page3「帰還」
「――だ、そうだよ」
そう言って茂はカウンターから出てくると、コーヒー豆を入れた樽へと近づいていった。そしてその向こう側を上から覗き込む。
樽の側では、一人の青年が寝転がりながら不貞腐れたような顔をしていた。夏だというのに黒色の長袖シャツに身を包み、同じく黒のスリムパンツを履いている、髪は見ていて目が痛くなりそうなパステルピンクに染め上げているが、陽子ならばその顔を見て腰を抜かすこと間違いないだろう。
陽子が探していたこの青年――愛流は最初から店内にいたのだ。
「親父、誘導しただろ」
愛流は立ちあがるなり服についた汚れを手で払いながら、茂を睨んできた。この店の店長は首を傾げて見せる。
「誘導とは何のことだい? それより、汚れは外に出てから払ってくれないかな。ここは喫茶店だよ」
「知るか。わざと陽子ちゃんの不満を吐き出させて、俺に聞かせたんだろって言ってんだよ」
茂は何も答えない。しかし心の内では、やはりバレていたかと舌を出していた。
陽子が愛流に中々会えないことでストレスを溜めつつあったのは目に見えてわかった。そしてその原因を作っている息子は、旅の資金が尽きたということで、つい先ほど帰ってきたのだ。その時、店の窓から陽子の姿が見えたので、慌てて隠れたという次第だ。
ちょうど良いタイミングだとも思った。陽子のストレス発散を助けるだけでなく、自分が彼女にどのような影響を与えているのか、わからせても良いかもしれない。だから茂は陽子が話しやすいように話題の流れを作り出した。そしてその目論見は、見事成功したと言って良いだろう。
しかし――
「うっわ、コーヒー臭っ! これ洗濯で落ちるよな? 落ちなかったら親父がクリーニング代出せよ」
愛流は服を嗅ぎながらブツブツと文句を言っている。その顔に悲壮感はない。
効果はなかったかと、茂は若干ではあるが落胆した。
思えば、愛流に多少の罪悪感を持たせるだけでは、足りなかったかもしれない。
探偵は物語のようなヒーロー的存在では決してない。調査のために、時には裏社会の人間と関わりを持つこともある。そもそも探偵業の主な内容が浮気調査や人探しと、善し悪しはともかく他者の周辺を嗅ぎまわる汚れ仕事なのだ。
愛流はもはや、そうした善悪の感覚が鈍っているのかもしれない。ましてや探偵の仕事を薦めたのは茂自身だ。共感能力がどこか欠けている愛流の姿を見るたびに、自分の教育は果たして正しかったのだろうかと、つくづく考えさせられる。
――いや、違うな。
茂は大きくため息を吐いた。
愛流に善悪の区別がついていないのは、初めて会った時からだ。
娘の里奈を人質に取ったり、自傷行為に走ったりと、何かを傷付けることに愛流は一切の躊躇を見せない。
だからこそ、茂は陽子が愛流の助手になるよう仕組んだのだ。自分の息子に、誰かと行動し、共感することを覚えて欲しかったから。
四か月前の事件を通し、少しはそういった能力を身につけれたのではないだろうかと期待した。しかしこの反応を見ると、本当にそうだったのだろうかと、やはり心配が勝ってしまう。
「何黙りこくってるんだよ。それより、レモンスカッシュをくれ」
愛流は太々しくカウンター席に座り、手招きするようにオーダーしてきた。茂は呆れれば良いのか怒れば良いのかわからず、ただ黙ってグラスを取りだすしかなかった。
(続)




