page35「愛流の間違い」
「――あんた、そのことを、ちゃんと陽子ちゃんに伝えたの?」
愛流の話を聞いて、しばらくの間は沈黙が流れていた。思考が整理され、ようやく里奈はその第一声を口にできる。
自分でも声が震えているのがわかった。しかしそれは驚愕によるものではない。
愛流がこれから何を言うのか、わかっている。わかっているからこそ、里奈は今、怒りを覚えているのだ。
「いいや、言っていない。一応しばらくの間は、今はどこにいてこれからどこに向かうのか、メッセージで教えるように伝えてはいるけど」
里奈が予想していた通りの言葉が、愛流の口から流れてきた。その瞬間、里奈は怒りに任せて、目の前の机を激しく叩く。
「あんたは一体、何を考えているのよ!」
もしも愛流が陽子にも伝えているのなら、常に彼女の側にいただろう。それ以前に加藤夫妻の焼死体が発見されたあの日、周囲を気にしながら里奈にコッソリと黒子の過去を調べるように言ったりはしない。
愛流の話を聞いている途中から、薄々感づいてはいたのだ。愛流はこの重要事項を、陽子には話していないのだと。
何らかの意図があるのだろうと、のんびり考えていた。しかし命に関わるのであれば、全く話は変わってくる。
「あんた、自分がどんな選択をしたのか、わかっているの? あんたの推理通りだとすると、今この瞬間、黒子が陽子ちゃんを狙ったとしても、おかしくないのよ」
「可能性は否定できないけど、俺は陽子ちゃんを狙うのは、最後だと思っている。あのクラスで舞優ちゃんに最も近いのは、話を聞く限り陽子ちゃんだ。だからこそ黒子は特別扱いして、陽子ちゃんを最後のターゲットにする可能性の方が高い。もちろんこの推測が外れた時のことを考えたからこそ、さっきも言ったように常に場所を教えるよう念を押したんだ」
「そういうことを言っているんじゃない! なんで陽子ちゃんが危険な状況なのに、それを彼女に教えないのか聞いているのよ。それが一体どういうことなのか――」
「それで陽子ちゃんの心が壊れたら、どうするつもりだ!」
会議室内に、愛流の怒鳴り声が響いた。そのあまりの迫力に里奈はたじろいでしまい、それ以上言葉を発することができなくなってしまう。
いつも飄々としている愛流が、このように怒りを露わにすることは、滅多にないことだった。
「姉貴の言っていることは、正しいよ。まさにその通りだと思う。けど、今の陽子ちゃんは、これ以上ないぐらい傷ついている。かつてのクラスメイトが三人も死に、この事件には自殺した親友が関係していて、そしてその親友の両親が、死体で発見された。おまけに舞優ちゃんが虐められていたことに気付けなかったということで、陽子ちゃんは今、自分をかなり責めている。その上で慕っている教師こそがこの事件の犯人で、しかも自分を含めたかつての教え子達の命を狙っているって知ったら、彼女の心はどうなる?」
里奈は黙って聞くしかなかった。怒りはまだ消えないが、愛流が言わんとしていることは理解できた。
今の陽子は、精神的にかなり弱っている。これだけ自分の見知っている人間が短期間で死んでしまったのであれば、それも当然のことだ。その上で、その身を心配していた黒子がこの事件の犯人だと知り、自分も狙っていると知ったら、果たしてどうなるのか。
トラウマになることは、間違いなかった。それどころか、心のバランスが崩れてうつ病を発症したり、下手をすれば精神そのものが崩壊したりしかねない。
考えすぎかもしれない。しかしその可能性が一瞬でも頭を過ると、どうしても追い出すことができなかった。
だからこそ愛流は、陽子に真実を黙っているという選択を取ったのだ。正しいかどうかはともかくとして、彼女の心を気遣って。
他者の心を思いやるなど、今までの愛流では考えられなかった。茂が睨んだ通り、陽子は愛流に良い影響を与えている。
それでも――
「今からでも遅くないわ。陽子ちゃんには、やっぱりちゃんと言うべきよ」
里奈の言葉に、案の定愛流は首を縦に振らない。
愛流の主張は理解できた。それでも里奈の意見は変わらない。
例え陽子へのショックが大きかったとしても、知っているのと知らないのとでは、身の守り方も違ってくる。
「あんたは、陽子ちゃんのことを舐め過ぎていると思う。彼女は、あんたが思っているよりもタフよ」
「人間の心なんて、目に見えないもんなんだぜ。それは姉貴が、自分の価値観に基づいて陽子ちゃんを過大評価している可能性だってある」
「それはあんたもじゃない? 心が推し量れないって言うのなら、あんたも陽子ちゃんのことを過小評価しているかもしれないでしょ」
里奈の言葉に、今度は愛流が押し黙った。この反論はどうやら予想できていなかったらしい。
しかし里奈も、何の根拠もなくこのように言ったりはしない。
「愛流。あんた気付いていた? 陽子ちゃんはどんなに驚いても、どれだけ泣いても、それでも今回の事件で、自分が決めたことを曲げようとはしなかった。最後まで自分も、事件を追い続けている覚悟を見せているのよ。あんたと一緒に」
里奈はそっと愛流の肩に手を置いた。愛流は俯いて、表情を見せようとはしない。それでも困惑の表情を浮かべているであろうことは、想像に難くない。
普段は何事もそつなくこなすのに、人間関係になると本当に不器用になる。そんな義弟を、里奈は放っておくことはできなかった。
「――わかったよ」
そう言って愛流はため息を吐き、スマートフォンを取りだした。その姿を見て、里奈はホッと安堵のため息を吐く。
もしここでまた意地を張ればどうしようと、内心ヒヤヒヤしていたのだ。とにもかくにも、素直に聞いてくれて助かった。
しかしスマートフォンを持った愛流に、指を動かす素振りは見られない。むしろその顔は見る見る驚愕の表情へと変わっていき、もはや何かに恐怖しているようにも見えた。
「どうかしたの?」
沈黙に耐えかねて、里奈は訊ねた。しかし愛流はまるでフリーズしてしまったかのように微動だにしない。かと思うといきなり歩き出し、会議室から出て行った。
「えっ、ちょっと!」
里奈は慌てて愛流を追いかけた。今勝手に出て行かれるのはまずい。
警視庁の刑事も来ているのだ。もし一般人を警察官のみが立ち入れる区域に入れていることがバレれば、かなり面倒なことになる。
しかし今の愛流は、こちらの都合など一切気にする様子はないらしい。早足で歩きながらどこかに電話をかけている。
「一体どうしたって言うのよ!」
走ることで、ようやく愛流に追いついた。しかし愛流は里奈の方を向こうとはしない。ただ鬼気迫る表情でスマートフォンを耳に当て続けている。
「姉貴の言っていた通りになっちまった」
「はい?」
「クソッ、何で出ないんだよ!」
愛流が毒づき、スマートフォンを耳から離した。どうやら相手が電話に出ることなく通話が切れたらしい。しかし愛流は間髪入れず、画面を操作して再び電話をかけた。
「何がどうなっているのか、ちゃんと説明して」
「とにかく、姉貴はこの後、パトカーを出してくれ」
「パトカーって」
「もしくは覆面車両でも良い。とにかくサイレン鳴らして、全速力で走ってくれ」
「一体、何を言って――まさか、陽子ちゃんが?」
嘘だと否定して欲しいと思いつつ、里奈は恐る恐る訊ねた。愛流は苛立ちを露わにしながら、やや躊躇って頷く。
里奈の身体から、一気に血の気が引いた。言葉が上手く出てこず、口の中が瞬時に乾く。
愛流がここまで取り乱すことなど、陽子以外に考えられない。そうわかってはいても、やはり他の可能性であって欲しいと思ってしまう。今からでも良い、嘘だと、悪ふざけだと言って欲しい。しかしそんな甘い現実など、到底訪れるはずがなかった。
「さっき、陽子ちゃんからメッセージが来ていた。これから黒子に会いに行くって。それ以上詳しいことはわからないが、今黒子に会わせるのは絶対にダメだ」
早口で愛流がまくし立てた。里奈の心にも焦りが生まれ、自然と歩行速度が速くなる。階段を駆け下りる音が通路に響き、いつも以上にうるさく聞こえた。
ある程度予想していたこととは言え、愛流に実際に言葉で言われてしまうと、やはり平静でいることなどできなかった。
階段を降り、自動ドアを抜けて、外に出た。太陽の光が目に飛び込んでくると同時に、愛流の大きな声が里奈の鼓膜を振動させる。
「陽子ちゃん、行くな!」
(続)




