨日、河川敷をジョギングしている時にバッタリ会ったんだ。たぶん先生、散歩中だったんだと思う。俺が通り過ぎようとした時、先に先生が気付いて声をかけてくれたんだけど――」
そこで矢尾は言葉を切った。というよりも、詰まらせたという表現の方が正しいのかもしれない。
矢尾は目を細めて俯き、悲し気な表情を見せていた。
「正直、先生だとは全く気付かなかった。声をかけられた後も。やつれてて、髪も真っ白になってさ――人って、ショックであそこまで変わっちまうんだなって現実を、まざまざと見せつけられたような気分だったよ」
陽子も葵も、何も言うことができなかった。
黒子は陽子達が中学二年生の時に担任だった教師だ。童顔でいつも柔和な笑みを浮かべており、クラスからも人気の高い先生だった。
しかし七月にあの事件が起きた時、黒子は学校に来なくなった。当時の副担任は体調を崩したと言っていたが、それがあの事件に起因していることは、陽子達にも想像がついた。
黒子が復職したのは、次の年の四月だった。九か月前と比べてかなり痩せてはいたが、その顔を見られただけでも、陽子達は満足だった。
しかしその二か月後、再び黒子は学校に来なくなった。今度は退職してしまったとのことだ。その事実に陽子は驚きを覚えると同時に、無理もないという気持ちがあった。
それほどあの事件はクラスに大きなダメージを与えたのだ。
矢尾が住んでいるのは陽子と同じ七女市だ。つまり自分もまた、黒子に会う可能性は十分にある。
久し振りに恩師に会いたいと思いつつも、再会を恐れる気持ちもあった。
(続)




