page32「呼び出し」
大学の講義室に入って席に座るなり、陽子は腕に顔を埋めた。少しでも眠れれば気も紛れるかもしれないと思ったのだが、微塵も眠れる気がしない。むしろ頭の中のモヤモヤが膨らむばかりだ。
寝ることを諦めた陽子は、窓の外を眺めることにした。陽子の心境とは反比例し、空は雲一つない晴天だ。
この三日間、ろくに眠ることができていない。気にしないようにと努めているが、そう意識すればするほど考えてしまう。
自分は結局、誰一人守ることができなかった。大平も、そして舞優の両親も。
自分は愛流のように頭脳明晰な訳ではない、ただの愚鈍な女子大学生なのだと痛感せざるを得なかった。
一体自分は、何の役に立ったと言うのだ。積極的に関わっておきながら、ただ周囲の状況に振り回されていただけではないか。
思い上がっていたのだと、陽子は自分の浅はかさを恨まずにはいられなかった。
愛流が戻ってきて、気持ちをぶつけ合って、また助手として認めてもらえた。それが嬉しくて、自分ならばきっとできると思って――その結果空回りし、何もすることができなかった。
――本当に、情けない。
陽子は窓の外を眺め、再びため息を吐いた。その時、誰かに肩を叩かれる。
振り返ると、そこで葵が隣の席に座る姿が目に映った。
「おはよう」
「うん、おはよう」
葵の声は、いつもと違って沈んでいた。しかしそれも無理はないと思う。
大平と加藤夫妻の死は、既に報道されている。葵が知っている可能性は高いし、だとしたらこのように気分が落ち込んでいるのも当然だった。
「大丈夫?」
「うん。陽子こそ」
「えぇ。大丈夫よ」
二人の会話はそれ以上長くは続かなかった。チャイムが鳴るまでの間、他の学生が世間話をしている中、陽子と葵の間に流れる空気は、まるでそこだけ別の空間に切り離されたかのように沈んでいた。
おそらくはたったの一分程度。その短い時間が、陽子は十分にも二十分にも感じられた。その思い沈黙を破ったのは、葵の第一声だった。
「明日さ、吉田さんの葬儀が行われるんだって」
「うん。そうみたいだね」
「陽子の所にも、案内が来た?」
「うん」
陽子は自分でもわかる暗い声で答えた。葵もまた沈んだ表情で俯いている。
昨晩になって吉田咲の通夜、葬式の案内状が届いた。彼女だけではない。郵便受けには、大平理香の葬儀に関する葉書も入っていた。七海に関しては、家族全員が亡くなっているので、そのせいで遅れているのだろう。
「陽子は、参加するの?」
「うん。そのつもり。学生課にも相談に行ったし、たぶん明日、講義を受ける予定の先生達には伝わっていると思う」
本心を言えば、陽子としては葬儀に行くことに抵抗を覚えていた。七海達への苦手意識や、もしも本当に彼女らが舞優を虐めていたのだとしたら? という疑いが理由ではある。
それでも、彼女らが同じクラスメイトであることに変わりはなかった。そして、自分が関わりながらも、救うことができなかった命。
だからこそ葬儀ぐらいには参加し、目を背けるべきではないのだと、陽子は使命感にも似た気持ちを抱いていた。
「葵はどうするつもり?」
「うん、私も参加しようとは思っている。何だか、無視する気分にもなれないし」
いつも明るい葵が、ここまで沈んでいる姿を見るのは、非常に珍しいことだった。身近な人間の死がこんなにも大きいことを、陽子は改めて痛感する。
その時、陽子達の机が軽く振動した。それは机の上に置かれた、葵のスマートフォンによるものだった。
葵はスマートフォンを手に取り、画面を見つめる。そして「あっ」と声を漏らした。
「矢尾君からだ。何だか話したいことがあるんだって」
「矢尾君から?」
そう言えばと思い、陽子は周囲を見回した。この時間の講義はマーケティング論で、矢尾も受けている。しかし今この講義室内に、彼の姿は見当たらなかった。
「何だか亡くなった七海さん達の弔いのことで、黒子先生も交えて話をしたいんだって。今は先生と一緒に大学の近くに来ているみたい」
「講義をさぼって、何をしているのよ」
そう言いながらも、陽子は矢尾の気持ちが何となくだがわかるような気がした。
沢良木達の死は、自分達にかなりの精神的ショックを与えた。正直このまま講義を受けたとしても、頭に入ってくる自信はない。
ここでふと、陽子の頭に疑問が浮かんだ。そしてそれを確認するため、自分のスマートフォンを確認する。
やはりだ。自分には葵と同じメッセージが送られていない。
同じ講義を受けている以上、矢尾も陽子が大学に来ていることは把握しているはずだ。しかし声をかけられたのは葵だけ。
単純にうっかりしていただけなのか、それとも避けられているのか。後者に関しては心当たりがないので、陽子の被害妄想だと思いたい。
しかしもう一つ気になることがある。
「これってさ、私達が中二の頃のメッセージグループで相談しても良さそうな内容だよね? 何でそうしなかったんだろう」
そう言った途端、葵がようやく顔を上げ「確かに」と目を丸くして共感した。
沢良木達の弔いに関することとなると、矢尾や葵個人の問題ではない。むしろ当時のクラス全員の問題であるはずだ。
五年前に作ったメッセージグループだ。既に退会した者や、他県に引っ越した者もいるだろう。それでも、そちらで今葵が言ったような内容を流すべきではないかと、どうしても陽子には思えてならない。
自分が考え過ぎているだけなのだろうか。それとも――
「ねぇ、そのメッセージ、私にも送ってもらってもいい?」
「良いよ」
そう言って葵は矢尾とのメッセージ画面をスクリーンショットし、陽子のメッセージアカウントに送信した。その写真を受け取った陽子は、そこに書かれた内容を確認する。
自分の杞憂だとは思うのだが、どうしても気になってしまう。一度愛流に相談した方が良いかもしれない。
そう思いながらメッセージを読み進める。文末に差し掛かった時、陽子は「あれ?」と思わず声を漏らしてしまう。
「ねぇ、葵。メッセージを最後まで読んでないでしょ」
「えぇ、読んだよ」
「じゃあ、最後のこの文は何?」
陽子がそう言うと、葵がこちらのスマートフォンを覗き込んできた。陽子は送られてきた写真の下部を指さす。そこには次のように書かれていた。
〈このことについては、とりあえずは他の誰にも言わないように。もちろん、伊勢にも〉
「あっ、本当だ」
葵はばつが悪そうに目を逸らした。陽子はため息を吐きそうになるが、何とか堪える。
葵は良い人ではあるのは間違いないのだが、どうにも抜けているところがある。これでは内緒話など、簡単に彼女に打ち明けるのは難しそうだ。
「まぁいいや。とりあえず、会いに行ってみよう」
「えっ?」
葵が信じられない者を見るかのように陽子に目を向けた。陽子は立ち上がり、友人を見下ろす形となる。
「良いの? これから講義だよ?」
「いやまぁ、そうなんだけどさ。正直、授業を受けても上の空になるばっかな気がするし、それだとここに来ている意味がないような気がするんだよね。ズルで出席登録だけするって訳でもないし、今回はそれで勘弁してほしいって言うか――」
「でも、矢尾君は陽子にはこのことを秘密にしてって言っているんだよね?」
「それに関しては、あれよ。私が葵のスマホを横から見たって言うことで」
そう言いながら陽子は立ち上がった。
今、葵に言った言葉に嘘はない。それにこのメッセージは、どうにも気になる。
文面からだと、矢尾は陽子にひた隠しにしたいかのような意思が感じられる。しかしその理由が陽子にはわからない。だからこそ本人に問いただしたいのだ。
以前の陽子からでは、考えられないことだ。特にメンタルが弱っている今のような状態なら、例え思っても実行には移さなかっただろう。
これもまた、愛流から受けた影響の一つに違いない。
「どうする? もちろん講義をサボれって言うつもりはないし、葵が単位を優先するのなら、私はそれを決して否定しない」
「それ、逆に断りにくいよ」
葵がやや恨めしそうに見上げてきた。そしてトートバッグを持って立ち上がる。つまり陽子と共に行くということだ。
――そうだ。一応報告しておいた方が良いか。
歩き出す前に、陽子は葵に少し待ってもらうよう言ってからスマートフォンを取りだした。
舞優の両親が見つかったあの日以来、愛流にはまだ会っていない。また何か進展があれば連絡する、ただそれまでは自分がこれからどこに向かうのか、メッセージを送るように言われているのだ。
単に心配してのことなのか、それとも何らかの意図があるのか、陽子にはわからない。しかし愛流がそう言っている以上、そうした方が良いのだろう。
陽子は愛流にこれから矢尾と黒子に会うことをメッセージで伝えると、葵と共に教室を後にした。
(続)




