page40「スイッチ」
――どうやって脱出すれば良い?
陽子は上手く身動きができない状態でも、必死になって周囲を見回した。黒子が点けた火はかなりのスピードで燃え広がっており、ますます範囲を広げている。
現状、陽子はロープで縛られている状態だ。身動きができない。ナイフなどがあればロープを切れる可能性もあるのだろうが、黒子が都合よくそのようなものを残してくれている訳もない。
火が広がるに従い、小屋の中に充満する煙の量も増えていった。それが陽子の思考をさらに鈍らせ、咳き込んでしまう。
喉の中に、炭のような重い臭いが纏わりついているのを感じた。このままでは肺にどのような影響が及ぶのか、わかったものではない。
――呑気だな、私。
不意に陽子は、自分のことを嘲笑いたくなった。命の危機が目の前に迫ってきているというのに、この後の健康状態のことを気にしている。一種の現実逃避なのかもしれない。
ただ、それゆえなのか、陽子の心は、不思議と落ち着いていた。しかし命を諦めたわけでは決してない。
まだ死にたくはなかった。家族や友人とも一緒にいたい。将来、どのような大人になるのか、自分自身で確かめたい。何よりも、愛流とまだまだ色んな話をしたい。
そういったものを全部ひっくるめて、陽子は今この場で死ぬわけにはいかないのだ。
もし愛流なら――そう考えながら、陽子は試しに腕を小刻みに動かし、上手くロープが手首からずれてくれないかやってみる。摩擦による痛みが走ったが、これぐらいのことは我慢しなければならない。
何度かやっていると、わずかにだがロープが動いたような気がした。
やったと、陽子は思った。しかし目の前で広がり続ける炎を見て、希望は一瞬で絶望に変わる。
果たして自分がこの火に焼かれるまでに、ロープから脱出することはできるのか? 仮にできたとしても、眠り続ける葵を担いで、鍵のかかった小屋を出ることはできるのか?
――不可能だ。
そう思った瞬間、陽子の心は深い闇に沈んだような気分になった。とても自分一人では、この窮地を脱出することはできない。
もう、ここまでなのか。陽子が絶望に打ちひしがれた、その瞬間だった。
ドンッというけたたましい音とともに、小屋が大きく揺れた。そして二度、三度と同じ衝撃が加えられる。
最初は地震かとも思ったが、違う。正確には小屋全体ではなく、小屋のドアが揺れているのだ。よく見ると木製のドアの中心部分には割れ目ができ、わずかにだが外の光が漏れている。
そして再び衝撃を感じた瞬間、ドアが大きい音を立てて倒れた。そして一人の人物が入ってくる。
黒子が戻って来たのかと陽子は身構えたが、その顔を見て違うと感じた。そして目を大きく見開き、これが死の間際の妄想ではないことを強く願った。
そこに立っていたのは、愛流だった。
愛流は玉のような汗を額に浮かべて「陽子ちゃん」とこちらを見つめるなり叫んだ。そして駆け寄ってきて、しゃがみ込む。
愛流の手が、陽子の肩に触れた。その感触は、これが妄想ではないことを深く物語っている。
そう感じた瞬間、陽子の瞳から涙がこぼれ落ちた。今はそんな場合ではないと分かっているのに、涙を止めることができない。
愛流が、助けに来てくれた。たったそれだけのことが、先ほどまでの絶望を簡単に蹴散らし、陽子の心を温かく包み込む。
「逃げるぞ。ここはもうやばい」
愛流が陽子を担ごうとする気配を感じる。その時、陽子は我に返って首を大きく横に振った。
「私よりも、葵を――友達を助けてください!」
「友達?」
そう繰り返して、愛流は周囲を見回した。今になって気付いたのか、寝ころがる葵、そして矢尾の死体という順番で目に移す。
「お願いします!」
再度陽子は懇願した。助かりたいという気持ちはあるが、だからと言って友達を見捨てて良いはずがない。
例えエゴだとしても、そのような人間に陽子はなりたくなかった。
しかし、愛流は再び陽子に向きなおり、身体を抱き上げる。
「愛流さん!」
「悪いが、まずは君の安全が最優先だ」
そう言いながら愛流は外に飛び出し、小屋から数メートルほど離れた所で陽子を下ろした。運ばれている間、陽子は芋虫のように身体を動かして愛流を止めようとするが、どこからそんな力が出ているのか、一切愛流は微動だにしなかった。
陽子は怒りとも失望とも言える感情を、愛流に抱いた。助けられたことには感謝したい。だからと言って、陽子が助けたい人を、こんなにも簡単に切り捨てるなど、割り切れることではなかった。
陽子は鋭い目つきで愛流を睨みつけた。愛流は気付いていないのか、身を翻す。
その時、予想外なことが起こった。
愛流は再び、小屋に向かって駆け出したのだ。そして自身が蹴破ったドアから、燃え盛る木の家の中に入って行く。
間違いない。愛流は葵達を助けに行ったのだ。ただ陽子の安全を最優先にしたくて、一度外に出た。
その瞬間、陽子は一瞬でも愛流に失望を覚えた自分を恥じた。冷静に考えれば、愛流が人を見捨てるなど、あるはずがないのだ。
しかし心配であるのは間違いない。小屋の火は勢いを増してきている。頼んでおきながらこのようなことを想うのは身勝手かもしれないが、葵にも愛流にも死んでほしくない。
――お願い。皆、無事でいて。
そのように心の中で祈ることしかできない自分を、陽子は恨めしく思った。その時だった。
小屋から、愛流が出てきた。その腕には今も眠り続ける葵の姿がある。
陽子はホッと安堵のため息を吐いた。しかしすぐに、心が曇る。
矢尾の姿が、やはりなかった。
愛流が側までやってきて、葵のことを優しく地面に下ろした。それと小屋が大きな音を立てて崩れるのは、ほぼ同時のタイミングだった。
愛流は燃え崩れる小屋に目を向けた。その後、申し訳なさそうに眉間に皺を寄せ、力なく陽子を見つめる。
「悪い。遺体を――彼のことを、助けることが出来なかった」
陽子はその言葉に、返事をすることが出来なかった。代わりに涙が止めどなく流れてくる。
矢尾は既に死んでいたのだ。愛流を責めることなど、できるはずがない。むしろ陽子と葵を身体を張って助けてくれたことには、感謝の言葉がつきない。
そう理解しているはずなのに、悔しさが心の中に流れ込んでくる。今もまだ、あの炎の中で矢尾の身体が焼かれていると思うと、つらくて仕方がなかった。
中学の、あのつらい過去を持った人間が、同じ大学にいる。それだけでどれほど、心が救われた気分になったことだろう。
その友人の一人は側で気を失い、もう一人は帰らぬ人となった。そして手を下したのは、慕っていた教師。
一体なぜ、こんなことになってしまったのか。
陽子が涙を流し続けていると、愛流がポケットから折り畳み式のナイフを取りだした。刃を葵が縛られているロープに当て、上下に動かして切っていく。
葵の手と足を縛っていたロープが、地面に落ちた。そして愛流は振り返り「動かないで」と陽子の後ろに回る。
「もし痛かったり刃が当たったりするようなら言ってくれ」
今までにないほど優しい声が、背後から聞こえた。涙が流れ続けたが、陽子は動かないよう努める。
ナイフの刃が身体に当たるのではないだろうかという恐怖は、不思議となかった。先ほどまでの経験によって感覚が麻痺しているのか、それとも愛流のことを信頼しているが故のことなのか。それは陽子自身にもわからない。
しばらくして、陽子がずっと感じていた手の圧迫感がなくなった。そしてしばらくして、足が軽くなる。
ロープから解放された陽子は、立ち上がろうとする。しかし足が痺れて、上手く立ち上がることができず、尻もちをついてしまった。
「無理に立ち上がらない方が良い。ちょっと休んでおくんだ」
目の前で愛流がしゃがみ、陽子の顔を覗き込んできた。彼の整った顔が急に目の前に現れたことで陽子は気恥ずかしさを覚え、つい目を逸らしてしまう。
何はともあれ、助かったのだ。そう思った瞬間、腹部に鈍い痛みが走る。
安心感を覚えたからか、黒子に蹴られた時のダメージが戻ってきたのだ。内臓は大丈夫だとは思うが、やはり吐きそうなほど気分が悪い。
「大丈夫か?」
異変を感じ取ったのか、愛流が陽子の肩に手を置いた。陽子は俯きながら、腹部を抑える。
「えぇ。ちょっと先生に蹴られちゃって。でも、そんな大きな怪我とかではないんで、ちょっと休めば大丈夫ですよ」
なるべく明るい声になるよう意識して言葉を発した。そして顔を上げ、愛流の顔を見つめる。
その瞬間、陽子は背筋が寒くなるのを感じた。
愛流は、無表情になっていた。能面、などという表現ともまた違う。
感情がなくなった訳ではない。むしろその逆だ。
純粋な何かが今の愛流を支配しているように陽子には感じられた。そしてこの雰囲気には、覚えがある。
「あの、愛流さん?」
陽子は恐る恐る呼びかけた。しかし愛流は答えない。
ただ静かに立ち上がり、勢いよく駆け出した。森の中を迷いなく走るその姿は、一瞬で見えなくなってしまう。
――まずい!
陽子は痛みが走る身体に鞭を打ち、何とか立ち上がった。足が、腹が、身体の節々が痛み、すぐに身体のバランスが崩れてしまうが、すぐ側にある木にもたれることで、何とか倒れるのを防ぐ。
今は痛みで休んでいる場合ではない。一刻も早く、愛流を追いかけなければならない。
明確な根拠があるわけではない。しかし今の愛流を、そのままにしておくわけにはいかなかった。
先ほど、愛流が見せた表情。
あれは、陽子に淡々と語る黒子と、同じ雰囲気を醸し出していた。憎しみに囚われ、殺人を行うことに一切の躊躇を持たなくなった黒子と。
(続)




