page43「傷」
安田は大きくため息を吐き、喫茶「私生活」のドアを開けた。いつも通勤途中で見かけるが、店の中に入るのは実に何年振りかと思う。
店の中には、茂と愛流、そして一人の女子大生の姿があった。今回の事件で、愛流の片腕として働いた、伊勢陽子だ。エプロンをし、お盆を持っている姿から、彼女がこの喫茶店でアルバイトをしていると言う話を思い出す。額にはガーゼが当てられ、あの事件の痛々しさを残していた。
愛流がカウンター席でレモンスカッシュを飲みながらくつろいでいる一方、茂はキッチンでノートに何かを書き込んでいた。おそらく以前話していた、愛流録だろう。
愛流は過去を振り返るのを嫌い、自分が関わった事件や終了した依頼の記録を取らなかった。そこで茂はそれに代わるものとして、愛流録と称した記録ノートを書くことにしたのだそうだ。単なる一時的な思いつきと安田は思っていたが、本格的に書いていくらしい。
黒子学が逮捕されてから、十日が経過した。九十九からの連絡があり、警察の応援部隊と救急車が現場に駆け付けた。
里奈と陽子、そして佐々木葵の三人は、直ちに病院へと搬送された。陽子と葵は燃える小屋の中から脱出したと言うことで直ちに体内に入った一酸化炭素を追い出す治療を施された。中毒症状も軽度で、昨日二人とも無事に退院したと報告を受けている。
しかし里奈の場合は、そうはいかなかった。
足につけられたトラバサミによって体組織だけでなく骨にまで損傷が見られ、かなりの重症を負っていた。幸いにも壊死や後遺症にまでは至らないそうだが、それでもすぐの職場復帰は難しく、現在はリハビルも兼ねて入院中だ。
入店を確認し、茂は書き込んでいたノートを閉じて陽子に安田のことを紹介した。こちらは資料などで知ってはいるが、陽子からすれば初めてなのだ。刑事課課長と言う肩書きを聞いて陽子は背筋を伸ばし、綺麗にお辞儀する。
「初めまして、あの、伊勢陽子って言います。今回は、色々とご迷惑をおかけしてしまって」
「いえいえ、むしろ迷惑をおかけしたのはこちらの方です。謝罪が遅くなってしまい、誠に申し訳ございません」
安田が深く頭を下げた。今言葉にしたのは建前などではなく、本心だった。
間接的にとは言え一般市民を事件に巻き込んでしまっただけではなく、一歩間違えれば死んでいたかもしれない事態にまで発展させてしまったのだ。愛流に協力をお願いする以上、覚悟していたつもりではあったが、それでも自分は本当にこれで良かったのだろうかと、疑問を覚えない日はない。
「天馬先輩、そして愛流君。あなた方にも申し訳ないことをしてしまいました。里奈さんに、ひどいケガを負わせてしまって」
「気にするな――と言うと嘘になるけど、僕は安田君のことは恨んでいないよ。里奈が警察官を志した時点でいつかはこうなる日が来るのだろうと思っていたし、命に別状がないだけまだマシさ」
口元に薄ら笑いを浮かべながら茂は言う。端から見ればあっけらかんとしているように感じられるかもしれない。しかしそうではなく、自分に言い聞かせているのだと、安田は長年の付き合いでわかっていた。
茂は自分の娘が大けがをして平然としていられるような冷血漢ではない。心の中では、どうして我が子がこんな目に、と思っていることだろう。しかし警察と言う立場を理解し、自分自身を納得させているのだ。
その気持ちを察し、安田はより一層胃が締めつけられるような思いになった。いっそのこと罵倒され、辞めさせるとまで言われた方が、楽であったかもしれない。
「んなことよりもさ、黒子はどうなんだよ。それなりに進展はしたんだよね?」
話に割って入るかのように愛流が声を上げた。空になったグラスを茂に返す。気のせいか、その声はやや苛立っているように聞こえる。
愛流もまた気にしているので、今は里奈の話題に触れたくないということなのだろう。
「黒子は警察監視の下で、現在は七女市内の病院で入院中だ。その中で彼は、素直に事情聴取を受けているよ。正通道との関係も認めたし、娘さんが虐められたと言う証拠も、その団体の教祖から提供されたと言うことだ。実際に、加藤舞優さんが沢良木達に校舎裏に呼び出されて腹を蹴られている写真まであった」
実際にはそれ以上に凄惨な現場写真も存在したのだが、陽子の顔をチラリと見ると口にするのも憚られた。自分の親友が傷つけられたという事実は、これ以上伝えるべきではないだろう。
ただ、一つ言えることがある。この写真を見て、黒子が正気を失って憎しみに取り憑かれたのは、無理もないことであった。中には無理矢理虫を食べさせられたり、男子中学生からレイプされているものまであったのだ。例え陽子がこの場にいなくても、口にすることもおぞましい。
「先生は、違和感を覚えなかったんでしょうか。舞優が虐められている証拠を提供されて、おかしいって思いそうですけれど」
顔を下に向けながら陽子が言った。その顔は沈痛そのもので、今回の事件でひどく打ちのめされていることがわかる。
「人間って言うのは、無意識の内に都合が良いように考えてしまうものなのさ。黒子という人は、娘さんが虐められたという事実以上の裏を探ることを、放棄してしまったんだ」
キッチンカウンターに手を突きながら茂が言った。表情に大きな変化はないが、その瞳には憂いを帯びているように安田には見える。
「で、その教祖様については、何かわかったことはあるのかよ? それとも教祖については庇って黙秘しているパターン?」
頬を手に乗せながら愛流は訊ねた。陽子を気遣って話題を変えたのは、安田にもわかる。ただあくまで事件の範疇を出ないのがいかにも愛流らしい。
今まで団体のホームページに顔写真どころか名前すら載せていなかった人物だ。もしも黒子が愛流の言うように黙秘したのなら手がかりはゼロに等しかったが、そこは素直に答えてくれた。
ただし、十分な成果とは言えなかった。
「名前は、教蓮天斗。だが、それ以上の情報は聞き出すことができなかった」
「それって、黒子が黙秘をしたって言うことか?」
「そうじゃない。教蓮は信者達の前に立つ時、鹿をモチーフにした仮面を被って現れるんだ。つまり顔がわからないって言う訳さ。この調子だと、名前の方も偽名である可能性が高い」
「けど、正通道がどこで集会を行っていたのかぐらいは聞き出せるだろ?」
「その線も、残念ながら諦めた方が良さそうだね。教蓮は信者の家一軒一軒を訪問して、それぞれの話を聞いたり、信仰を説いたりしていたんだ。時には複数の信者を一つの家に集めることもあるようだけれど、どこか決まった場所で信者全員が集まるということはなかったそうだ」
「つまり、元凶を捕まえるのは今の時点では無理って言う訳ね」
愛流が天井を仰ぎ見て、大きくため息を吐いた。陽子もまた、悔しそうに表情を歪ませている。
その気持ちは、安田としても同じだった。
黒子だけでなく、今回の事件の被害者遺族でもある吉田や大平にも事情聴取を行った。最初こそ渋ったものの、半ば脅すような口調を使うことで、聞き出すことができた。しかしその内容は黒子が語ったものと同じで、失望だけが残る結果となってしまった。そのことも安田は沈む気持ちを抱えたまま愛流達に報告する。
一人の人間を連続殺人犯に変えた人物だ。危険であることは間違いない。それゆえにこれ以上手出しができないことが歯がゆくて仕方がない。
ただ、吉田達に行った聞き込みが全くの無駄に終わったかと言われると、そうではなかった。むしろここからが、安田が最も話したかった部分ではある。
「実は吉田と大平に事情聴取をした時に、気になる話が出てきたんだ」
「気になる話、ですか?」
おぼんをキッチンカウンターに置き、陽子が訊ねてきた。安田は大きく頷いてから口を開く。
「娘達は、死んでも仕方がなかった。それ相応の過ちを犯したのだから」
「は?」
陽子が大きく顔を歪めた。茂もまた、鋭い目つきをして安田を見てくる。
二人がそのような反応をするのも、当然だ。安田自身、全くもって共感できない言葉だ。
「二人共、まるで示し合わせたかのようにそう言ったんだ」
「自分の子供が死んで、それを当然と割り切る、か。大した親だね」
愛流が鼻で笑う。しかしその声には明確な嫌悪感が籠もっている。苛立っているのは明らかだった。
「それも、正通道の教えってやつなの?」
「そうらしい。吉田も大平も、そう言ってから正通道の教えを嬉々として語ったよ。ただ――」
そこで安田は言葉を止めた。そして愛流をジッと見つめる。
愛流はどうして自分が見られているのかわからないらしく、首を傾げていた。
愛流の過去については、茂からある程度のことは訊かされている。それ故に躊躇われた。
果たしてこのことを愛流に伝えても良いのだろうかと。しかし、愛流のことだ。仮に黙っていたとしても、自分で調べて事実を突き止めることだろう。
ならば、ここで下手に信頼を失うような真似をするよりも、しっかりと言っておいた方が良いだろう。
「愛流君ももう知っているだろうけど、正通道の教えは痛みが中心となっている。では、なぜ痛みが中心になっているのか。それは、同じ過ちを繰り返させないためだと言うんだ」
そこまで言った瞬間、全員の表情が凍り付いた。陽子が、茂が、そして愛流が、険しい表情をしてこちらを見てくる。
安田は唾を飲み込んだ。それでも口の中が一瞬で乾く。間を置いてから、再び語り始めた。
「子供でも親でも、身近な人間もしくは自分自身が過ちを犯したのなら、身体のどこかに傷を刻み付けるのです。痛みとは記憶。その傷跡を見ることで自らの過ちを思い出し、二度と同じミスを起こさせないようにするのです――そう語った」
安田が一言一言発するごとに、三人の目は大きく見開かれていった。明らかに狼狽し、信じられないと言わんばかりに首を横に振っている。
安田自身、同じ気持ちだった。
愛流は子供の頃、自傷癖があったとのことだ。そしてその理由が、自分がミスを犯したためであることも。
正通道の教えは、まさに子供時代の愛流が自分を傷付けていた理由と一致している。果たして――
「これは、ただの偶然なのでしょうか?」
安田はジッと愛流を見つめた。茂も、陽子も、一人の探偵に黙って目を向ける。
現時点で、この疑問に答えられるのは愛流一人だけだ。彼がどうするのか、皆が注目している。
「知らん」
ただ一言。愛流はウンザリといわんばかりの表情を浮かべてそう言い切った。さきほどまでの驚きは、すっかり消え去っている。
安田を始め、全員があ然とした。まさかここで、知らんと言い切ってしまうとは、思いも寄らなかった。
「そんなことより、ほら。今回の探偵料。ちゃんと割引しておいたから」
そう言って愛流はポケットから四つ折りにした請求書を取りだし、安田に押し付けてきた。そしてキッチンに目を向ける。
「親父。ちょっと陽子ちゃんを借りていくよ」
「えっ? いや、私バイト中なんですけど」
陽子が目を丸くして抗議した。しかし愛流は「いいから」と促してくる。
陽子は茂に目をやった。茂も困り顔を浮かべていたが、ため息交じりに「行ってきなさい」と了承する。陽子はまだ戸惑いを見せながらも、エプロンを畳んで従業員用スペースに入った。
彼女も大変だなと思いつつ、安田は請求書に目をやった。何の気なしにそこに書かれた数字を見る。
記載された数字に違和感を覚え、安田は何度も確認した。その正体に気付き、ドアに向かう愛流を慌てて引き留める。
「ねぇ! 探偵料がいつもと変わらないんだけど!」
「あぁ、言ってなかったっけ? ウチ最近、値上がりしたの。だからちゃんと割引は適用されている」
「いや、そんな話聞いていないよ! 本当に今月の小遣いがヤバいんだって! ちょっと、外に出ようとしないでよ。ねぇ、愛流君さ、聞いているの?」
(続)




