page38「点火」
床はザラザラとした感触で、寝心地は最悪だ。周囲にはどこかで嗅いだ覚えのある臭いが充満していたが、上手く思いだすことができない。
そこまで考えたところで、陽子はゆっくりと瞳を開いた。目の前には木で造られた床が広がっている。しかし水で濡れているのか、何ヶ所か色が黒く変わっているところがあった。
自分は今、木でできた床の上に寝ているのだと、ようやく理解することができた。
一体何があったのか。陽子の中で焦りが瞬時に生まれる。しかし状況を把握するためにも、一度深呼吸をして思い出せる範囲で自らの行動を振り返った。
確か矢尾に呼び出され、葵と共に大学の駐車場へと向かった。その時に愛流から電話がかかってきて、話している時に背後から何かを嗅がされて――
――そうだ、葵!
友の存在を思い出し、陽子は周囲を見回した。
少し離れた所に、葵がいた。自分と同じく床の上に寝転がされ、身体はロープで縛られている。ただ陽子と違い、まだ目は覚めていないようだ。
「葵!」
陽子は出せるだけの声を振り絞って呼びかけた。しかし葵が目覚める気配はない。少なくとも身体は上下に揺れているので、生きているのは間違いない。
彼女に近づこうと、陽子は立ち上がろうとした。しかし身体を上手く動かすことができない。そこでようやく、陽子は自分もまた縛られていることに気が付いた。
身動きができない状況――それを把握した瞬間、陽子の中で恐怖が一気に膨れ上がった。上手く呼吸ができず、口の中が乾く。
「あぁ、伊勢。もう目覚めてしまったのか」
聞き覚えのある声が聞こえ、陽子はそちらに視線を移した。
黒子がその場に立っていた。ガソリンの携行缶を手に持ち、中の液体を周囲に撒き散らしている。
そこでようやく、陽子はこの臭いがガソリンによるものであることを思い出した。そして愛流が、黒子こそこの事件の犯人であると述べていたことも。
「黒子、先生――」
状況がよくわからないからなのか、舌が上手く回らない。縛られていることで立ち上がることもできず、ただ黒子の顔を見上げるしかなかった。
中のガソリンをまき終えた黒子が、携行缶を投げ捨てて陽子に近づいた。無表情に見下ろしてくるその顔はどこまでも空虚で、目は何かに憑依されてしまったかのように虚ろだ。これが本当に、陽子達のよく知る黒子なのかと、疑いたくなる。
「一体、どうして――」
「あぁ、もう隠す必要もないから言っておこう。僕がこの事件の犯人だ。沢良木達は、僕が殺した」
淡々と、あくまで機械的に黒子は述べた。感情の欠けた黒子の声はあまりにも恐ろしく、突っ伏している陽子の身体を震わせる。怒りを持つことすら、忘れさせるほどに。
「じゃあ、舞優のお父さんとお母さんも?」
「彼らは違うよ。僕が見つけたときには、互いを刺して死んでいたんだ。まぁ、元々殺すつもりではあったから、一旦のカモフラージュとして利用はさせてもらったけれどね」
血の気が引いていくのを感じた。身体中の毛が逆立ち、冷や汗が流れる。
今、目の前に立っているのは、本当に黒子なのか? 顔がそっくりなだけの別人ではないのか?
そう疑わずにはいられなかった。あれほど仲が良かった舞優の両親を殺そうなどと、どうしてそんな発想ができるだろう。なんでその死体を利用しようと考えられるのだろう。
「なんで、そんなことを――」
「決まっているだろう。彼らは舞優の近くにいながら、虐めの事実に気付くことができなかったんだよ? そんなの、舞優を見殺しにしたも同然じゃないか」
余りにも極端な意見だ。暴論と言ってもいい。しかし黒子の一切変わらない表情から、その意見を心から信じ切っていることがわかる。
「まぁ、それは君らにも言えることだけどね」
そう言って部屋の端に向かって歩き出した。そしてしゃがみ込み、壁に手を突く。
彼の姿を追っていた陽子は、そこで信じられない者を見て「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
部屋の隅に、矢尾がいた。木でできた床の上で、仰向けになって倒れている。しかしそれだけではない。
矢尾の目は、大きく開け放たれていた。舌を垂らし、口の端にはわずかに泡がついている。首にはロープか何かで縛られた痕が生々しく残っていた。
既に絶命していることは、目に見えてわかった。
「本当はね、伊勢。君のことは最後に罰するつもりだったんだ。舞優と同じ死に方でね。まぁ佐々木と一緒に来てしまったから、やむなく順番を変えることとなったけれど」
黒子の声には、やはり感情がこもっていない。AIのように機械的口調で、ただジッと矢尾の死に顔を見つめている。
「伊勢。君はクラスの中で、最も舞優と親しかった。それは感謝しているよ。だからこそ、許せない。一番身近にいながら、どうして舞優が虐められていたことに気付けなかったのか」
陽子の胸に、突き刺さるような痛みが走る。心臓の鼓動が、早くなった。
「どうして、舞優の心の支えにならなかったのか」
涙が目からこぼれた。鼻が詰まり、息がしづらくなる。それでも、胸の痛みをごまかすことはできなかった。
「なんで――なんで舞優が自殺するまで、放置していたのか!」
ついに黒子が、激昂した。横から見えるその瞳には、今までの機械的なものとは違い、感情が籠もっている。しかしそれは、決して良いものではない。
怒り、悲しみ、そして憎しみ――そうしたありとあらゆる負の感情が、今の黒子を覆いつくしているように陽子には感じられた。しかしそれを言うことはできない。
黒子の言葉は、今まで陽子が自分自身に向け続けたものだった。
なぜ自分は、舞優を死なせてしまったのか――この五年間、何度も何度も問い続けた。一体何が正解なのか、それすらもわからないと言うのに。
「安心しろ。別に君だけを責めるつもりはない。僕も含めた、二年三組全員のせいだ。責任は全員に取らせるよ」
黒子が再び無表情となる。しかしそれよりも、陽子は黒子の言葉の意味を察し、さらに恐怖した。
つまり黒子の、当時にクラス全員を殺すつもりだと言うのだろうか。
そんなことは不可能だ。当時のクラスは三十人。いくら何でも数が多すぎるし、何より中には他県に引っ越した者もいる。そうした人々までターゲットに入れるとなると、黒子の犯罪の方が早くバレて捕まることとなるだろう。
それぐらいのことは、陽子にもわかった。しかしそれは裏を返せば、捕まるまでの間は何人ものクラスメイトが死に続けると言うことだ。果たしてそれを、陽子は看過できるだろうか。それ以前に、自分と葵もこれから殺されようと言うのに。
――そうだ、葵!
そのことに気付き、陽子の意識は一気に覚醒した。
今この状況は、自分一人が死ぬどうこうという話ではない。自分が諦めれば、すぐ側にいる友人も絶命することとなる。
そんなことはできない。そんなこと、見過ごして良いはずがないのだ。
「やめて、ください!」
力の限り、陽子は叫んだ。黒子が立ったまま、陽子を見下ろしてくる。
「舞優は、こんなことを望んではいません! あの子は、誰よりも優しくて、人が傷つくことを何よりも嫌った。そんな舞優が、先生がこんなことをして、悲しまないと思うんですか!」
先ほどまでの動揺は、怒りによって消えた。干満な喋り方はなくなり、ハッキリと陽子は言い切ることができる。
能面のような黒子の顔が、わずかに変化した。瞳を痙攣させ、口角を引きつらせる。動揺しているのは明らかだった。
「お願いです。あの頃のクラス全員を殺すなんて、バカなことは辞めてください。そんなことをしても、舞優は帰ってこないし、何よりも喜ぶはずがない。むしろ自分のせいだって、より一層苦しませることになってしまいます」
「黙れ!」
黒子の鋭い声が、小屋の中に響いた。かと思うと陽子の腹に衝撃が走り、ゴロゴロと転がって背中が壁に激突する。
黒子に腹を蹴られたのだ。一瞬だが息ができず、陽子の視界が上に下にと大きく揺れる。胃から何かがこみ上げてきそうになるが、反射的に飲み込んだ。
「このままお前達を、のうのうと生かす訳にはいかないんだよ! 罰だ、そう、罰しなきゃいけないんだ!」
黒子が何度も陽子を蹴る。痛みにこらえながら、陽子は顔を上げた。黒子の顔は焦燥に駆られ、額から玉のような汗を流している。深く刻まれた皺が、醜く歪んだ。
その顔を見ていると、徐々に心が落ち着いてくる。不思議と、怒りと恐怖はもう湧いてこなかった。むしろ可哀そうとすら思えてくる。
人は憎しみに囚われると、ここまで変わってしまうものなのか。
「何だ、その目は」
黒子の怒りを滲ませた声が飛んできた。しかしその瞳は揺れ、まるで何かに怯える小動物のようだ。
陽子は何も言わない。ただジッと、黒子の顔を見つめ続けた。
しばらくの間、睨みあいが続く。先に視線を逸らせたのは、黒子の方だった。
「どうせ、君はここで死ぬんだ。炎に焼かれる間、自分の罪を悔いるがいい」
そう言って黒子はスラックスのポケットからマッチを取りだし、火を点けた。マッチ棒を床の濡れた部分に落とす。
床に撒かれたガソリンに、火がついた。濡れた箇所に沿って、火が走り出す。
黒子はその様子を見届けると、黙って小屋を出て行った。残されたのは死体となった矢尾に、眠り続けている葵。そして身動きが取れない陽子だけだった。
――さぁ、この状況をどうする?
(続)




