page41「愛流、暴走」
森の中を逃げ惑う黒子を、里奈と九十九は変わらず追い続けていた。
スピードも体力も、訓練を受けた里奈達の方が圧倒的に上のはずだ。しかしいくら走っても、追いつくことが出来ない。
その理由は分かっていた。慣れない森の中ではこの地に慣れている者の方がスムーズに動ける。さきほどから里奈と九十九は、露出した根っこに足を引っかけてしまったりぬかるみによってこけそうになったりと、上手く走ることができずにいた。一方で黒子は森のことを十分に把握しているらしく、スピードを緩める気配がない。姿を見失わないようにするのがやっとの状態だ。
一体この追いかけっこがいつまで続くのか。黒子の体力が尽きるのが先か、それとも里奈達が森の魔力に負けて見失ってしまうのが先か。
里奈は既に息が上がり、足元もおぼつかないような状態だ。隣を走る九十九も、滝のように汗を流し続けている。
二人とも、限界が近いのだ。しかしそれは黒子も大差がないはずだ。
前を走る黒子は、何度かふらつく素振りを見せたし、近くの木に手を突いたことも、一度や二度ではない。
どちらが先に倒れるか。その一点に、この勝負はかかっている。里奈がそう思った時だった。
ついに黒子が前のめりになって倒れた。根っこに足を引っかけたのかもしれない。いずれにしろ、このチャンスを逃す訳にはいかなかった。
――もう逃がさない。
里奈の心が昂る。闘志が疲労を上書きし、さらにスピードを上げた。
後少しだ。数歩進んだ先に、黒子が倒れている。同情すべき過去はある。しかしそれを理由に、何人もの人間を殺したことを許すわけにはいかない。なにより陽子の気持ちを踏みにじったも同然の男を、野放しにできるはずがなかった。
里奈は必死になって手を伸ばし、黒子を捕まえようとする。
しかしそれは敵わなかった。
突如足元に、鋭い痛みが走る。そのまま里奈は前のめりになって倒れ、地面に顔を埋めた。
あまりの痛みに、里奈は声にならない叫び声を上げた。本当に自分が発している者なのかと、疑ってしまうほどに。
「天馬!」
側を走っていた九十九が駆け寄ってきた。そこにいつもの仏頂面はなく、ただあ然とした表情でしゃがんでいる。
一体何があったのか。里奈はうつ伏せになったまま、自分の足を見た。
鉄の歯が、里奈のふくらはぎに食らいついていた。
野生動物を捕獲する時に使う、トラバサミだ。それが仕掛けられている場所を、里奈は誤って踏んでしまったようだ。
偶然罠にかかってしまったのか? いや、違う。
里奈は痛みをこらえながら顔を上げ、黒子に目を向けた。転んでいた黒子は膝をつき、立とうとしている。その時、チラリとこちらに目をやった。
その口元は、笑っていた。
里奈の背筋に、強烈な寒気が走る。
やられた。この罠を仕掛けたのは他でもない、黒子自身なのだ。
逃げる振りをしながら、この場所まで里奈は誘導されたのだ。自分を追えないよう、罠を仕掛けたこの場所に。
おそらく罠はこれ一つではない。この周辺に、まだまだ仕掛けられているはずだ。
黒子はへばりつつも、何の迷いもなく走っていた。おそらく自分が引っ掛からないよう、何らかの目印をつけているのだ。
しかしそれを、里奈達は知らない。のんびりと探していては、黒子に逃げられてしまう。かと言って里奈は動けないし、九十九も下手に動けば二の舞となってしまう。
――万事休すだ。
その言葉が、里奈の頭をかすめた。その間にも黒子は立ち上がり、再び背を向けて走り出した。
「クソッ」
隣で九十九が毒づいた。そちらに目をやって、里奈は表情を強張らせる。
九十九は腰に手を回し、拳銃を取りだしていたのだ。そして左手を銃の底部分に添え、銃口を黒子がいる方角に向けている。
黒子を撃つつもりなのだ。
「ダメです!」
里奈は九十九の肘を掴み、何とか止めようとする。しかし九十九が力強く振り払ったため、手が離れてしまった。
「奴を逃す訳にはいかないんだ!」
「だからって!」
「てめぇは負傷している。何も責任を負うことはないんだから、安心しろ」
そういう問題ではない。いくら殺人事件の犯人とは言え、銃を向けるというのが問題だと言っているのだ。
そのことを里奈は主張しようとする。しかし足の痛みが邪魔をして、それ以上言葉を発することができなかった。
そうこうしているうちに、数メートル先だった黒子の姿が、徐々に遠のいていく。
――このまま見失ってしまうの?
そう思うと、里奈の心は悔しさでいっぱいになった。
後少し。少し走れば届く距離に、黒子がいる。それなのに、自分達にはどうすることもできないなんて。
唇を噛み、里奈は土を強く握った。その時だった。
突如謎の影が飛び込んできて、黒子の顔面を殴り飛ばした。
突然の乱入に黒子は反応することができず、横に吹っ飛ばされてしまう。
一体何が起こったのか。里奈にはすぐ理解することができなかった。隣に立つ九十九も動揺らしく、呆然とした表情を浮かべている。
黒子を吹っ飛ばしたのは、愛流だった。
ここからでは顔をハッキリと見ることはできない。しかし服装は今日の物と一致しているし、何よりあの目立つピンク色の髪を、見間違うはずがなかった。
しかし、何かが違う。
具体的に何が違うのか、里奈には判然とはしない。しかしいつもの飄々とした雰囲気が、今の愛流には全くと言って良いほど感じられないのだ。
などと考えている間に、黒子が立ち上がった。そしてまた逃げようとする。
しかしそれを愛流は逃がさなかった。素早く回り込んで黒子を再び殴りつける。
今度は倒れこそしなかったが、かなりのダメージが入ったらしく、足元がふらついていた。そして愛流から逃れようと後ずさる。それは奇しくも、里奈達がいる方向だった。
先ほどまで追っていた里奈達に近づいていることに気付けぬほど、黒子は余裕がなくなってきていることが伝わってきた。しかし愛流は一切の容赦なく、黒子に近づいては、さらにもう一発拳を顔面に入れる。
黒子が手で顔を覆う。里奈からは背中しか見えないが、それでも鼻血が出たのだろうと察することはできた。その証拠に、股の間から血がポタポタと落ちているのが見えた。
距離が近くなってきたことで、ようやく愛流の表情を確認することができた。その顔を見た瞬間、里奈は一瞬で身体から血の気が引くのを感じる。
愛流は一切の表情を変えることなく、黒子を殴り続けていた。そこに人間性はない。まるで冷たい機械のように、淡々と黒子を追い詰めている。
黒子がズボンのポケットから、固定可能な折り畳みナイフを取りだした。刃を広げ、愛流に切りかかる。
愛流の頬を、刃がかすめた。切られた箇所から、血が真っ直ぐに流れ落ちる。
それでも愛流の表情が変わることはなかった。能面のような顔をしている様は、まるで痛みを感じていないのかと疑いたくなる。そんなことはないはずなのに、そう思わせてしまうだけの何かが、愛流にはあった。
――そうだ。昔だ。
とあることに気付き、里奈は戦慄した。過去の、自分達家族にとって忌むべき記憶が蘇る。
愛流が自傷行為を辞められなかった頃のことだ。
ミスと自分で判断するたびに、自分の腕を切りつけていた。何のためらいもなく、まるで当然であると言わんばかりに。
あの時と雰囲気が似ているのだ。いや、戻ったと言っても良いのかもしれない。
そうだとすると、かなりまずい状況になる。
愛流はかつて、自分を傷付けることに一切の躊躇がなかった。そのような人間が、他者に牙を向けた時、果たして殺すことをためらうだろうか。
里奈にはどうしても、愛流が黒子を殺すシチュエーションしか見えなかった。
「九十九さん。愛流を、止めてください」
震える声で、里奈は懇願した。九十九はこちらに目を向け「はぁ?」と訳が分からないと言わんばかりに眉間に皺を寄せる。
事情を知らない九十九からすれば、なぜ愛流を止めなければならないのか、意味が分からないだろう。しかし今は詳しく事情を説明している暇はない。
今、この場で頼めるのは、彼一人なのだ。
「いいから、愛流を止めて!」
声が枯れんばかりに里奈は叫んだ。焦りがそのまま、声にのってしまった。
すると、耳をつんざくような鉄がぶつかり合う音が聞こえた。その後に悲痛な叫び声が周囲にこだまする。
声がした方向を見ると、黒子が仰向けになって倒れていた。上半身だけは起こしているが、苦痛に悶えた表情を浮かべ、その場から動こうとしない。
よく見ると、足に里奈と同じトラバサミが食い込んでいた。自らの罠にかかってしまったのだ。愛流に追い詰められたことで、目印を見ているだけの余裕がなかったのだろう。
事件の犯人が身動きできない状態は、警察としては本来好都合だった。しかし今この状況においては、ひどく悪い。
これで愛流は、獲物を追う必要がなくなった訳なのだから。
倒れている黒子に、愛流は馬乗りになる。そして表情を無くしたまま、その顔面に一発、二発と、拳を振るった。ただ淡々と、あくまで機械的に。
黒子の顔が血で真っ赤に染まっていく。もはや意識を保てているのかどうかすら怪しい。
「おい!」
さすがに異変を感じ取ったのか、九十九がようやく立ち上がって愛流に向かって駆け出した。しかしもう遅い。
愛流はついに、近くにある石を手に取った。子供の顔ぐらいのサイズはあるであろう、大きな石だ。
あんなものを振り下ろされれば、黒子などひとたまりもない。そして今走り出した九十九では、どうしても間に合うことができなかった。
「辞めなさい、愛流!」
里奈は力の限り叫んだ。しかしその声が、愛流に届いた様子はない。
愛流が石を両手に持ち、大きく持ち上げた。そして今に振り下ろされ、黒子の顔面を潰す。
そう思われた。
突如、さらに別の影が現れて愛流に飛びつき、黒子の上からどかしたのだ。
里奈はその影を目で追った。
愛流の上には、捕まっているはずの陽子が重なっていた。今の衝撃で石は愛流の手から落ちている。
それでも愛流が再び立ち上がろうとしている。顔は相変わらず無表情のままだ。
陽子を前にしても、愛流が止まることはないのか?
里奈が絶望している中、愛流が石を再び手に取ろうとする。腕がわずかに上がる。
そんな愛流の頬に、陽子が平手打ちをした。
何が起こったのかわからないのか、愛流の動きがそこで完全に停止する。叩かれた頬は赤くなり、手に持っていた石が地面に落ちる。
「何しているんですか、このバカ!」
陽子の怒りの叫び声が、森の中にこだました。誰も、何も言葉を発することができない。
「あなたは、もう少しで黒子先生を殺すところだったんですよ? それ以前に、愛流さん自身の心を殺そうとしていたんですよ? それがわかっているんですか!」
陽子が愛流の胸を何度も殴る。彼女の背中しか見えないが、それでも陽子が泣いていることが、里奈にも伝わった。
「あなたがその手で誰かを殺したら、悲しむ人がいるってわからないんですか? 店長も、里奈さんも。今まで愛流さんが関わってきた人達も。何より――何より、私だって!」
ついに陽子が声を上げて泣き出し、愛流の胸に顔を埋めた。愛流の目が、徐々にだが大きく見開かれていく。それが感情を取り戻している様であるように、里奈には見えた。
「本当に――本当に、怖かったんだから!」
陽子が子供のように愛流の胸で泣く。嗚咽が混じり、まだ何か文句を言っているように聞こえたが、もはや聞き取ることはできなかった。
――愛流は、幸せ者だ。
里奈は足の痛みなどを忘れ、安堵のため息を吐いた。
こんなにも身体を張って暴走を止め、心の底から心配してくれる人間がいる。もちろん里奈も茂も家族として愛流を大切に思っているが、そこに一人、陽子という存在も加わった。
少し寂しい気もするが、それ以上に嬉しく感じられた。
「ごめん」
気を抜いていれば聞き逃してしまいそうな小さい声が、愛流の口から発せられた。表情は段々と崩れていき、ついにはクシャクシャな顔をして涙を流し始める。
「ごめん――ごめんよ、陽子ちゃん――本当に、ごめん」
愛流は何度も謝罪をしながら陽子のことを抱きしめる。まるで救いを求めるかのように。
自然と、里奈の頬からも涙が流れた。九十九は目まぐるしく変わる状況について行けてないのか、呆然とした表情で立ちすくんでいる。
本当に、陽子に出会えたことは、奇跡としか言いようがないのかもしれない。愛流が、あそこまで感情を露わにすることなど、今まで一度もなかったのだから。
(続)




